吉田松陰兄妹の観音信仰


維新の志士・吉田松陰は元来は儒者であり、仏教にはあまり深い知識も理解もない人だった。
この松陰の妹に千代子という方があり、この人も兄の感化により、儒教道徳によって育った人である。

しかし実際には、松陰はこの妹に、「深く観世音に帰依せよ」と諭し、「妹にさとす」という一文を、獄舎から妹宛に送っている。これを読むと、彼もまた決定(けつじょう)した観音信仰の人であり、その信仰の念の強さに深く感ぜずにはいられない。
以下、この妹に当てた手紙の全文を紹介する。これを読むと、松陰は盲目的な信者でないだけに、また別の角度から信仰というものの本質に触れる思いがする。


サイト管理人註:筆者は、何から何まで完全に松陰の解釈のみが正しいとは言いませんが、一つの信仰のありかたとして大いに参考になるので、是非念入りに読んで頂きたいと思います。(実際の観音信仰はもっと不思議な側面があり、この松陰流の解釈だけで説明できるものではありません)

本来は原文のまま掲載すべきなのですが、時代が時代なので「御座候」調の固い文のままでは、若い方には読みづらいと思います。その為、できるだけ原文の意を損なわないように、読みやすく書き直したものを掲載します。


この間は手紙を貰い、観音様に備えた御洗米を、三日間精進にて頂くようにとのこと、そのお気持ちに感じ入ります。精進・潔斎などは自分の気持ちが固まり、とても良いものだと思う。拙者も少々志があるので、二月二十五日から三月晦日まで酒肴を絶って精進しました。
その期間、一度だけ霊神様にお祭りとして供えたお下がりを頂いたのみです。これから考えると、三日の精進は難しいことではないので、せっかく薦めていただいたので、是非果たしたいものとは思ったが、こちらでは決まった精進の他にまた精進をするとなると、他の者や番人が何の為かと怪しんでいろいろ尋ねる。それゆえ、幸い八日から精進日なので、その折に頂きたいと思います。

そもそも、観音信仰をせよとは、一般には、さだめし災いを除ける為にするものと思いがちだが、これには実は、大いに論議のあるところです。このことを少し詳しく述べてみたい。

法華経第二十五の、観世音菩薩普門品という編に、「観音力」ということが非常に高大に述べてあります。この大意は、ひとたび観音を念じれば、縄目にかかった時にはたちまちブツブツと縄が切れ、牢獄に閉じ込められた時には忽ちのうちに鍵が外れ、斬首の座に据えられた時にはたちまち刀がポキポキと折れる、などと書いてあります。
これは拙者、江戸の牢屋に入って居た際にこの観音経を何度も繰り返し読み返して見たけれども、確かにこのように書いてあります。それゆえ、凡人はこんなに有難いことはない、として信心するのも無理のないことです。

しかしながら、仏の教えというのは面白い仕掛けがあって、大乗・小乗と二つの道があります。小乗の教えは下根(げこん)の者への教え、大乗のほうは上根(じょうこん)の人への教え、という定めがあります。
小乗の立場で考えれば、観音様の利益は先ほどの経文の文章どおりのものと心得てそのまま説き、そのまま信じさせるものです。これは多くの人に信を起こさせる為のことです。

信を起こすとは何かというと、一心に有難いことである、とのみ思い込み、雑念他念がないということで、一心不乱というのがまさにこのことです。人間というのは一心不乱になりさえすれば、何事に臨んでも頓着がなくなり、縄目も牢獄も、斬首の座も平気になれます。世の中に以下に難題や苦労が多かろうと、それに恐れ迷って不忠、不幸、無礼、無道な振る舞いに走る気遣いもなくなります。

しかし、はじめから凡人に、一心不乱だの不退転だのといくら言い聞かせても、さっぱり耳には入らぬものでしょう。
ここに仮に、観音様という存在をこしらえて、人の信心を起こさせる、これを仏教では方便と言い、これについては法華経に都上りの譬えがあるのだが、長くなるので割愛します。

さて一方、大乗の教えと申す方は、出世法(しゅっせいほう)と申すことが肝要です。出世法と言っても、いわゆる立身出世のことではない。その発端はというと、釈迦が天竺の王子であった頃、若い頃から感の強い人だったので、老人を見ては自分も行く先はこのように老人になることだろうと悲しみ、死人を見てはわが身もゆくゆくは死ぬのだろうと悲しみ、虫けらの死や草木の枯れることにまで悲しみの念を起こし、生老病死がこの世の習いならば、是非ともこの世を出てゆこうと志を立て、二十五歳の時に王子の位を捨てて山に入り、この生老病死の苦悩を免れる修行をしに行かれたことです。(これにもいろいろ有難い話があるが略す。)

そうして、三十出世といって僅か五年の間に生老病死を免れる方法を悟り、そうなれば生まれもせずに老いもせず、病みも死にもしないことを悟って来られて、それから世の人々を教化された。これがすなわち出世法です。ゆえに、出世せねば済世ができぬというのもこのことです。済世というのは、すなわちこの世の人を済度することです。

さてその、死なぬというのは、近くは釈迦とか孔子と申す方々は死なない。今日も立派に生きているがゆえに、人々が尊び、有難がるし畏れもする。これが死なないということではないだろうか。(孔子の教えもやはり同じなのだが、長いので略す)
死なない人であるから、縄目も牢獄も斬首の座も、この観音経の通りだということなのだろう。楠正成だの大石良雄だのと申す人々は、刃物に我が身を失われたが、今もってちゃんと生きています。すなわち、刀が彼らを斬る事はできなかった、刀が段々に折れたということなのです。

さてまた、「禍福は縄のごとし」ということを、ぜひ悟っていただきたいのです。禍は福の種、福は禍の種。人間万事、塞翁が馬です。(このわけは物知りに問うべし)
拙者などは牢屋の中で死ぬとなれば、禍いそのもののようなものに思えるけれども、その一方では学問も出来、己のため人のため、後の世にも残り、かつ死なぬ人々の仲間入りも出来るとなれば、福はこの上もなきことです。牢屋を出てしまえば、またどんな禍が来ようともしれない。もちろん、その禍の中には福も混じるだろうけれども、所詮は瞬く間の一生のことに過ぎぬと思えば、先の福がある。

観音を信じるにも、さしたる意味もない自己保身の為だけの願いをかけて福を求めるようなことは、全く無益なことではないだろうか。もっとも、どんな願いをかけようとも、身勝手な言い分であるか、不幸を呼ぶ願いであるかは、観音様がご存知だろう。
ここにまた一つの論がある。易の道は満盈ということを大いに嫌います。これがいろんなところで関係してくる。私たちは七人兄弟だが、拙者は罪人、艶は既に夭折し、敏は聾唖であるからぶざまなことにも思えるが、後の四人は何れも無事に暮らしている。

特に兄様、そなた、小田村は、それぞれ子供達にも恵まれていることだから、これ以上不足を言うのは許されまい。世の中で六人も七人も子供のある家と比べて見るが良い。私たち以下の家は多いものだ。近い者を見ても、そなたの家、高須の家などでも、兄弟の中にはずいぶん見ざまの悪い者が居るのだ。これは父母兄弟の代わりに拙者、艶、敏の三人が禍を背負って軽くしていると思ってみれば、父母の気持ちも随分と軽くなるのではないだろうか。

それに、杉などはずいぶん恵まれた多福の家に暮らしているが、拙者などよりは、かえって杉のほうが気遣いは多いような気がする。拙者の身の上は終には牢死だが、牢死しても死なぬ人間の仲間になれるのだから、後世の福はずいぶんとある。しかし杉などは、今は父も夫も御役をいただいて何不足のない生活であるが、いつもこのような状態が当たり前と思っているふしがある。
子供らにそれを言い聞かせようと、父母が昔は昼夜分かたぬ苦労した頃のことを話して聞かせても、まことの事とは思わぬほどになっている。この先、五十年、七十年の間のことを、とくと手を組んで案じて見てほしい。心配なことである。

去年も端午の節句の客が多いのを、人が目出度い目出度いと嬉しい顔をするけれど、拙者は杉の先のことが心配でたまらず、何度も稽古場に屈みこんでは、一人涙したほどである。もし万一、小太郎なども父祖に似ずに慢心するようなことがあれば、杉の家も危ないことだ。
父母の御苦労を知っている者は、兄弟の中ではそなたまでである。小田村でさえ、あの時代のことはよくは覚えておるまい。まして久坂などはなおさらだ。されば、拙者を気遣って観音様を念ずるよりは、兄弟甥姪たちの間に「楽は苦の種、苦は楽の種」と申す言葉を、とくと申して聞かせるほうが肝心である。

なおもう一つ、拙者が不幸に見えながら実は孝行に当たることがある。兄弟内にこのようにうまくいかぬ者があれば、後の兄弟は自然と、孝行に気持ちが向くようになる。兄弟の仲も睦まじくなるだろう。今後は拙者が兄弟の代わりに、この世の禍を引き受けるから、他の兄弟は拙者の代わりに父母に孝行してくれればそれで良い。
そうなれば、みんな兄弟仲が良くなって、結局はそれが父母の幸せである。また子供もそれを見習うとなれば、子孫の為にこれほど目出度いことはない。このように考え、よくよくこの身を勘弁してもらいたい。
小田村、久坂などにもこの文を見せ、仏法の信仰は良いことではあるが、妙に仏法を取り違えて目先の利益にのみ迷わぬように、神学本なども勉強してもらいたい。
神学本に、「のどけさや 願いなき身の 神詣で」とある。何でも神に頼むよりは、自分の身で行うが第一であろう。


兄松陰の手紙を手にして、千代子さんは、観音信仰というものの真の尊さ、その姿を教えられたような思いがした。

さてその後、千代子さんは楫取素彦(かじとりもとひこ)という人に嫁いだ。この楫取氏は、維新の頃には伊藤、山県などという明治の元老と一緒に勤皇の為に奔走し、後には高崎県の県令となり、貴族院議員となった方である。この高崎時代のことである。
高崎で奉職している楫取氏から、東京の留守宅はたたんで、高崎に来るように指示された千代子さんは、高崎へと移った。
ところが、どうも様子が変である。

普通、家の茶の間というのは、一家の奥方が居間代わりに常時居ることが多いのだが、そこに芸者上がりの変な女が、横柄な態度で堂々と座りこんでいる。そのため、奥様である千代子は二階住まい。

ご主人は毎晩役所からお茶屋に回り、酔って帰って来ては、その女とばかり戯れている。このご主人の乱行に、千代子さんは胸も潰れんばかりの思いだった。しかし、「観音様はきっとお守り下さる」と心を静かに落ち着けて、観音様のお慈悲を心の中で願いながら、一心に観音経を読誦していた。しかし、夫より他に寄る辺のない夫人のことである。心の置き場のない時もあった。そんな時には近所にある観音堂に参詣に行くのだった。

こうして、毎日のように観音経を読誦して観音堂に参詣を繰り返していると、つまらない噂を立てる者が出てきた。
「奥様が内証で手紙を読んだり、男に遭いに出かけるのを見た」
このように、女中の中に蔭口を言う者があると、他の者も「私も見た」と言うことになった。噂は大きくなって、この芸者上がりのお妾さんの耳にも入ってしまった。お妾さんはここぞとばかり「これで奥様を追い出す日が来た」と、大胆になってしまった。

楫取県令がお茶屋に行って遅くなるのを快く思っていなかったお妾さんは、氏がある夜、泥酔して帰宅すると、大層な勢いで食ってかかった。ご主人は言った。
「まあまあ、そう焼餅を焼くな。ちと奥を見習ってはどうだ。あれなどは夜更けに帰っても、お帰り遊ばせと手をついて挨拶するではないか。お前のように胸倉を取って怒鳴るようなことはしないぞ」「嫉妬は愛情が深いからですよ。奥様が慎み深いのは、あなたに対して愛情が薄いんです」
と、女中達の噂話をまことしやかに告げた。びっくりした楫取県令は非常に怒り、そのまま二階に上がって行って、千代子夫人に離縁を宣告してしまった。

当然、寝耳に水の千代子夫人は、理由を尋ねた。
「理由は言わなくても分っている筈だ」
「いいえ、分りません。私は離縁されたならば、その行く先は、兄松陰の参ったあの世しかありません。あの世で兄の松陰に遭いました時、離縁の理由を問われても、これでは答えることができません。それゆえ、どうぞわけだけは仰って下さいませ」

そこで、手紙のこと、男に遭いに行っているという話になった。夫人は初めて合点した。そして無実の証拠として取り出したのは、日ごろ携えている、観音経の写経を折本に仕立てたものである。
楫取氏はその観音経を手に取って念入りに読まれ、すべての原因が自分の所業にあることを悟られた。それから夫人にいろいろと尋ね、観音を信仰するようになった由縁や、この観音経一冊によって、夫人が今日まで心の悩みを抑えてこられた逐一が、明るみにでた。そして終に、夫人の前に手をついて前非を悔いると言って謝罪されたそうである。

しかし、楫取氏はその時に、こう言って尋ねられた。
「お前、嫉妬の心が起こりはしないのか。一言もそういうことを口に出さないのはどういう訳だ」
ここで気丈な夫人も初めて涙を流した。
「私とて女でございます。嫉妬の思いは人一倍持っております。しかし有難いことに観音様に慰められて、今日までどうやら女の嗜みを忘れることなく過ごして参りました。でも、本当にその日を無事に過ごすのが精一杯でした」

それを聞いた時、楫取氏はつい一緒になって、男泣きに涙を流されたのだった。そして、楫取氏は、そのお妾さんの追放を宣告された。ところがこの時、千代子夫人の言葉は
「あの方も人間でございます。育ちが良くなければこそ、あのような悪い心にもなりましょう。でも良く導けば必ず立派な人間になる筈でございます。これからは私の妹として傍に置き、仏法を聞かせてやりたいと思います。そうすれば、きっと優しい良い人になりましょうから、どうぞ許してやって頂きとうございます」

吉田松陰の獄舎からの心のこもった手紙は、こうして後々まで家族を助け、生命を保ち続け、松陰は自ら宣言した通りに、死なない人の仲間入りをしたのである。

「平成16年9月」

文責:タオ<コピー・無断引用禁止>

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