観相術入門:目次

南北相法とは

「南北相法」(なんぼくそうほう)とは、水野南北という江戸中期の観相家が著した人相学の集大成です。
この本がいわゆる「占い」と一線を画しているのは、単に当てモノとしての占いではなく、確固たる人生哲学に裏づけされた、開運の書物となっていることから来ています。
その哲学と信念は、水野南北自身の生い立ちに負うところが多く、もう一つの特徴は「食が運命を左右する」という、独特の方法論を持っていることにあります。

南北相法の内容の大部分は、水野南北が弟子に観相学のノウハウを教える、という問答形式になっており、それも懇切丁寧に、初級者向けにちゃんと大事な項目には○印がついているという、実に懇切丁寧で分かりやすい講義です。
これは、水野南北がもともと庶民階級から、想像を絶する数奇な運命を辿った挙句に観相に興味を持ち、苦学の結果、観相学の奥義をきわめたことにも起因しているのでしょう。

南北相法の内容もさるものながら、水野南北の生き方そのものが、とんでもなくドラマチックなのですが、それはまた別項として、このコーナーでは実際に役立つ人相学を、易しく面白く紹介してゆきます。

構成はほぼ南北相法を踏襲していますが、現代人の皆さんには分かりにくい部分があったり、生活習慣の違いもありますので、その都度、抜粋アレンジして顔説を加えています。
しかし、南北相法肝心カナメの精神ははずさないよう、また、できるだけ教科書的にならないよう、読み物として楽しく読めるように紹介していきます。


「巻の一」より

相者の心得

一、人の相を観る時は、まず落ち着いてゆったりと座り、姿勢を正して七息する。心を気海にこもらせ、いったん、六根を遠ざける。そうしてはじめて、心に六根をゆるして相を見ることができるのである。

問「姿勢をただすとは、どういうことでしょう?」
答「姿勢を正すというのは、頭を真っ直ぐにしてうつむかないこと。目を閉じ、腹部を前に出すようにしながら、しかも尻を畳にしっかりとつけ、あたかも大きな石を据え置いたような姿勢を取ることをいう。」

問「七息とは?心を気海にこもらせ、六根を遠ざけるとは?」
答「七回静かに呼吸をして、息を整えること。心を気海にこもらせるとは、心を下腹部に集中して落ち着かせること。六根を遠ざけるとは、あらゆる感覚と意識を遠ざけることであり、相を見る間は鳥の鳴く声も聞こえず風の音も聞こえず、何も余計なことを考えない状態をさす。このようにして相を見ることができて初めて、自然に天から相の良し悪しが知らされるのである。心に六根を許すとはこのことである」


タオ註:人の相を判断する時には、まず自分の側の姿勢が大切で、余計なことを考えない、心が清浄な状態でなければ、正しい判断はできない、ということですね。
今のお話に「六根を遠ざけ、六根を許す」ということがありましたが、一般の人には少々わかりづらい話なので、誤解のないよう、少し補足をしておきます。

六根を遠ざけるとは、六根六識=眼・耳・鼻・舌・身・意(げん・に・び・ぜっ・しん・い)の束縛から離れるということです。カッコよく言うと、肉体の器官でもって表面的な形だけを観ずに、心眼で観るということです。
もっと分かりやすくいうと、既成概念とか思い込みを捨てる、ということも入ります。無念無想、と捕らえてもいいのですが、具体的には、真っ直ぐ、直に相手に対するということでもあります。

これは、ファッション的宗教マニアのお好きな座禅ではなく、本当の意味の「禅定」(ぜんじょう)ということです。トランス状態になることではなく、どんなものを観ても、既成概念や自分の肉体的条件の束縛から離れて、そのまま真っ直ぐにモノを観る、ということです。その姿勢ができて初めて、天啓のように正しいものが見える……これがいわば、「六根を遠ざけ、六根を許す」と言うことではないでしょうか。

相学のうちで一番大切なのは、実はこれかもしれません。風水を観ても、気が良いの悪いのと抽象的な話になりがちですが、形だけ見て気を見ないのは片手落ちです。人間を観るのも、土地家屋の相を観るのも、根本は同じですから、まず最初に、最も大切な忘れてはならない前提として、観る者の心構え、これですね。


人の相を観る時は、第一に日常の立ち居振る舞いを通して、その全体像を観る。その後に気力の強弱を見、次に忠孝の志の有無や隠徳の志の有無、そして心の働き具合を見る。そして次に、その人のすることの首尾がうまくいっているかを見、またその人の見聞きすることや言動を観察する。
その後に、骨格、血色、流年(年齢)の状態を見て、すべての吉凶の判断をするように心がけるべきである。

天は空であり、そこから水が生ずる。地から風と火が生ずる。これが、地水火風空の五大と呼ばれるものであり、理解しなければならない大切なことである。天は空であり人の精神を生み、地は母であって人の外形を生む。従って、人の心と身体は、父母そのものであってそこには相はなく、自我に相があるのである。人には生まれながらの悪相というのはなく、悪は皆、自我が生み出すものである。
つまり、父母から授かった心と体とを、自我が苦しめているようなものである。従って、人それぞれの相は、生まれながらのものではない。自我を克服すれば、相は存在しないのである。深く考えるべきことである。
身体は地であり、その身体内の体液は水である。体温は火であり、呼吸は風であり、心は空である。



タオ註:目からウロコ、というぐらい、含蓄のあるお話ですね。人の相を観る時は、その人の日常立ち居振る舞いから…?
人間の生活とこころのありかた、すべてを含めてその人の相とするわけですね。当たり前と言えば当たり前のようでもありますが、改めてそう順序だてて教えていただけると、とてもフレッシュに感じます。

そういえば、南北師は第一巻に手相のことを書かれていますが、細かい手相、人相の見方の項目に、初心者向けに○△□の印をつけて下さっています。それを見ると、天紋、人紋、地紋の主要な線のところに沢山○印がついていますが、細かい線の部分は、ほとんど無印になっています。細かいところは応用編であり、上級者向けというわけです。
つまり、まず幹の状態をしっかりと見定め、次にやっと細かい部分を気にすればいい、というか、ごく当たり前の話なんですが、女性などは結婚線はどれ?と、細かいところばかり気にする人が多いのは、考え直さねばなりませんね。
手相についての心構えは次のようになっています。


手は身体から出た枝である。樹木も枝ぶりのよいものは名木と言われ、枝ぶりのよくないものは雑木である。人もまた、手のひらの相が悪ければ、そこから幹のほうも大したことはないと分かる。しかし、雑木でも、時を得れば美しい花を開く。
人もまた、良い時の巡ってきた折には、手のひらも自然に潤ってくるものである。反対に、逆境の時には、手のひらが自然に曇ってくる。これが自然の摂理というものであろう。



とてもよく分かります。相は性から生じ、性は相から生ず、という哲理を改めて思い出します。しかし、こう言ってはナンですが…現存している人相書きを見る限り、水野南北師は、はっきり言って福相とはほどの遠い人相のように見受けられます。

……と、この本題に入るには、本来は、水野南北師の生い立ちから、「だまって坐ればピタリと当たる」と、下々から高貴なお方まで、巷間、口の端にうたわれるほどの天下一の観相学の泰斗となるまでの、長いドラマチックな道のりを知らねばならないでしょう。
そして、その過程にこそ、人相学を単なる占いから壮大な人間学にまで高め、開運法としての地位を確立した水野南北・相法極意修身録の魂が宿っているといっても過言ではありません。

今回は、相法というものが、単なる顔かたちに基づく占いではなく、人間をまるごと観る総合的な人間学でもあり、運命を自分で決めてゆくものである、という深さを持ったものであることが、少し見えてきただけでめっけものです。

下の画像をご覧下さい。これは南北師五十歳の時の肖像画と言われます。五十歳と言えば、もうそれなりに、大家として名を馳せておられた時代でもあり、尊敬の念を込めて著書の一頁に使うぐらいのものですから、かなり美化されていてもいい筈です。
しかし、そういう好条件の元に描かれた画でありながら、どう贔屓目に見ても、もう絶体絶命の最悪相です。福相の部分が…探したらどこかに見つかるのでしょうか?というぐらいの……

水野南北のその相はと言うと、ご自分でこう書いておられます。
「背が低く、姿勢が悪く、顔貌はせせこましく、口は小さく、眼はけわしく窪んで金壺眼(かなつぼまなこ)。鼻は低く、換骨は高く、歯は短かくて小さく、足も小さい」
まさに、人相としては、貧相どころか最悪の相です。

南北師自身の人相所見を見ますと、こうあります。
「小さな口は愛情が欠ける事をあらわし、背が低いのも愛情に欠け、眼が金壺眼でけわしいのは犯罪者に多い例である。眼がくぼんでいればひっこみ思案の暗示があり、印堂が狭いのは精神不安定で、眉が薄いのは兄弟運がなく短命になりがち。鼻が低いのは貧乏で短命であり、歯が小さいのも貧乏で短命を意味します。足が小さいのは生まれが賎しく、健康状態も常に不健康に悩まされがちとなる」

さ…最悪…という、単純な言葉では言い表しきれない、凄い人相です。しかし、こうした逆境から身を起こし、世の為人の為に壮大な業績を残したということは、まさに努力と心がけ、正しい知識で運命は変えることができる、という生き証人そのものであります。

その極意はというと、一言で言えば、先天的に悪い形を持って生まれてきても、後天の気である食餌法で運命を変えられる、ということです。何を食べれば良い、食べてはいけない、というインスタントな結論ではなく、その結論に行き着くまでの過程にこそ、極意が潜んでいるということなのではないでしょうか。
その過程が大切であるからこそ、神仏は水野師のような大悪相の人間に、後世に残る大偉業(異形?)を与えられたのではないでしょうか。これが恵まれた美しい福相の人間であったら、水野観相学も、ここまでの説得力を持たなかったかもしれません。


しかし、上記の自分自身による人相判断は、悪いところばかり並べておられますが、確かに短所は短所として、今度は当サイトの主催者であるタオが観てみましょう。

何事にも、良い面と悪い面があるのですが、水野師の人相で目に付くのは、眉と目が内側に迫っていることです。これは、悪く言えば狭量で視野が狭い、しかし良く考えれば、一つのことを持続してやり、浮気をしない、という性格です。まあ、他のことが考えられないということでもあるのですが。

額の両側が天狗禿ですが(同じ相の方、失礼)これは専門職に多い相で、深い専門知識の習得に長けた相です。広く深いか、狭く深いかは実物を見ないとちょっと分かりません。また、その専門知識の深さが、天下万民の役に立つ良い方向に向かうか、それとも爆弾造りが上手になってテロリストになるかは、気色=神仏の加護の光を見ないと分かりません。

目の相にしても、目の形状は半分で、むしろ眼光のほうが重要です。画や写真から分かるのはほとんど形状のみになりますので、能力の傾向は分かっても、それがどういう結果を生むかは判断できません。

次に、換骨が高いですが、普通、換骨というのは世間を表すので、換骨の高い人は世間に出て活躍する相と言われます。しかしこの場合、少し形が悪くて、高いというよりも不必要に飛び出している印象がありますので、悪目立ちする…その若い頃の半生の波乱と関係があるかもしれません。また、エラも張っているようなので、我が強く粘着質ですが、これは良い方に発揮されれば、粘り強くものごとをやり抜く相となります。社会に出て何かの仕事をやり抜くには、ある程度のエラは必要です。

しかし、やはり全体に、どう見ても恵まれた相ではなく、はっきり言ってかなりの悪相をしておられるようです。この水野師自身の相が、どう人生に作用し、どういう観相学を編み出さすことになるのか、甚だ興味深いことです。

高島嘉右衛門も水野南北も、どちらも入牢経験があるという、非常にドラマチックな、ある意味で運命学の王道を歩いておられる方です。象牙の塔や宮殿で、スマートにエリート然としている人達には分からない世界を、垣間見てこられた方です。
これでないと、運命学というドロドロしたものとは取り組めない。まさに、最強タッグです。

当サイトの高島嘉右衛門でも述べた通り、高島嘉右衛門誕生の折には、両親が水野南北を迎えに行って、誕生間もない高島嘉右衛門の相を見てもらったというエピソードが思い出されます。稀代の観相学の大家と後の易聖…運命とは面白いものです。

次章から、いよいよ南北相法の中身に分け入っていきます。

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