小西重直母子・波乱の半生


昔から、いろいろの方面で優れた業績を残した方が、信仰心の篤かったことはよく聞く話だが、その中でも最も多いのは観音信仰である。ここに、そのお母さんの信仰が子供を大成させた例を一つ取り上げてみよう。

小西重直博士(1875〜1948)は、教育学者として、教育の根本は「天地の親心」であるという信念の元に、戦争孤児に慈愛の手を差し延べ、広く教育界に貢献された方だ。
京都大学で第九代総長を勤められたが、滝川事件(註)でその責任を取って辞職された。しかしその運命は、数奇をきわめたものだった。

維新の挫折

小西博士はもともと、本姓は富所(ふうしょ又はとんどころ)と言い、家は代々米沢藩士である。
米沢藩は中興の祖として名高い鷹山公以来、領内ことごとく富み栄えた土地柄だったが、富所家はその豊かな藩内でも第一に数えられるほどの裕福な家柄だった。
その持地所たるや、三里も離れた赤湯温泉まで、他人の土地を全く通らずに行けるほど広大だった。

ところが、明治維新の時のこと、富所家の主人は二十歳になったばかりの若さ、この大きな激動期に適応する道を見出せないまま、変遷の波に揉まれていた。そこへ、やはり維新の変動に適応しなかった親類知人のうち、性質の良くない人々が、いろんな名目でよってたかって財産を持ち出すという事態になり、膨大な財産もたちまちのうちに、水の泡となってしまった。

こうなってみると、年若い主人は自暴自棄になってしまい、人に財産を持ち出されるぐらいならと、俄かに酒色にふける生活へと自ら転落してしまう。
今でも古老の昔話に残っている例の一つとして、松川での放蕩ぶりがある。七夕祭りをしようといっては米沢の町を流れる松川の橋の下に、芸者を総揚げして陣取る。そして橋の上から七夕の竹を流すのだが、その竹に吊るしてある色紙短冊が全て紙幣。芸者達が裾を乱してそれをすくい取るのを眺めて興じるといった、実に桁外れの遊び方であった。
このような生活を続けるうちにすっかり身を持ち崩し、借財だけを山のように残したまま、32〜3才の若さで病没してしまった。この当主が、小西博士の父である。


小西母子の苦難

小西重直・幼名代吉(しろきち)と残された母の苦難の生活は、これから始まる。

母は未亡人になった途端、まだ乳離れしない代吉と膨大な借財を抱えたままで、連日債鬼に責められる身となってしまった。もともと気丈な女性ではあったが、正直な性質だった母は、住むところもなく思いあぐねた末、死ぬよりほかはないところまで、追い詰められたのだった。

そんなある日ついに、代吉の母は、夫がさんざん浮名を流した松川の上手、かなり淋しい場所を探して川淵に立った。ちょうど星もない夜で、背に代吉を背負って母子心中の覚悟である。
母が地面を蹴ってパッと飛び込もうとしたその瞬間、日頃から信仰していた観音さまのお声が、確かに耳に聞こえた。
途端に、背に負うた子供の重みで体がぐいっと後に引かれ、どしん!と後ざまにひっくりかえってしまった。母を呼び止める観音さまの声に驚いてハッとした為、体のバランスが崩れ、子供の重みでそのまま後に倒れてしまったのだ。

彼女が子供をおぶったまま身を投げる覚悟だったことは、誰一人知らない。空には星さえない真っ暗闇だと思っていたのに、観音さまに呼び止められ、ハッと、まるで目が覚めたような心持がしたそうである。
途端に代吉が大声で泣き出し、母は闇の世界から光明の中に生還したような気持ちになって、死のうという気持ちが雲散霧消して、自分は強く生きようという決意をした。
それ以来、更に観音さまの守護を信じ、どのような苦しい事も耐え抜き、子供が立派に育つまでは死を考えるなどはすまい、と固く固く決意されたのだった。

母のその信仰は、ますます強くはなった。しかし、現実的な苦難は簡単には去らなかった。
身投げの件は誰も知らなかったが、士族の家の立場として、年若い未亡人では一家を立てては行けない為、まだ赤子だった代吉を戸主とし、後見人として叔母夫婦が家に入ることとなった。
そうなると、母の立場というものは全く無くなってしまい、代吉を置いたまま、母は追われるような形で実家へ戻されてしまった。

その後しばらく、代吉の辿った苦難の道は、筆舌に尽くし難いものがあった。叔母さん達の世話になったとはいえ、赤貧続きの生活。
例えば、小学校時代にもわずか五銭の教科書が買えなかった。一年から二年に進級した際、新しい教科書を学校から手渡され、金を払うのだが、家ではとてもそんな本を買うことはできないと言う。

今更返しに行くこともできずにグズグズしていると、叔父が学校へ行って事情を話したらしく、学校からは改めて教科書を貸してくれた。それは有難いのだが、表紙の内外に学校の名が大きな朱印で押してある。それを友達に見られるのが辛くて、包み紙で覆っては隠すようにし続けたり、子供心にはこんな辛いことはなかった。
その他にも、さまざまな苦労の連続だった。


旧恩に報いた人

そのうちに、その叔父夫婦の家も離散しなければならない事情になり、代吉は相談の結果、菩提寺の小僧として上がることに話が決まった。そこをいったん、母方の叔父が引き取ってゆき、そこでしばらく世話になっていた。
そうこうしているうちに、世話になっている叔父の家に、母方の従兄弟で旧会津藩士の人が尋ねてきた。

この旧会津藩士が、小西馬之允だった。この人は昔、代吉の母に恩義を受けたことがあり、その縁で代吉をせめて会津見物でもさせようと、会津若松へと伴って帰ったのだ。
会津へ行った代吉は、そのまま米沢へは帰らずに小西家の養子となることになった。

その地で、藩校の流れをくむ會津日新館に入学、ここでやっと、学問の道が開かれることになる。
この時、代吉は11歳だった。 母の旧恩に報いた小西氏の御蔭である。
ここでも、母の昔の善行によって、代吉は守られることになったのである。
15歳の時に福島県尋常中学校(今の安積高校)に入学。ここで若き教育者、岡田五莵(ごと)と出会い、教育者を志すこととなった。

この時期、代吉の母はもう他に再縁されていて、何重にもの義理に隔てられた我が子と会うことは叶わなかった。しかし、いつも観音さまの加護が親子の上にあることを信じておられたそうである。
その為、悲しんだり愚痴を言ったりは全くせずに、他人とは言え安心して代吉をその手に委ね、立派に成人することは信じて疑わなかったそうである。
これが、信心のある人と、ない人の違いであろう。

母がまだ富所家を去って実家におられた時分、代吉は時々お母様のところへ会いに行かれたそうだ。
そのたびに静かに観音様を拝しておられた母の様子が、子供ながら尊い姿として眼に映り、その姿を生涯忘れることがなかったと話しておられたそうである。


註・滝川事件…1933(昭和8)年に京都大学で起きた学問の自由および思想弾圧事件。
ことの発端は、貴族院の菊池武夫議員が、京大法学部の刑法学者滝川幸辰(ゆきとき)教授の「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演内容に対し「赤化教授」「マルクス主義的」と攻撃したことにはじまる。
その講演内容とは、「犯人に対して報復的態度で臨む前に犯罪の原因を検討すべき」という滝川教授の意見であり、自由主義は共産主義の温床」との思想がその背景にある。

当時の鳩山一郎文相は、滝川教授の著書『刑法読本』を危険思想として批判。
内務省が滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』を発売禁止処分とし、同年、文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職を要求する。
これに対し、京大法学部では学問の自由・思想信条の自由(基本的人権)の侵害であるとして抗議するが、文部省はそれを無視、滝川教授の休職処分を強行する。
当時、治安維持法による苛酷な弾圧体制が強かった中、京大法学部側は滝川教授支援の姿勢を貫いて論陣を張り、全国運動へと展開しようとするが叶わず、ついに法学部教授全員の辞表提出となる。

この事件は、議事録が国立公文書館に保管されているにも係わらず、すでに70年近くが経過した現在も、政府はその公開を拒否し続けている。それはこの事件に、これまで知られている事実以外の重い内容が隠されていることを暗示しているようだ。


※筆者注・この事件で攻撃の先鋒となった鳩山一郎は、日本の初代のフリーメーソン会員であることは公然の事実だ。結局はこの事件の背後も、宗教戦争の色彩が強い。蛇足だが、ボーイスカウトはフリーメーソンの下部組織なので、注意されたい。

「平成16年9月」

文責:タオ<コピー・無断引用禁止>

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