風水巷談:目次

映画に見る風水・帝都物語



邦画で、風水映画としては代表的な「帝都物語」である。
思いつくままに少し書いてみるが、この映画の中にはいろいろ出てくるし、もうさんざんいろんなところで取り上げられているので、タオが書く以上は、世間平均の解説のしかたからは少し外れるかもしれない…(笑)


プロローグから

勝新太郎の渋沢栄一が出てきて、辺りに瘴気が立ち登る中、平幹二郎の行者が真言を唱えながら、何やら神妙な手つきで蛇腹に折った紙のようなものを扇形にパラパラとやっている。
変わった形をしたヘイソクも立っていることでもあるし、確かに秘密めいていて有難そうな感じがしないでもないが、あの、紙を蛇腹にしてパラパラやるのは「転読法要」と言うものである。パラパラやっているのはお経の本で、なぜパラパラやるのかというと、いちいち読み唱えるのがメンドクサイし時間もかかるので、サラッ、パラパラッとやって、いちおう読んだことにしようよ、という、いわばお坊さんの生活の知恵である。

そりゃあ、般若部の経典は膨大な量あるので、仕方がないと言えば仕方がないかもしれないが、パラパラやるよりも、少しづつでもいいから真面目に読んで唱えたらどう?と勝手に思っているのは筆者の偏見?
こうやって何でも儀式化するから、行学よりも儀式マニュアル覚えるのに時間を取られるんでしょう…?
行(ぎょう)ってのはとにかく、お経を上げなくちゃ仕方がないと思うんですが…。

源の頼朝だって法華経全巻千回読誦の目標立てて、七百何回か自分で上げたそうだ。後は誰かお坊さんに肩代わりしてもらったそうだが、法華経全巻を一回読誦するのにどれだけ骨が折れるか、挑戦してみたことのある方はご存知でしょう。のんびりしたとろでは、一巻を小分けにして一ヶ月で上げることになっているらしいが、そうすると千回上げるには…?
武家でさえこれだけ実践しているのに、お寺さんが「とても読みきれないから、パラパラッとやって済ませとこうよ」というのを、おおっぴらに広めたりしないほうがいいんじゃないかと思うんですが…。ひょっとしてあの転読法要って、本当は虫干しの代わりだったんじゃないだろうか…と密かに思っている筆者です。


式神(しきがみ)

「加藤が来るぞ~!」と修験者っぽい格好の行者達が駈けずり回ってる中に、加藤の手先の女行者が切紙をパラパラッと撒くと、それが黒い怪鳥になって行者達を襲って来る。
そこに平幹二郎が「式を打て!」と叱咤激励する。
この「式を打て」というのは、「式神」(しきがみ)のことで、筆者がよくネタに出す「平妖伝」によく出てくる。まあ、要するに切り紙に自分の超能力を吹き込み、小さな魑魅魍魎に変えて兵隊として使ってしまおうという訳である。
数が多いから紙を四角に切っているが、丁寧にやる時には人型に切ったり、いろいろ折り紙みたいにして目的に応じた形を造ることができる。先ほど書いたヘイソクも似たようなものだ。大きく丁寧に作ればヘイソクとして御神体の降臨するアンテナになり、小さく簡単に作れば、式神として消耗品の兵隊にしちゃうわけである。お正月に玄関の前なんかに飾るシメ縄に小さな紙切れが下がっているが、あの紙切れも裃を着た人型に作る場合があり、これはいわば玄関から悪いものが入って来ないように、兵隊が守っているのだと思えばよい。

この映画ではお互い式神と式神の戦いで、霊的な世界で軍隊を操って戦争しているわけだが、こういった切紙とか人型は違う目的に使われる。
一つは注連縄のように、ある場所を結界(けっかい)する目的。これはある場所に一種の霊的なバリアーを張るわけで、いわば魔方陣を作るわけだ。
別の使い方では、神社の人型として、祈願を頼む当人の代理にしたりする。自分が直接祈願を受けに行けない場合は、人型を体にこすりつけたりして因縁を移し、「これを私の代理で祈願して下さい」という訳だ。ちょっとズボラな感じもするが…果たしてご利益は同じでしょうかねぇ~?

まあ子供だましといえば子供だましだが、日本の家が紙と木で作られているので、紙でいろいろ工夫するようになったものだろう。媒体が何であろうと結局は霊力が問題で、高度な禅定の力から来る霊力を競う世界と言える。言い換えれば、霊力のない人がいくら式神を打っても所詮は紙屑なわけだ。
式神には二倍返しとかやたらに大げさなことを書いてあるみたいだが、切り紙細工なんかしてないで、自分で行って闘えっつーの。同じ霊力の修行をするならば、紙よりも日本刀に魂を入れるなどしたほうが、よほど効き目があると思うのだがどうでしょう?

ただ、紙を使うことに関しては、一つ意味がある。紙は植物性でナマグサものではないので、日本の神道で好まれるのだろう。
これが羊皮紙のヘイソクを立てていたのでは、精錬潔白な神には敬遠されて、死霊を好むダキニなんかが寄って来やすいかもしれない。
神社の供物は五穀豊穣が原則で、鳥獣の肉などはもちろん供えない。たまに、海神に美しい大ぶりな鯛などを供えることもあるが、これはその神が魚に縁あってのことである。
序に思い出したが、開運印鑑だか何だか知らないが、象牙の高価な印鑑を勿体つけて売っているところがあるが、開運の為ならば象牙は止めておかれることである。
動物殺生に係わりのある材質は開運にはならない。印鑑は柘植ぐらいが適当である。柘植であれば仏像を彫ったり縁起物にも使われるので、印鑑を気にする人は印鑑屋の口車に乗らないことである。


風水羅盤

桂三枝の風水師が、またしてもあの赤と黒の羅盤を特別なもののように地面に置いて「すわ、こちらの方角から一大事!」とばかりのポーズを取る。
この羅盤や八卦鏡のタグイを、風水グッズ販売サイトで見かけるたびに笑ってしまうのだが、羅盤はあくまでも単なる方位を見る道具なので、いくらややこしく綺麗に出来ていても、それを持っているからと言って特別なご利益があるわけではない。
鏡は物理的にもそれなりに力があるのだが、ある程度の大きさは必要だ。風水グッズとして小さな八卦鏡を置くよりも、大きな姿身のほうがよほど影響はある。(良い影響かどうかは知らないが)
このあたり、風水グッズは趣味に留めておいて過大な期待をしないほうがいいだろう。大金を使うのであれば、氏神さまに布施でもしたほうがまだご利益が望めそうなものである。
ただ、この作品の中で、風水グッズとして二宮尊徳の像を使っているあたりは、なかなか面白い演出だ。今の小学校にはあまり見かけないだろうが、筆者の年代だとだいたいあった。薪を背中に背負って歩きながら本を読んでいる姿は刻苦勉励の化身とでもいうべき苦学生の手本だが、私の世代はそろそろ車が多くなってきた時期なので、「二宮尊徳の真似したら車にぶつかりますよ」と注意されたものだ。(カンケイないけど)
この像に要石を隠すという設定は、なかなかムードがよろしい。(ムードだけだけど)

しかし、要石というのは龍の頭を抑えているそうだが、具体的に東京都のどこそこの場所と設定して欲しかった…。それに、龍の頭に当たる場所が二宮尊徳の像を据えるのに相応しい場所かどうか、気になっているのだが…。まさか、盛り場の角っこの酔っ払いがしょっちゅう立ち○○をするとこに据えるわけにも…(余計な心配か?)

すぐに脱線してしまうが、要石というのは確かにあるそうな。山などでも、あるポイントとなる場所の石を動かすと山が歩いてくるなどと言うし、確かに地龍の要というのはあるのだが、都会で探すのはなかなか難しいでしょうなぁ・・・。将門の首塚は将門龍の要石なのだろうか?



「観音力をお持ちだね」

玉三郎の辻占見が原田美枝子の辰宮恵子を呼び止めて、タロットカードみたいな札をめくりながらいうセリフである。ついでにこのサイトの作者も色紙なんか書く時には「観音力」なんて書いてみたりする。これは自分で考えてもどうせ大したことは考えられないので、どうせならばおまかせして観音力にあやかってみたいというイージーさなのだが。。。
この辻占見の言葉はなかなか含蓄がある。
「この世の大なる超自然力・・・、一つは恐るべき鬼神力、もう一つは絶大なる御加護の観音力」

一般の人でも宗教の指導的な立場の人でも、観音信仰の方は多いので抵抗なく受け入れられる言葉だろう。鬼神力のほうは何となく暴力的で禍々しいものを思い浮かべるだろうからイメージが湧きやすいだろう。(これは正確な鬼神力ではないが)
しかし「観音力」というのはどんなものだろう?

あんまりお説教ぽくなってもつまらないから仏教語は最低限にするが、観音力とは具体的には「慈悲」の二文字とされる。さてこの「慈悲」というのが分かったようなわからないような、ちっとも具体的ではないと思われるだろう。ちょっと検索してみても、長々とした解説は出て来るが、これは文字通り読んでもらえばヒントが出てくる。
「慈悲=いつくしみ、あわれむ」なのだが、この「いつくしむ」とは「楽を与える」、「あわれむ」とは苦悩を取り除くという意味である。
もっと言い換えれば、いつくしみのほうは母親型の愛情で、優しく守り育て、安楽に快適に、ほんわかと相手を楽にしてあげることである。一方、悲=あわれみのほうは父親型で、ある意味厳しいものである。相手に悪いところがあればバッサリ切り捨てなければ悪因悪果の根は無くならない。楽になるには悪いところは大手術しないと、決して本当に楽にはならない。
父親、母親、この二つがセットになって慈悲となるのである。これが観音力のとっかかりで、まだまだ先は長い。そういう筆者にとっても一生のテーマなので、ここで解説の一端を書くのも自分の勉強の一部ではあるのだが、あんまり簡単に分かってしまうものでもないだろう。

観音経の中に「悲体戒雷震 慈意妙大雲」という一節がある。この字をじーっと眺めながら、宗教も芸術も娑婆世界も分別せず、意読、心読、身読に励みたいものである。


※最近は映画や漫画にもよく「のうまくさらだんば・・・」とか、いろいろ真言とか九字などが出て来るが、あまりこういうものは一般の人が無闇に口真似するものではない。
意味を知らなかったり霊力がなくとも、言葉や九字にはそれなりの意味がある。
例えば、である。あなたが鬼神を呼び出す九字を、それと知らずに真似したとしよう。鬼神は何となく呼ばれた気がして「お呼びですか!」とやってきてみると、そこにいるのは何にも修行のできていないド素人のあなたである。
そこで鬼神はどうするか・・・?それじゃあ、ついでにあなたの望みを適えてあげましょう、とはいかない。だいたいにしてこういう遣いをしているのは、善悪の判断のつかない動物霊のようなもので、しっかりした主人が飼い慣らしていないと、放っておくと牙を剥くものである。やたらに真似をするものではない。

※他の場所でも書いたが「平妖伝」を読んでみようという方は、佐藤春夫訳の文庫はお勧めしない。中国古典文学大系のほうを読まないと、この本の面白さは分からないので念のため。

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