ビギナーの風水学講座:目次
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宗教と神社仏閣に関する質問


◆神社仏閣は由縁が大事とおっしゃられていますが、神社仏閣での式をする場合にはどういった観点で式場を選ぶべきでしょうか?
自分達の血縁との関わりなども考慮するとなると自分のご先祖様を辿らなくてはならないのでしょうか?
また、結婚式の時期や方位も重要なのでしょうか?
それとも結婚式そのものにはあまり意味は無いのでしょうか?


結婚式は単なる式と思えばそうですが、神社仏閣で式を挙げられる場合は、完全に宗教儀式です。結婚してその家の一員となるということは、その土地の氏子に加わるという意味で、土地神さまに、結婚のご報告をすると考えると良いでしょう。
そういう意味では、できるだけ直接の関わりのある近くの神社仏閣か、その同じ系列の本山クラス、また祭祀されている祭神と同じ祭神であれば、場所が離れていても同じ系列になります。

由縁というのは、何も人間の直接的な血縁に限ったことではなく、ちゃんと神仏の世界での家系のようなものがあります。お参りに行かれた時に祭神のことが書かれてあるものを読みますと、なにがしのミコトはどこそこの御子で、その夫は誰それで、とか、ちゃんと人間と同じように由緒書きが書かれています。
最近は神仏の世界もポップになりすぎて、若い人の読めないような由緒書きは外に出さなくなりましたが、神社本庁で出している「神社名鑑」にすべて書かれています。(手元にあります。一般書ではありません)

方位は吉方であるに越したことはありませんが、近くで挙式する場合は、泊まるわけではなく日帰りで済むので、そんなに気にする必要はありません。大凶方さえ避ければ、後は多くの人の絡むことですから、無理のない範囲で決められて良いでしょう。後は普通の移転や旅行と同じです。

基本的に、結婚と結婚式は別物なので、あまり結婚式にエネルギーを注ぎ込むよりも、新生活をつつがなくスタートできるように努力されるほうが本筋ではないでしょうか。
しかし結婚式はかなりおおごとですので、この大イベントを新カップルで協力して無事に乗り切るのも、一つの経験として大切なことです。親や周囲の見栄が先立つことなく、政治的な口出しに振り回されたりしないよう、二人の力で出来る範囲で、しっかりと心をあわせて事を運ぶのも、一つの試金石ではないでしょうか。

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◆私は気学好きで、初心者向けの本を読んだりしています。「九星気学」というキーワードであるサイトを見つけ、時々掲示板を読んだりしていました。その中に、この人はひょっとして新興宗教がらみの占い師ではないか?と思った人物がいます。
掲示板上で「知り合いの占い師を紹介しますのでメール下さい」とありました。信者を集めるために占いを利用している団体があるので、掲示板の内容から見てそこかな?と。
このように、何気に霊感商法や新興宗教団体が隣あわせに存在するという状況が、ネット上でも巧妙に展開されているという事実を知りました。
タオさんは、特定の団体宗教とは関係ない、とはっきり書かれておりますが、何も言及されてない場合、どこにどういう団体や人物がいるのか見分けがつかないという状況は、正直怖いことです。


確かに何も書かれていない場合は、どこかと関係している人が多いですね。私のように「関係ありません」とはっきりしてるほうが珍しいみたいです。
私の場合はあくまでも純粋に、仏教哲学の大切さを伝えたいという思いがあるので、ネット上で自分なりに展開しています。本来は風水のサイトに仏教のコンテンツがあるのはおかしいのですが、実際にこの仕事をしていると、人間の幸不幸は根本的には信仰の筋が真っ直ぐであるかどうかにかかっている、ということが、やればやるほど身に沁みて感じられるので、二つのコンテンツを分離していません。

ただどうしても、占いというのは、困っている人や変わった人、人と違う生き方をしている人達が集まる率が高い為、宗教の宣伝に使われることが多いのでしょう。
それでも、困っている人や変わった人だけでなく、もっと違う目の開けた(開けかかっている)人達も多いので、やっていられる訳です。中間が少ないです(笑)。
古今東西、人の不幸を餌にする団体が出てくるのは同じで、詐欺行為も絶えないわけですから、結局はいろんな情報の中で、自分がどんなものを取捨選択するかではないでしょうか。

でも私も、どことも関係していない、と言っても、独学でここまで来れたわけではありません。仕事の関係で偶然お供をするようになった人が、どこにも属さない法華の行者さんで、その師匠があってこその現在なのです。その師匠が仏教に関しては一種の天才で、伝統宗派の僧侶でも熱心な人達は勉強に来てたぐらいで、私も門前の小僧でここまで来ました。
このスタンスというのは、日蓮上人が「自分はどこの宗派の僧侶でもなく、一介の法華経の行者である」という立場を貫いたのと同じです。(日蓮上人は日蓮宗を立教開宗したわけではなく、死ぬまで法華経の実践をしていただけで、日蓮宗は弟子が立てたものです)

決して自己流でやっているわけではないのですが、こういう生き方や、仏教の勉強をしたり読経、写経を教えるような立場になってしまうと言うのも、生まれた時からの縁みたいなものが左右していることを強く感じます。だから、やっぱり前世とか見えない世界から仕込まれていることってのは、確実にあるんですよね。
そういう意味では、新興宗教団体に縁が出来るというのも、結局は自分自身の持っている縁なのでしょうから、「分からなくて騙された」という人は、反省の余地があるのではないでしょうか。

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◆3年前に新興宗教の仲間入りをさせられましたが、それは「日蓮宗」の一派だったのです。しかし、よくよく彼らがいう教えを読み返すと、なぜか日蓮聖人が仏陀より偉くなっており、法華経の教えより日蓮聖人の言動が重要視されているのに、かなりの疑問と不快感をおぼえました。
彼らにそのことを問いかけると、「信心がないから理解できない」とか、「自分たちも理解できていないことがあなたに理解できるわけがない」とか、ばかばかしくも、どこかの悪徳新興宗教の殺し文句と同じ論理で攻められたので、現在は彼らとは連絡を取ることをやめました。いったいどこまでがほんとで誰を信じればいいのでしょうか(仏陀や日蓮聖人がうそつきとは思っていませんが)。
それと、彼らにもらった読経用具一式の処遇に悩んでいましたが、タオ様のHPでのアドバイス通り、送り返そうと思っています。しかし、うっかり彼らに連れ込まれた日に署名してしまいました。そのことが後々尾を引くようなことは無いものでしょうか。


まず、一番気になるのは、その新興宗教がインチキであるか否かよりも、あなた自身が「仲間入りをさせられた」「彼らに連れ込まれた」という、中途半端で責任転嫁的な言い回しをなさっていることです。あくまでも、行ったのは自分の自由意志で、本当に嫌だったり、きちんと内容を見極めて行っていれば、仲間入り「させられる」筈はありませんね。ふとした興味から行ったとしても、合わないと思えば、「やめます」という訳にはいかないのでしょうか。このへんは、人間は頑固になるべきです。

新興宗教に関わってしまう人の多くが、「無理やり入会させられた」と言われます。「ついフラフラついて行ってしまった」「騙されていたのに気づいた」とおっしゃるのは、まだいい方です。この体質が、新興宗教にかかわる多くの人の特徴だと言っても過言ではありません。
信じやすくて突っ走ってしまうタイプの人は、止める時もわりとはっきりしていますので、こういう、責任を他者に転嫁するような相談のしかたはなさいません。あと、商売がらみで入会せざるを得なくなり、そこをやめると生活してゆくことができない、というのは、信仰ではなく営利団体ですから、商売のありかたはご自分で決めて下さい。ですから、新興宗教に関わる人に対して、私がつい、きつい言い方をするのです。

本当は、既成宗教がダラシがないからこういう団体がはびこるので、何か宗教的な団体に、ついつい、いつも関わってしまう(関わっていたい)人は意外に多いものです。
真理を学びたい、修行したいという気持ちは認めます。ところが、本当に自由意志できちんと仏法を学べる場所をいうものを、私は寡聞にして知りません。たまにふとした縁で、個人的に勉強の場を設けている人に出会うのがセキの山です。そういう事情はさておき、勧誘や強制によって会員を増やしたり、入会してから束縛の多い団体には近づかないのが無難です。

また、仏や仏典よりも宗祖が偉くて、その書いたものばかり読んでいる傾向があるのは、既成宗派でも似たようなものです。「仏法僧の三宝を尊べ」というのが三つのどれかに偏ってはいけないのですが、これも既成宗派の責任ですね。

署名というのは、法的に拘束力のある契約のタグイでない限り、何も心配する必要はないのではありませんか?法的に問題がある場合は、法律に詳しい人に相談した方が良いでしょう。「もう止めた」という意志を伝えたのにしつこくされるのは、どこか迷いや恐れがあることを見抜かれているのです。痴漢や詐欺に見込まれやすい人と同じです。彼らは動物と同じで嗅覚は鋭いので、意志の強い人には付きまとったりしません。

「強い断り方をして怒らせたら後が怖い」「ここまで来てしまったら抜け難い」「穏便に何事もなくやめたい」という気持も、付け入りやすい部分です。「後々尾を引くのでは?」というのもその一種です。
間違ったことを正すには痛みが伴うものです。勇気を持って下さい。自分から招いた事態であるということと、現実を見極める客観性を持つことです。

勉強したい場合は、法華系ならば日蓮宗新聞社http://news.nichiren-shu.jp/で情報を得られては如何でしょうか。あまり内容はありませんが、読経用品などのカタログを送ってもらうこともできます。

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◆サイト内で「墓、霊園のある場所の水、土は絶対に取らないように」とおっしゃっていますが、その理由をお聞かせいただけないでしょうか?お水取りに行ってきたのですが、湧水を採取した場所は、神社に隣接した場所で、かつ墓地からだいたい50〜60m位しか離れていない場所でした。近所でも評判の湧水だし、いい水が取れたと喜んでいたのですが、飲まずに処分したほうが良いのか不安になってしまいました。

理由ですか?こういうことで、理由を聞かせてくれと言われたのは初めてで、ちょっとびっくりです。その水が実際に良いものかどうか、また50〜60mが近いか遠いかは別にして、墓の傍の湧き水が好ましいかどうかは、感覚的に分かると思うので、それを思い出して下さい、という話なのですが。
別に気にしない、と思えば気にする必要はないと思います。窓を開けたら目の前が一面墓地…という場所でも、気にせずに住める人に他人がどうこう言う必要もないでしょうし。

理由は幾らでもあります。たぶん質問者は若い方で、葬儀のいろんな形態や各地での戦争の歴史などを知らず、葬式と言えば火葬場直行で骨壷の団地しか想像できないのかもしれません。
でも火葬がほとんどになってしまった現在でも、土葬を禁止していない場所もありますよ。単に土地がない、という理由であまりやらないようですが。火葬が一般的になったのはそんなに大昔ではないので、墓の傍の湧き水を気にしないほうがびっくりです。
火葬や土葬、墓地に関する法律は『墓地、埋葬等に関する法律』がありますので、自分で調べてみて下さい。まだわずかながら、土葬は行われているのです。

それと、お墓が近いとか離れていると言っても、実際は田舎のほうでは、お墓があちこちに点在しています。こういう場合は、元はもっとお墓が多かったものが、あちこち潰されて人家になった可能性もあります。悪質な業者なんかは、墓石をどけただけでそのまま墓の上に家を建ててしまう場合さえあるそうで、今でも宅地造成の工事中に人骨が出てきたという話があります。

次に目に見えない部分で言いますと、墓には嘆きの気が集まっているだとか、不成仏霊が彷徨っているだとかのオカルト的な解釈もできます。なんだかホラーみたいになってしまいますが、結局は死後の世界をどう受け止めるか、「気」などの目に見えないものを信じるか信じないかという問題でしょう。
私は実はけっこう現実的で、人間は死んだら土に還るだけで、墓のお骨はただのカルシウムだと思っていますが、現実的な故に、目に見えないことは否定しません。

物理的な面で言えば、土葬の時に人体が早く土に還るように、程よく陽当たりがよく風通しの良い場所を探したのが、風水の発端です。土葬だと分かったら、墓の近くの湧き水を飲もうなんて、夢にも思いませんよね。今は骨が骨壷に入っているだけなので、そんなの関係ないと言えば関係ありませんが。

しかし、関係ないとは思わない人たち(霊たち)も居るわけで、私は霊的な世界はまた別に存在すると思っています。そして、お墓その他、死に縁の深い場所では、特にその迷いの取れないものが集まります。そういう場所に、好き好んで湧き水を取りに行こうとは思いません。
近所の人は、地元のことは褒めるのが普通なので、私はあんまり当てにはしません。地元の人の言葉ではなく、保健所か衛生局かで水をテストした結果であれば信用しましょう。
良いと言われたので取りに行かれたのでしょうが、今度は悪いと言われると悪い水になってしまうのでは残念なことです。もっと自分で考えて行動しましょう。

東京にも、東京都水道局が自信をもってお勧めする、上水道の水があります。ボトルに入れて冷蔵庫で一晩冷やすと、カルキが抜けて美味しいですよ。私なら、水に関してはこちらを薦めます。

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◆変な話かもしれませんが、神社やお寺にお参りに行く時、生理日でも行って良いのでしょうか。やはり遠慮した方が良いのでしょうか?昔は確か、生理中の女性は「汚れ」或いは「不浄のもの」として扱われていたんでよね。祝い事や儀式のときは閉じ込められていたりしていたって、聞いた気がします。気にしすぎでしょうか…。

皆さん、疑問に思われていたのでしょうね、もっと早く書くべきでした。結論から言うと、神社は遠慮したほうが良いです。お寺はあまり気にすることはありませんが、体調不良の時にわざわざ行くこともありません。両方とも、もし団体参拝でどうしても日がぶつかってしまう場合には、ご自分で控えめにしておかれればそんなに気にしなくとも、十分気持ちは伝わります。しかし、全てダメと思わずに、下記の理由を読んで下さい。

穢れや不浄とは、生理中の女性が他者からそういう風に扱われるのから不浄なのではなく、自分自身の中にあるものです。自分は生理中であるからお参りしてはいけないのではないか、という迷いが、既に穢れのようなものです。
現実的に、生理中は心身ともに不調で、参拝や読経の修行も、スンナリいかないことが多いものです。

私がじっさいに「気」が穢れているのかもしれない、と感じたのは、具合の悪い人の肩を揉んであげていると、生理中の時にはいつも「かえって肩が重くなってしまった」「いつもは暖かくなるのに、今日はなんだかスースーする」と言われてしまった時です。
私は武道や水泳をしていますが、生理中は必ず休みます。後輩の女性にも休むように言っています。そのお陰で、年を取っても元気で稽古を続けているようなものです。中国の家庭医学では、生理中はどんなことがあっても洗髪しないそうです。これも守っています。

つまり、生理中は「陰の気」になっているので、あまり激しいこと、積極的な行為は慎んだほうが、後々の為にはかえってプラスになります。
慣習によって「生理中の女性は穢れ」とされているからではなく、女性が弱く無防備な状態であり、自分もマイナスの気を出しやすいし、外からも邪気を受けやすい状態なので、なるべく家で大人しく安楽にゆったりしている方が得策だということです。生理休暇は取ったほうが良いし、休暇を利用して遊びに行ったりしては何にもなりません。

予定があわずにお参りに行く場合でも、あまりしゃしゃり出たり重要なお願いは控えて「ごあいさつ」程度にしておくのが良いでしょう。穢れも不浄も、自分の中にあるものと認識すれば、神仏にまったく失礼にはあたりません。
しかし、一般の人はなかなかそこまで悟りができませんし、そこの神仏との関係の深さも違いますから、控えめに、ということです。

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◆私はこれまでお礼参りや願解きを全くと言っていい程しないできました。今からでもお礼参りに行くべきでしょうか。また、別の方法でお礼は出来ないものでしょうか。昔の記憶をたどってみても、多くの神社で何かとお世話になった気がするのですが、願いごとはもとより、色々な神社へ参拝しに行ったため、行ったかどうか曖昧な場所があります。

これは私の責任では、必ずしろ、とか、しなくてもいい、とは答えてあげられません。
そういう不徳の積み重ねは、結局あなた自身が決済することですから、うまい方法はありません。いわば、借金人生を送ってこられたのと同じことではないでしょうか。
基本的に、神社仏閣で願をかけるのは、特別なことと思ったほうがいいです。昔の人は、願をかけるには、必ず何かを断つとか、それなりのリスクを承知でしたものです。いわんや、願解きやお礼参りは、当たり前ちゅうの当たり前です。

神社仏閣は、いつもその土地でお世話になっているお礼のご挨拶に、または自分の修行の成果とか立派に成人した姿を報告にお参りするもので、その合間に、何か特別なお願いをする場合もあるということです。

願い事に関してですが、例えば、あなたの上司の社長なり部長なりの家に年始に行くのに、挨拶もそこそこに、毎回毎回何か頼みごとをしに行ったら、相手はどう思うでしょう?しまいには、会ってもくれなくなるのではないでしょうか?
別の会社の(別の土地の神社)社長のところにいきなり行って何かお願いをしたら、どう思われるでしょうか。神仏だって似たようなものです、人間の願いを聞くために存在する訳ではありません。それはまた長くなるのでここでは述べませんが。

それでは、願解きをしなければ必ず怖いことになるか?というと、そうでもありません。神仏にもいろいろ性格があります。例えば、人情味の篤い、鷹揚な性格の上司であれば、いつも頼みごとばかりしに来る部下を見ても「しょうがないヤツだが、困っているのだろうし、自分の社員教育が足りないのだろう」と思って見逃してくれるかもしれません。
一方、気難しいプライドの高い上司ならば、「この社員はダメだ。失礼なヤツだ」とすぐに引導を渡されてしまう可能性もあります。
もちろん、お願いごとの内容にもよります。公共性のある崇高な願いであれば、位の高い神も黙って応援してくれるかもしれませんが「家内安全、商売繁盛、良縁成就」ぐらいでは、自分個人のことを頼んでいるに過ぎませんね。

他人に「お礼に行かなければならないか?もっと簡便な方法はないか?」と尋ねるのではなく、こういうところを自分で感じられるかどうかがポイントでしょう。今のところ、あまり行きたくない、というお気持ちがありありと見えますが、その気持ちでは、本当のお礼参りにはなりません。ご自分の責任でお決め下さい。

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◆出雲大社にお参りし神水をいただくと良いと家内が友人から言われ、行く気になっておりました。偶然この記事を読みましてあれっと感じた次第です。フライトの予約もしたのですが私がなにかすっきりとせず、引っかかっておりましたところに偶然この記事です。

これもご縁のものですので、出雲大社に行っても良いかどうかは、私には決められません。ただ言えるのは、出雲大社の祭神は大黒天ですが、大黒天は各地に祀られてはいるものの、かなり変わった姿をしたものもあります。一般的な福の神ではなく、夜叉のような恐ろしい顔をした祟り神の大黒天もあります。このあたりは各神社の来歴を調べてみると、かなりおどろおどろしい歴史が少なくありません。

もともと私は、出雲大社が全部どうこうというわけではなく、普段信仰をしていない人が、単に欲得づくで神社仏閣に出入りすることには疑問を持っています。ご先祖と縁の深い神社で、自然と導かれるようでしたら、ご挨拶に行かれるのも良いでしょう。しかし、欲得づくでご神水をいただきに行くという目的でしたら、???です。
欲による行動のあるところ、邪気、魔物しか動きません。私がお水取りを勧めないのも、この理由が大きいです。もちろん、欲と言っても無私の清浄な欲もありますが、この場合は個人的、利己的な欲のことです。祐気取り、お水取りに連なる人々をどう考えるかの問題ですね。

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◆中絶手術をしました。すごい罪悪感で苦しんでいた為、供養をしたほうがいいと思い、あるホームページで、金沢にある尼寺で、ネットの申し込みで水子供養をしてくれるところを見つけました。そこのお寺では女性擁護の立場で随分昔から様々な活動をしているようです。
このお寺のHPの文章で、救われたり、客観的になる気持ちも持つ事が出来た事を思えば、今更疑問を持つのはおかしいかもしれませんが、後でよくHPを見て愕然としたことに、このお寺は真言密教だそうです。私は法華経で供養してもらった積りだったのですが、これは水子の死後も一種の因縁として残ってしまうのでしょうか?
(この内容はだいぶ端折りました。おおまかな経過だけです)


メールをいただいて、HPも見てだいぶ調査しましたが、かなりクサいですね。お寺の所在地も電話番号もなく、宗教法人ではないと書かれています。
多くの女性が押しかけて静かに供養できないから、ということですが。あくまでもお布施と言いながら、しっかりと金額と銀行口座も書かれています。果たして、本当にユニセフに基金されているのでしょうか?
しかし…この、胸の悪くなるような甘ったるい言葉の羅列で、救われたのでしょうか?ここら辺は感覚の問題なので、私にはいいとか悪いとかは言えません。でも、私は気持ちが悪くなって鳥肌立ちそうです…。中絶をして心身ともに弱っている女性に対してはこのホームページは受けがいいのかも知れません。いちおう見たい方は「春名寺」で検索してみて下さい。
私が臭いと思うのは、上記のような金銭的な問題もさることながら(銀行口座や金額や供養の方法は公開ページからは行けません)この寺にリンクしている他のページが、ぜんぶやらせのように思えるからです。誰でも登録できるサイトか、又はこのサイトと同じ作者が作っているページばかりですよね。文体がほとんど同じです。
一見、女性問題を扱っている大きなサイトのように見えても、辿っていくと、このサイトと出所が同じだというのが分かります。

そこで、今後の為に言っておきますが、こういうネットでの供養などは絶対に止めて下さい。罪悪感を癒したり、気休めの為だけであっても、実態の分からない宗教行為に関わるのは、決して良いことではありません。また水子というものがどういうものかを述べておきます。

何人かの霊能者と話しましたところ、よく霊感商法で、「水子の崇り」と言われるような強いものはないというのが共通した意見です。それに、水子の全くない家庭は珍しいのではないでしょうか。
ただし、霊的な存在はゼロではありません。ある僧侶は、「水子は4体でちゃんと生まれた赤ん坊の一人ぶんだ」と言っています。他の祈祷師も、「ぼんやりと見えるがあまり実体がない」ということです。因果関係で言っても、当然生まれて来るべき命を絶たれたのではなく、生まれてくることができなかったのは、その子の寿命というか、宿命です。最初から生まれてくることがない巡り合わせだったので、寿命というものはもともとない訳です。
しかし、いくら水子に寿命がなくても、中絶という行為そのものは、殺生因縁になります。子供を慈しみ育てれば養育の徳を積むことですし、中絶すれば生命あるものを殺す殺生因縁となります。殺生因縁は健康面での悪影響となり、晩年運に影響します。

人間の生死にはちゃんと因果関係があり、たまたま、とか、偶然そうなった、ということはありません。しかし、選択の余地のある状態で、迷われる方もあるでしょう。そういう方に申し上げたいのは、「自分の内なる声に耳を澄ませましょう」ということです。
人間一人の存在を決定するというのはあまりに重いことですが、私の経験から言っても、生まれてくるべき子供は、不思議とそういう巡り合わせになるものです。あんまり先々のことまで計算づくで心配するのは止めましょう。
結局、成り行き任せという結論になっちゃいましたが…

供養の話に戻りますが、水子供養はネットで頼むのは止めて下さい。検索してみましたが、どうもちゃんとしたところが見当たりません。癒し産業の一環として水子の嘆きを誇大に訴えて、携帯でも受付などと、どうも女性の罪悪感につけこんだ、水子供養産業というものがあるようです。
郵送の祈祷もお馴染みのところなら許せますが、こういう場合は同じ供養するなら、一度ぐらい足を運んで、ちゃんと供養してあげて下さい。自分の罪悪感を消す為に、免罪符を手に入れる為にネットで済ますぐらいなら、そんなことはせずに悲しんでいたほうが、まだ人間として責任感があります。

供養ですが、私の意見では、何も水子供養と言って頼まなくとも、「罪障消滅」又は「因縁解脱」という祈祷がありますので、それでいいと思うのですが、中には親切に祈祷の内容を詳しく聞いてこられる場合もあります。祈祷の項目に「罪障消滅」がなければ、最初から「水子供養」と告げたほうが早いでしょう。「厄除け」はちょっと…やめて下さい(笑)
一度それをして、後は毎月の命日に、頂いた御札などにミルクやお菓子を上げて下さい。私は一年もすればじゅうぶんだと思いますが、この辺りは自分で決めてください。あんまり引きずらずにすぐ忘れてしまいたい場合もあるでしょうし、思い出にしたい場合もあるでしょう。

もし家に仏壇があるのならば、位牌を作って一緒に入れて供養するのもいいでしょう。位牌を置く位置は、一番下の段です。次のようにします。

・仏具店で位牌を作る。戒名は普通、次のようにします。「○○家水子之霊位」又は「○野○子水子の霊位」裏側に命日です。
書き方は仏具屋さんがよく知っています。水子の位牌はなるべく簡素に、他の位牌よりも小さなものにして下さい。

・位牌ができたら、それを近くのお寺に持って行って、祈祷して心(しん)を入れていただきます。格式ばったお寺では頼み難いかもしれませんが、日蓮宗系のお寺では、普通のご祈願と同じように比較的気軽に頼める雰囲気です。御札や祈祷を受け付けている社務所で「位牌にたましい(又は心)を入れていただけますか」と頼んで下さい。心配だったら電話して、前もって聞いておかれると良いでしょう。
菩提寺には頼み難いでしょうから、こだわらなくて良いと思います。東京ならば、雑司が谷の鬼子母神さまや池上本門寺などがあります。

(この件で、作者にメールで更に質問するのはやめて下さいね。女性は何でも細かく尋ねて、決めて貰わなければ不安だ、という人が多いのですが、それではぜんぜん向上がありません。筆者は自分で判断して自分で立ち上がるきっかけを作る為にこういう章を書いているので、ぜんぶこと細かに世話を焼いて決めてあげるのが目的ではありません。特に、既にサイト内に書いてあることを、改めてもう一度確認して背中を押してもらう期待はしないで下さい)

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藤原氏の因縁話をサイトで読み、職場の周囲が「藤」関係の者で固められているのに気付きました。これは何か自分の立場等と関連はありますでしょうか?先年は人間関係がギクシャクして働きづらい雰囲気でした。
その為、ある霊能者の所に相談に行き、祈祷を勧められましたが、金銭的なこともあり、そのままになっております。法華経の受持によって、徐々にでも徐霊は叶いますでしょうか?


もう少し、シャキッとして下さい。職場の人間関係は、因縁のせいにしない方が良いです。確かに人智の及ばない部分もありますが、それは職場での関係をうまくこなしてから先の話です。誰にでもそういう因縁関係は付きまといますが、皆が皆、因縁のせいで苦しんでいる訳ではなく、逆縁の人に固められていても、きちんとやる人はやっています。
まず、社会的に当たり前のことをこなしてから、それでもどうにもならない場合に、因縁のことを考えるべきです。というよりも、不思議にうまくいかない場合に、そういう因縁があることを思い出すと、また別の突破口ができると考えて下さい。

祈祷を受けるのも悪いことではありませんが、いわば対症療法であり、そう簡単に根本的な因縁はなくなりません。自分で修行することが第一、祈祷してもらうのは方向付けぐらいに考えて下さい。

また、法華経の受持というのは霊格を高める為の修行です。修行はしないよりもした方がいいに決まっているので、いいと思ったことはどんどん実行して下さい。
願いが叶うと人に保証して貰えばするが、その保証がないと不安だというのでは、修行になりません。法華経の修行というのはすがる教えではなく、自分の足で立つ力をつけることです。法華を信仰して、サムライになって下さい。

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◆雲切童子さまの中に万能選手の「観世音菩薩」さまの唱名を唱えるとよいとありましたが、それを実行してもよいものでしょうか。それと観世音菩薩さまの唱名は「南無観世音菩薩」のほか、どう唱えればよいのか、それが書いてある物にどんなものがありますか。

実行しても良いから、そう書いています。わざわざメールを出して質問する場合には、もう少し筋の通った文章を書きましょう。それと、観世音菩薩さまの唱名とは、観音さまの名を唱えることです。ですので「なむ・かんぜおんぼさつ」が唱名です。それ以上、何も特別なことはありません。

ちなみに、南無観世音菩薩をサンスクリット語で言うと「おん、○○○○そわか」となり、俗に真言と言いますが、日本人のあなたは日本語で唱えれば十分です。ひょっとして、こういうことを期待していらっしゃるのでしょうか?
よくマニアックな本や劇画などに真言や印を組むのが出てきますが、真似しないで下さい。あれは行者の使うもので、一般の人が力もないのに真似をすると越法(おっぽう)となり、怪我をします。
越法とは資格や力のない者にみだりに術を教えることで、いわば、猛獣使いの訓練をしていないのに、いきなりライオンや虎を操れ、というようなものです。怖いですよ。

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◆長年HPを拝見していて、最初は信仰のことはちょっと距離を感じていたのですが、この頃少し考え方が変わり、信仰のことに関する文章を頻繁に読むようになりました。
写経にも関心を持っているのですが、今の生活の時間の中で、写経にとりかかる時間がまだ作れません。そこで読経の方が最初に取り掛かるのに始めやすいと感じております。HPにも、振り仮名つきのお経が掲載されていますが、何しろ身の回りに読経をする人もなく、節というか、調子のようなものがあるのかどうか?どう読んでよいのかよくわかりません。
CDなどを買い求めた方がよいのかと思いましたが、宗派や読経をする人、買い求めるCDによって読み方が違ったりするのでしょうか?何も聞かずに一人でつぶやいてみるのがよいのでしょうか?
読経の始め方について、アドバイスなどいただけたら幸いです。


ごめんなさい。読経は写経よりもかなりハードルが高いです。自分流の癖がつきやすいことと、読経をする以上はそれなりの環境で、しっかり声を出してきちんとやらないと、かえってよくないからです。自分だけでつぶやくという方法は、ある意味でお経を粗末に扱うことになってしまい、お勧めできかねます。
お坊さんの祈祷や読経を聞いてみて下さい。もそもそと遠慮がちにつぶやいている人は居ませんね。読経は堂々と、腹の底から声を出さないと駄目です。それだけハードルが高いのか、お寺でも信者さんにまともな読経をさせているところは少ないようです。
私の周りでも写経している人は多いですが、読経している人はほとんど居ません。実は筆者もマンション暮らしなので、読経の為に窓に防音装置を施しているぐらいです。
それなりに読経の声のある場所に縁のない方には、なかなか難しいと思います。

読経のCDもいちおうあり、日蓮宗新聞社で買えますが、自宅できちんと声を出して読経できる環境が必要です。もそもそ言うのは修行にならないので、やめて下さい。

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◆先生の観音様に関する文章を読むにつけ、自分も観音様のちょっとしたお守りがあると心強いなと思うようになりました。水晶に彫ったものがいいな、とか。しかしまたまたここで、お守りなら余計に変な縁起のものだったら嫌だなと思ってしまいます。
また、よく考えると、「観音様を彫ったもの」といっても何を目安にするのか考えると、なんとなくそれらしい格好をしていれば観音様ということになるのでしょうか?それは少し変な気がしますが。。。結局そのような像はよした方がいいのでしょうか。


他のことでしたら、自分で気に入ったものを求めるのですがこういうことは、きちんとしたいと思うと、一つ一つ実行するのに考え込んでしまいます。
ただ最近、長い時間をかけて先生のサイトをあちこちを読んでいきますと、あるときは全然理解できなかったことが、あるときにじーんと入ってきたりして不思議なものです。
観音様におすがりするというのも、最初は「おすがりする」なんて、すごくよくない発想じゃないかと思いましたが、うまくいえませんけどおすがりするという自分の我が小さくなるような?今まで捉えていたのとは異なる意味で、最近自然に受け入れられるような気がしています。
法華経というのも最初は、法華経がどんなものかわからないうちに帰依するなんてとても唱えられないと思いましたが、なぜだかそういう抵抗が薄れました。写経から始められなくても、この題目を書き写すことからできるかもしれないです。


とても嬉しいお便りです。このサイトも、そういう風に受け止めていただける方が多いと、作る張り合いがあります。前は理解できなかったこと、敬遠していたことが、ある時にフッと入ってくるようになった、というのは、いろんな方からよく言われることです。

観音様のお守りですが、基本的には売っている時には只の人形です。それに魂を入れるとだんだんと観音様になりますが、魂を入れるのは読経する人です。だから、まだ修行していない人が魂を入れても、なかなか本物の観音様にはなりません。
しかし、観音像を手に入れよう、と思った気持ちと動機は貴重なもので、その人の成長と共に、だんだんと力のある観音様になっていくでしょう。

私の考えとしては、像の形をしたものは、金銭や彫った人の因縁が絡んでいたり、なかなか難しいことです。私も昔は特定の仏師に頼んで自分でデザインした仏像を彫っていただいたこともありましたが、仏師というのもなかなかの曲者が多く、最近はそういうこともやらなくなりました。
そこで、近年は、お守りとして、お経の本そのものを持つように薦めています。本来、お釈迦様の教え、観音様の守りというのは、仏像ではなくお経の内容そのものにある筈です。仏教というのは経典に説かれた哲学そのものが仏教なので、礼拝の作法や仏像の祭祀は本筋ではなく、宗教という現実的な形を取る為の便宜的なものです。
それなのに、経本も持たない、読んだこともない人が仏像にお金をかけるのは、おかしなことです。仏具関係で宗教界が潤い、宗派を維持できる、という側面は認めますけれど。
それに私はパワーストーン嫌いなので、水晶というのも全く心当たりがありません。水晶に彫った仏像なんていうと、かなり高額をふっかけられそうですね(笑)。

経本は、読経、写経用に使うものと、信仰の対象にするものと2冊あれば理想的ですが、初めての方は、まずは小さな経本を御守として、手作りの御守袋にでも入れて持つのが良いでしょう。可愛い金襴の御守観音経などもありますので、探してみて下さい。
ジャバラ式のちゃんとした経典は、本ではなく仏具の扱いなので、書店では売っていません。私の使っているものは、特定の神社仏閣で出しているものではなく、京都の経典専門の出版社から送ってもらったものです。

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◆私は離婚して子供が居ますが、元夫の先祖の墓参りに行かなければならないのでしょうか。私の母方のお墓は家の近くにあるので、よく墓参りには行きますが、元夫と私の父方のお墓は遠方の為、なかなかいけない状態です。

基本的な部分で忘れておられることがあるようですが、あなたの家というのは、母方ではなく、父方です。
お母さんはお父さんのところにお嫁に来られて、既に実家は出られているので、あなたはお父さんの子の筈です。母方の血と父方の血は同等ではありません。母方の墓参りだけして父方に行かないのでは、片手落ちではなく幹を忘れて枝葉を大切にしているということですね。
あなたが離婚しても、子供さんがお父さんの子であるということは変わりませんよね。男の子ならば尚更です。法的にはまた違うかもしれませんが、これは陰陽学の基本です。
遠くてなかなか行けないのは仕方がないにしても、基本を取り違えないように、たまには思い出してあげて下さい。

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◆母が酉年生まれで守り本尊が不動明王とのことで、お不動様に時折行くようなのですが、私は受験合格にと成田山に連れていかれた後には浪人し、昨年前厄だからと部屋の入り口に護符のようなものを貼られた年にリストラされたりと、ためを思ってしてくれたのでしょうが効き目は疑問ということが多いようです。やめてくれと言うと意地になって続けそうで、これからもお札を頂いてきたりすると思うのです。
少しずつでも返しに行こうと思っているのですが、それがそこに行くきっかけになってしまうのもあまり嬉しいことではないし、よその神社のお炊き上げに混ぜていただくというのも失礼な気もするしといった状況なので、お付き合いの仕方の参考にできればと思っています。


わざわざ返しに出向かなくても、お寺の住所を調べて「寸志」を添えて送り返せばよいのですが、とりあえずお札を返して済む、という問題ではないでしょう。
ご自分がはっきりした態度を示さずに、長いものに巻かれるような態度ですと、他の面でもそういう風になってしまうでしょう。信仰に関しては、それが一番端的な形で現れるものだと思います。

商売人が考え出した「何年の守り本尊」というのを、そこまで信じて行動できるのが不思議なのですが、あなたも中途半端な感じでいるので、それを論破できないのでしょう。ここは少し気張って、成田山縁起、不動明王のお寺にもいろいろあること、などを勉強されては如何でしょうか。
成田山関係の話はこのサイトの読み物を参考に、お母さんにも分かるように、更に面白く噛み砕いてお話でもしてみるように努力されては如何でしょうか。
そんなことまでせずとも、「効かないじゃないか!」と腹を立ててしまうのが一番早道だと思いますが。普通はそれで諦めると思いますが、それ以上に頑固なお母さんなら、あなたと頑固競争ですね(笑)。

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◆神社仏閣のページ、大変興味深く拝見させていただきました。
私は、こういったことは本当に素人なのでよくわからないのですがうかつなところには行けないとページを読んで怖くなってしまいました。
近々、お寺さまに厄払いに行くつもりだったのですが、どこにいったら良いのかわかりません。大変、お手数をおかけしますが、関東圏で厄払いでお勧めのお寺を紹介してはいただけないでしょうか。


どこか特定のお寺に行きなさい、ということをここでお勧めする訳にはいきませんが、とりあえずは檀家商売のお寺ではなく、法華の祈祷寺ならば良いでしょう。私が法華を薦める理由は、何も某学会や○正会に関係あるわけではなく、法華経が大乗仏典の要だからです。そのあたりのことや仏教の基礎知識は、写経のコーナーなどをご参照下さい。
そして、法華経を実際にきちんと実践しているのが、日蓮宗しかないのですね。(関東で日蓮宗、関西で法華宗と言いますが、呼び方が違うだけで同じ宗派です。)

でも普通の檀家のお寺は葬儀や法要が中心なので、厄払いのできる祈祷寺は限られています。関東圏ならば、本山クラスのお寺が何箇所かあり、いつも祈祷僧が交代で詰めていますので安心です。それと、厄払いの寺という風に限定する必要はないと思います。厄払いは基本ですから、そこのお寺さんが力があれば良いことでしょう。
本山クラスでなく、小さなお寺ですと、縁切り専門などのちょっと変わったところもありますので、どこでも飛び込まないようにご注意下さい。(縁切り専門というのは結果的にそうなるという話で、お寺さんがそう謳っているかとは別物です)

なお、「方除け」を売り物にしている神社は、気学に凝っている人を対象にした商売の面が強いので、私は好きではありません。
本山クラスと行っても全然意味が分からない、という場合は、「日蓮宗新聞社」でお調べ下さい。望む回答が書かれているかは知りませんが、安心してご紹介できるのはここぐらいしかないので。(日蓮宗の回し者で済みません)

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◆以前、子供の病気回復祈願のため四国の八十八箇所巡りをしましたが、いまだ回復の気配がありません。
後でみると年盤が歳破の方向になっていて、六ヶ月かけて回ったうちの途中二ヶ月が五黄殺、暗剣殺になっていました。こういう場合でも目的には関係なく良い結果は出ないものでしょうか?大変悩んでおります。


先に結論を申し上げますと、そういう状況では歳破や五黄殺、暗剣殺の影響はありますね。ただし、歳破、五黄殺、暗剣殺は、行かれたあなた自身に影響するので、良くても悪くても、行っていない子供さんに効果が出るわけではありません。

また残酷なことを申しあげるようですが、>目的にかかわらず、と仰っておられますが、子供の為に、という目的は正当なことではあっても、結局はご自分の個人的な願いであり、他の願いよりも段違いに立派な、神仏が特別に凶方位でも守ってやろう、ということでしょうか。
方位の影響についても、良い結果(悪い結果)を誰が受け止めるのか、という基本もはずしておられるようですし、そういう認識が偶然か必然か、凶方位という結果になったということも考えられます。
また、行かれたのが四国の八十八箇所巡りということで、残念ながらこれに関しても、あまり良いことを言って差し上げられません。霊的な立場からの客観的な意見を申し上げて、巡礼のコースというのは、しばしば深刻な悩みを抱えた人が多く行く場所で、昔から重い悩みや深刻な嘆きの気の多く集まる場所です。
その為しばしば、霊的に境地の高くないものが集まりがちです。深刻な悩みがあってお参りするのならば、もっと圧倒的な力のある清浄な神社仏閣に行かれるべきです。結局はまだ、そういう縁と知識がなかったということなのでしょう。

それにはどこがいいか…ということは、お宅の信仰の背景も存じませんし、面識のない方に無闇に言うことではないので差し控えますが、六ヶ月を費やすならば、もう少し違うアプローチのしかたもあるような気もします。
ただ、これだけ申し上げておきますと、私ならば、お遍路さんの形を取って巡礼のコースを回ることに労力を費やさず、仏教そのものに触れることに時間と労力を割きます。
上の「厄払い」の質問のところで手がかりを差し上げていますので、四国八十八箇所よりも、もう少し高い境地のところに縁づかれるように祈っています。

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