伊藤道海禅師の観音信仰


曹洞宗大本山、鶴見総持寺の貫主、伊藤道海禅師はかつて、淡々と平凡なようでいて、非常に含蓄のある説教をなされたそうである。ここにそれを紹介しよう。


道海禅師の法話から

私が先年、鼻から血を出して耳鼻科の小野病院に入院していた時、内科の主治医である村上博士が見えて、いろいろな話をするうちに、言われたことがある。

「自分が医者として、非常に不思議に思うことがよくある。それは、いわゆる医者が匙を投げた病人が案外助かったり、すぐ直ると思った病院が案外もろく死んでしまうことがあることだ」と…。


医者が診て死ななくても良いと思えるような病人が何故死ぬのか?これにはいろいろ原因もあろう。
しかし私が考えるには、すべて医者に任せて安心しておれば良いものを、とやかくいろんなことを考えて気苦労を作る為に、よく睡眠が取れない、また食欲も出ない、従って自然と身体は衰えて病気が昂進してしまう。
そして終には、死ななくても良いものが死の床についてしまう結果となる。

ところがこれと反対に、医者が匙を投げた病人でも、その患者自身、信念が非常に強く、自分の病気は医者に任せる、もし死ねばそれは寿命であるから、自分自身であがいてこれをどうにかしようと思ってもどうにも仕方がない、とにかく病気は医者に任せ、寿命は天命に従うーーー。

こういう考えならば、気持ちも平静になり身も心も絶対安静になるから、睡眠もよく取れるし食事も美味い。
栄養もよく体に回って意外なぐらいに元気がつく。病気は次第に薄皮を剥ぐように快方に向かうこととなる。まことに信念の力というのは強いものだ」

観音經の中にある、「設入大火、火不能焼、念彼観音力、波浪不能没」というような、水にも溺れず火にも焼かれぬ大信念を生むようになれば、人間は何にも増して強くなれる。
人間世の中に処していて、信念のない人間は藁人形と同然である。
森羅万象を、わが心一つに包む大信念ができて初めて、人間はその人として、じゅうぶん生きることができるのである。


以上は簡単な法話であったが、我々の処世上まことに味わうべき言葉で、この短い法話の中でも「観音の大信念を得よ」と説かれている通り、禅師は観音を絶対に信じ、観音信仰の法悦に生きておられる。これは禅師が青年時代に、大慈悲の観音さまの霊験をじっさいに身をもって体験されているからである。

徳望力量一世を蔽う禅師が今日の地位を築かれたのは、観音施無畏の信念、信仰を得られたのと、ひとえに観音の加護によるものである。
今ここに、禅師が自分の観音霊験に関する体験と、その法悦についてお話されたことを書いてみよう。


道海禅師の観音霊験

自分のことをいろいろお話することになるが、拙僧は越後の非常に貧乏な家に生まれて、9歳の時に寺にやられた。
生まれつき非常に弱い身体で、特に17歳からは病気でずーっと床についてしまった。肺病だったらしい。

病気の為に動くこともままならなかったある日のこと…
もう19歳になっていたが、母がお寺に来て、隣の部屋で和尚と何かひそひそ話をしている。
聞くとも無く耳に入る言葉のきれぎれに、「どうもこの寒さではもつまい。死んだらこれこれこういうことにしよう」などと、私の葬式の相談をしているらしい。
そこで拙僧はじっと考えた。

自分はもう生きられないのだろうか…死ななければならないのだろうか。どうせ死ぬと決まったからには、いつまでも人に迷惑をかけず、早く自分で死んでしまおう。

そこで自殺の研究をはじめた。浅間山に飛び込んでしまえば葬式のどうのという心配をかける必要はない。しかし汽車に乗って出かけてゆくのは、今のこの身体ではどうにもならない。

などなど…いろいろ考えた挙句に決めたのは、炭火を一杯に起して、その炭のガスで死んでしまうことである。現代風にいえば、ガス自殺とか車の排気ガスをひきこんで死ぬような、そんな方法の幼稚なものである。

しかし、この自殺は成功しなかった。
自分は考えた。そして、いろいろ考えるうちに、自殺など考えた自分は間違っておったという気持ちになってきた。

そして考えたことは

「自分はこうしてせっかく坊さんになったが、本当の信仰がないから病気にも罹ったのだ。坊さんになった以上、真の信仰に生きよう」
と、深い迷いから醒めて、求道の心が猛然と起こってきた。
それから拙僧は床の中から這い出して、台所へ行き、清水を一杯汲んで本堂の仏様に上げ、その前に座って観音経を読みはじめた。

九つの年から寺に来て、十九にもなる。読む観音経に違いはないが、今まで無意識に読んでいた観音経ではない。腹の底から出てくる声である。
この時くらい、真剣になってお経を読んだのは、生まれて初めてだった。

「念彼観音力、生老病死苦、以漸悉令滅…」
この真剣な観音経を読む心境、拙僧はその時はじめて病魔を駆逐し、ほんとうに救われたのかも知れない。感激の第一ページとでも言おうか。
今日、拙僧は元気でこうやって働いているが、片方の肺は死んで息をしていないのだ。

拙僧はこの大病によって、いろいろ大切なことを教えられた。病気くらいで苦悩するのはまだ信仰の力というか、修行の力というか、まだ腹がじゅうぶんに出来ていないからだ。病気の苦痛を耐え凌ぐのは容易ではないが、この苦痛の時期こそ堅忍不抜の精神も養われるのである。
古語には「梅は寒苦を経て清香を発す」とあるが、まこと人間も同じである。
梅が風の寒さと雪霜の苦しさに耐えて、あの清い香気を放つのである。人間もその通り、困難に鍛えられて人物が一回り大きくなる。

山中鹿之助という名将は三日月を拝んで
「吾に七難九厄を与え給え」と念じたということであるが、さすが名将だけあって、厄難をものともせず、自らこれに遭遇して打ち勝ち、成功しようという自信があったから、そういう祈願もできたのである。
我々はわざわざ危難を授け給えなどと祈るには及ばないが、すべてのことについて、禍いを禍いと考えず、常にこれを福となす、福となさずにはおかないという、この精神が必要だ。
病気を愉快とするということ、これも一つの工夫だ。病気を愉快とする、病気に感謝する、また貧乏を愉快とする、これぞ転禍為福の心境である。

寶丹で有名な守田寶丹翁は、一代のうちにずいぶん辛苦艱難を味わい、七転び八起をしたものである。
ある時、どうにもならなくなって、このままならむしろ死んでしまおうかと思いながら、ある旅の宿に寝転んでいると、そこの屏風の張交ぜ紙に一茶の
「何不足、人は裸で生まれたに」
という句があるのが目について、翻然として悟った。如何にもその通りだ。

自分は裸で生まれて来たものである。これまで成人するということがすでにこれ天地の恩、父母の恩ではないか、貧乏が何であろう、苦労が何であろう、少しも不足を言うところはない。むしろ貧乏を愉快とすべきではないかと。
ここに至って俄かに偉大な力が体内に漲り、そうして寶丹翁は成功への道へと踏み出したのである。

すべての事を愉快とし、すべてのことに感謝する。言い換えるならばこの転禍為楽の心境を仏法においては法悦の心という。法悦の心は如何なる困難をも征服する。
「憂きことの、なほこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と云った武将は、その信仰に於いて法悦を得ていたからである。この法悦の力を得れば実に何事も困難を克服し、仏菩薩の加護を得ることができるのである。故に仏菩薩の霊験を信ずるがよい。

例を観音経にとって見れば、その御誓願は実に広大で、観音を念ずる者は広大の利益を被る。観音経にも、世の人々が多くの苦を作る時に、一心に南無観世音菩薩と唱うれば、菩薩は即時にその音声に観じて苦を解脱させて下さるとある。
この「世の音を観る」のが観世音菩薩の名の由来である。世の音とは娑婆世界の人々すべての苦悩の声、また菩薩を呼ぶ声、娑婆に満ちるあらゆる音である。その音を聞くのでなく「観る」のが観世音菩薩の大慈悲の心である。

※最後の観世音菩薩の名の由来の部分はサイト作者がつけ加えたものですが、法華経の解釈としては同じ筈だと思います。


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