風水巷談:目次


人と音韻の妙


改名・命名裏話

私は改名・命名もしているが、あんまり宣伝していないし、鑑定メニューにも載せていない。身近な人から依頼されて、自分がそのモードになれたらやってみてもいいかな?という程度です。
反対に、自分が気が乗ると「キミ、この名前は良くないから、これにしなさい!持ってけ泥棒!」なんてことも…ひょっとしたらあるかもしれません…(笑)

その理由は、生年月日で判断するものとは異なり、姓名判断というのは、もう少し実体に即したものだと思うからで、そんなにやたらに名付け親になるのもな~…なんて気持ちもある。
単純に考えても、同じ生年月日の全員に同じ名前が付くわけではないし、逆に、同じ名前の人が、同じ生年月日に生まれるわけではない。
一日に何人かの赤ん坊が生まれているが、みんな違う家に生まれるので、当然、姓が違い、違う名前が付くでしょう。

暦を使う陰陽五行というのは、非常にシステマチックなものです。
四柱推命なり何なり、生年月日で判断するものは、きちんと勉強さえすれば、誰でも同じ結果が出る。否、同じ結果が出るような方向性で、勉強しているものだ。

生年月日(時を含む)で判断するものには、一定の原則がある。大まかな原則で分類すると、九星とか十二支。…これは年単位です。
そこに、本命と月命を組み合わせたり、日干支で見たり、四柱の命式の五行配分を見て流年を予測したり…いろんな方法がある。幾らでも、細かくできます。

しかし…しかし、である。
四柱八字だけでは、如何ともしがたい部分がある。(四柱八字=四柱推命)
この四柱八字は、命理学の中では最も的中率の高いものである。
それなのに…である。

ここに、家系だとか因縁だとか、守護神だとかの要素が加わってくる。
改めて、ビギナー講座の「運命の五大要素」を読んでみて欲しい。

生年月日も名前も、ある特定個人のものではあるが、そこに一定の汎用性が存在する。簡単に言うと、同じ名前の人は何人か居り、同じ生年月日の人も必ず居る、ということだ。もちろん、その汎用性の範囲で共通項があることは否めない。ここに筆者なりに、順位をつけてみました。

まず、生年月日…これは、自分ではまず変えられないし、ある程度は宇宙の法則とか地球と月の運行によって決まるものです。未読の方は、「出生時間・奥の手」(タオの風水巷談)を読んでみて欲しい。
だから…法則が決まっているが故に、生年月日を使う判断は、命理の基礎になります。

そこに、名前、姓名判断という人工的なものが加わって、違いが出てくる……もともと、生まれる家が違うのだから、種(たね)も違って当たり前だが、そこに、わりに人工的な「個人の名づけ」と言う要素が入ってきます。そこには、親の好みだとか、世間の流行だとか、時代背景だとか…いろいろと後天的・人間的な要素が、多く加わってくるわけです。

生年月日を基礎として、そこに姓(家系の因縁を含む)が加わり…ここまでは、個人では変えられません。
改名の場合でも、家庭裁判所申請して「名前」を変えることはできるが、「姓」を変えることのできるのは、特殊な場合(※)に限られます。

※特殊な場合=例えば、世間を騒がした凶悪事件の犯人が、変わった覚えられやすい姓であり、その為に犯人の家族が、責任もなく未来ある者達であるにもかかわらず、普通に社会に溶け込んで生活を営むことができなくなったような場合に限られる。
こういう特殊なケースでは、姓名を速やかに変更し、別の地域に移転して新たな身分を確保し、全く白紙から生活をスタートすることが、法的に認められている。

このような事情から、姓名判断の対象となるのは、「姓名」のうち「名」に限られる。
しかし、「姓」にも立派に姓名判断は存在します。


スケベの法則?

以上、「姓名判断」の言い方の通り、「」と「」の話をしました。しかし、この呼称は正確ではありません。「名」は個人のものであるから、「権兵衛」だろうが「文麻呂」だろうが、「マリア」「ジョージ」だろうが、気にしないことにする。しかし、姓はそうはいきません。

日本は小さな島国であるにもかかわらず、非常に多数の、バラエティに富んだ姓が存在します。
少しモノを知った方なら、「氏」(うじ)と「姓」(かばね)と「名字」(みょうじ)が違うことは、ご存知でしょう。

「氏」というのが、同じ血族の集団を意味するのに対し、「姓」というのは政治的、社会的地位を表すものです。「臣」(おみ)「連」(むらじ)が代表的なものだが、現在ではほとんど使われなくなりました。しかし、政治的・社会的立場ということは、自然とその社会の中での職業を意味することが多くなり、こういう姓だとこういう仕事をしている、というバロメーターにもなってきました。
分かりやすい例として、例えば、「犬養」(犬を飼っていた)「鳥飼」(鳥を飼っていた)「大蔵」(朝廷の蔵を管理した)「荘司」(荘園の管理をした)「渡部」(渡し守をした)などは、よく知られるところです。

しかし、上記の「氏」「姓」のどっちでもなく、地名や地形に由来した名字も存在します。ここらへんは、庶民も名字を持つようになった近代史を研究してみていただきたいものです。
このように、「氏」「姓」「名字」は全く別の意味を持つのですが、現在、法律上は三つのどの言葉を使用しても、全く同じように扱われます。
本文では、以降、「氏・姓・名字」の区別は、特に意図してそれと分かるような表記をしらない限りは、全く区別しないことにします。たぶん「姓名判断」という言葉の通り「姓」という言い方を使うことが多くなるでしょう。

これらの中では「名字」(みょうじ)が一番、汎用的な言葉なので、迷った時には「名字」という言葉を使い、ちょっと変わったいわくありげな名字に出会った時には、「何か由緒のある姓ですか?」と、興味を持ってみるのも楽しいでしょう。
神彰(じん あきら)さんという人があったが、同じく「神」という姓の別の人にもお会いしたことがある。その方は、「自分はただの人間なのに、こんな『神』なんて姓を使っていていいのだろうか…」と、ずいぶん迷われていた。こういう場合でも家庭裁判所が認めるのかどうかは分からないが、姓名判断のほうでも、余りに位の高い尊い字は使わないことになっているので、変えられたら変えたほうがいいと思う。
一般的な話、一時姓、一時名は浮き沈みが激しい傾向があるので、極力避けるのがセオリーです。


「氏」「姓」「名字」の区別をいちおう整理してみたところで、多くの皆さんがけっこう思うのは、「私の姓なんてありふれてるよね…」「同姓同名が一杯いてうんざりだ…」ということではないでしょうか。

「日本に多い姓(名字)のランク」がよく取り沙汰されるが、その前に、世界各国にはいったいどのぐらいの氏姓があるのか、その数をちょっと見てみました。
ものすごくいろんな統計の取り方があり、年代による差異も激しいので、筆者が持っている何冊かの資料のうち、一番覚えやすい数に要約してみます。日本に近い国に限定して上げるので、だいたいの数を見てもらうだけで、けっこう面白いと思います。

とっても覚えやすいでしょう?人に言うには、分類する上での前提を述べなければ意味がないので、あまり自慢は出来ませんが…
もちろん、Wikipediaに記述してある数は知っているが、筆者の手持ちの資料を元に、あえて一番古い、大雑把な数を書いてみました。

日本だけが二桁多いって、けっこう驚きますよね?この数を半分にしたとしても、桁数は変わらないわけです。Wikipediaでは日本:30万種となっていて、上の5万と余りに開きがあるのは、以下のような理由だと思う。

<姓氏研究家の丹羽基二による。漢字の字体の違いや読みの違いを考慮してカウントした場合。同じく研究家の森岡浩は十数万種としている。>

筆者が元にしている資料では、音韻が同じであれば一つに数えている。例えば「渡辺」も「渡部」も同じに取り扱っている。しかし、「卜部」と「浦辺」だと意味が違うので別にするというように、その辺は場合に応じて分類する。

で…姓氏家系概論はこの辺にして、何故ここに「スケベ」が出てくるのか、皆さんがとっても興味津々で、お待ちかねのところではないでしょうか(笑)。

それはごく自然に、考えていただければ分かることなのですよ。
人間の行動原理を、原点に戻って考えて頂ければ。

人は、何の為に働き、努力するのでしょう?
人間として向上したい、立派な人になって、社会の役に立ちたい…
そんな奇麗事を言ったら、筆者はまず信用しないが…少なくとも、酒は一緒に飲みたくないです(笑)。
もちろん、そういう大義名分がとっても大切なことは、筆者が一番強く訴えてはいるのだが、やっぱり建前と本音にも程度ってもんがありますよね。人間は、体と心といろんなものをひっくるめて動いているが、肉体とか生活がしっかりと基礎にあって、成り立っているものです。

そういう、具体的なことを考えるのが、風水学の「地の巻・人の巻」で、その「地と人」を照らして真実の姿を見せ、方向性を指し示してくれるのが、「天の巻」なわけですが、人間は物質と心、どっちか片方だけでは、成り立ちません。

でも、普通はみんな、腹が減っては戦さは出来ぬ、良い女(男)を我が物にしたい、安楽な生活がしたい、病気になったり生活苦は嫌だー、という原理で動いているわけです。(これだけで終わってはダメだけど)

そこで、多くの歴史を形づくってきたのが、肥沃な土地を奪い合う戦争であるわけです。ついでに、「美女」も、表に出るにせよ出ないにせよ、喧嘩の原因になってきた。「傾城の美女」という言葉も、ここから生まれたものです。

ココ…この、欲望という点に焦点を絞ると、腕力+頭脳の総合力で一番強い者が、権力を手にし、美女を強引に我が物にしてきたわけである。ですから、お金持ちのお嬢さんが美人なのは、ある意味で当たり前なわけです。

ただ、美醜とか顔かたちの基準にもいろいろあって、美人の尺度、好みには、当人の性格とか生い立ちが色濃く反映されているものです。例えば、不細工な母親に似た女性がどうしても美人に見えてしまう…という業を持っている人も多い。そういうことも、ひっくるめての話なのですが。

腕力・知能・精神力で優れたものが、望むものを手に入れ、美人を幾人も我が物にする…それを繰り返した結果、ひいては多くの女性に沢山の子供を産ませ、子孫が増える。それが社会に出て活躍し、勢力を持つようになる。
これを名付けて「スケベの法則」と言います(笑)。ごく当たり前の、真面目な話だと思うんだけど…。

古来、政略結婚なんてのは、ミメ麗しい子女を敵方に嫁がせて懐柔してしまおうというもので、人間が人間である限り、考えることは古今東西、誰しも似たようなものかもしれない。



栄えるのは誰?

前置きが長くなりましたが、ここに姓・氏の問題が出てきます。
この「強者が栄える」理屈だと、ありふれた多い姓の人は、女の奪い合いに勝って子孫を沢山作っているから人数が増えたわけで、それはやっぱり、助平だということを物語るのでは…ないだろうか(笑)
多い姓第一位は…誰だっけ???(笑)
どっちにしても「藤」のつく姓は藤原氏の流れで、数が多いですねー。やっぱり家運興隆するには、なんたってスケベであって、子供を沢山作って数で勝負、ってのが鉄則ですよぉ。マイナーな姓の方は、少しお行儀がよすぎるんじゃないだろうか…。痩せ我慢は体に毒ですゾ(笑)。

なんて下ネタはどうでもいいんですが、日本に多い姓を列記していたら、あることに気づきました。

日本に多い姓、上位30傑
佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺、伊藤、山本、中村、小林、加藤、吉田、山田、佐々木、山口、松本、井上、斉藤、木村、林、清水、山崎、池田、阿部、森、橋本、山下、石川、中島、前田、藤田…


筆者は苗字の下の字が「田」なので、稲荷信仰に縁があるとか言われるが、日本は「田」の付く名字って、けっこう多いですよね。
私は田の付く姓、好きです。何故なら、発音しやすいから。
あんまりカッコいいとは思わないが、「田」は母音が「あ」で終わるので、言いやすい。最初の音か、最後の音の母音が「あ」だと、ハキハキと明るい感じがして、何となく収まり良い感じで気持ちが良い。

そこで、上記30傑の母音を調べてみました。
最初の母音が「あ」で始まるもの=20
最後の母音が「あ」で終わるもの=11


「あ」で始まる姓、多いですね…
姓をウンヌンするんなら、本当はもっと沢山調べなくちゃならないのですが、面倒なのでなるべく近道で、結論に行きます。

何故私がこんなことにこだわるかと言うと、それには理由があります。普通、改名、命名をする時は名前部分だけなので、否応なしに、姓に応じた画数や使える文字を模索していくしかない。
でも、そういう改名・命名ではなく、たまにペンネーム雅号、屋号みたいなものを頼まれることがあります。

これは、自由に発想できるので、楽しくはあるものの、けっこう大変…。何故なら、まるっきり白紙からスタートなので、どういう風に付けたら良いのか、途方に暮れる。
自分が使うものならば、漢字だろうが仮名だろうが横文字だろうが、何に由来するものだろうが、勝手気ままにつけられます。
タオ」なんてカンフーマスターみたいな名前ですね、と言われちゃったことがありますが、こんな軽くて変わった意味不明の名前、他人様にはちょっとつけられません。自分が確信と親しみがあるから使えているので、他人からこんな名前頂いても、なかなか難しいと思います。

それで、店名とか社名、屋号、雅号、ペンネームのタグイは、直接知っている人にしかつけないことにしています。相手の顔や生活状態を知らないと、どうも発想が湧かないからです。



「浮かぶ」原則

私が白紙から名前をつける時は、次のようにします。
まず、何かとっかかりを捕まえなければならないので、何かヒントを探します。こういうことは、机の前で資料と首っ引きで一生懸命考えてもなかなか浮かばないので、軽く運動した後、お風呂にでも浸かって、何となくぼんやりと考えていると、プカッとヒントが浮かぶことがあります。
そのヒントが、姓として使えるものであり、画数もよければ、それを元にして下の名前に使える画数と文字を探して名前を決めることになります。

他の姓名判断の先生が、どういう風になさっているのか知りませんが、私の場合はこの何かが「プカッと浮かぶ」ということが重要です。ここで「これだ!」というインスピレーションが浮かばないと、ああでもないこうでもないと、辞書と首っ引きでゴチャゴチャ考えて迷うばかりで、いっこうに進みません。
「この姓(文字とか名前でも)にしたい!」という由来が何かないと、元になるものがないので、途方に暮れます。
でも筆者の性格だと、作家を志す人に真面目に「ペンネームつけて下さい」と言われたら、「ペンネームも考えられないようでは、モノなんて書けないでしょ。作家になるんだったら、そのくらい自分で考えてね」って言っちゃいそうだけど…(^_^;)
「くたばってしめえ」(※)でも何でもいいじゃないですか…。

※「くたばってしめえ」=作家の二葉亭四迷のこと。彼は「文学をやりたい」と抱負を持つようになったら、親に「文学なんて、そんな女みたいなぐちゃぐちゃしたものをやる奴あ、くたばってしまえ」と言われて、この名にしたそうです…。
作家って、けっこうこういう名付け法、ちょくちょく目にします。軽いっちゃ軽いけど、そんな名前でも、きちんと生かしきる力があるということですね。
私が運命鑑定などで多くの人に関わっていて、いつも思うのは、何につけてパッとしない人は、持続力がないと言うことです。ちょっとつまづいたりうまくいかないと、すぐにあきらめる。根性がない。「これは自分に向いてない」とか言う。職場環境が悪いとか、人のせいにする。
何でも最初からうまくいく筈がない。人間、環境のいい職場なんてない!、という前提で、社会に出るべきです。そういう人に向いた仕事なんて、家事手伝いぐらいかな…そんなやつあ、くたばってしめえ…←相変わらずの暴言ですが、けっこう本音…。
(そういう人は体質から変えていくしかないので、法華経の修行しかないんだよ、とも言ってるわけですが…また脱線…)

とにかく、「くたばれ」だろうが「草臥れた」だろうが、お風呂で「浮かぶ」ことが重要。
「浮かぶ」という点ではプールでも海でも湖でもいいと思いますが、外だと外界からの刺激のために、浮かんでもすぐに忘れてしまい、それを捕まえて持っておくことが出来ないので、やはりお風呂が一番良いようです。
水に流したい」場合は、川のほうがいいかもしれませんが…(笑)。どんぶらこ、どんぶらこ…不倫の挙句に生まれた子を水に流したいので、タライの舟に入れて流したら一寸法師になり、竹藪とか畑に捨てたら桃太郎とかかぐや姫になった…、とか言う話も…(脱線過ぎ…)

風呂だから浮かぶ…というのは、駄洒落や笑い話ではなく、真面目な話です。
この「浮かぶ」というのは、外から何かがやって来るのではなく、自分の内部にあるものが自然と出て来るので、もともと沢山の引き出しを持っていないと、大したものは浮かんできません。だから、何かを創り出す為には、普段からできるだけ多くのものを仕込んでおくことが前提。
また「浮かばせる」には少々、コツみたいなものもあります。一生懸命頑張らないことと、リラックスしつつ、ある程度は軽い集中力を持続しなければならないので、普段から稽古ごとなんかで、リラックスと集中の両方の操り方を学んでいないと、コツが分かりません。
稽古事の場合は、ただの集中ではなく、緊張とプレッシャーの伴う集中なので、かなり役に立つわけですが。



母音に注目!

と…裏話の後で姓の母音の話なのですが、私が非常に母音を気にするには、理由があります。
それは、小学校から高校にかけて、詩吟を習っていた時のことです。

詩吟コンクールでどの詩を選ぶか、というのは、けっこう重要な課題でした。
もちろん吟詠の上手下手はありますが、同じ人がこの詩を吟じたら全然パッとしなかったのに、あの詩を吟じた時には、高確率で上位入賞する、ということが、珍しくありません。吟じやすい詩と吟じにくい詩があります。
それで、詩の選び方に工夫が要る訳ですが、内容や好き嫌いと同じぐらいに重要視したのが、「母音」でした。
詩吟には皆さんあまり馴染みがないと思いますので、具体例を挙げてみます。

「金州城外作」(乃木稀典作)

山川草木転荒涼 (さんせん そうもく うたた こうりょう)
十里風腥新戦場 (じゅうり かぜなまぐさし しんせんじょう)
征馬不前人不語 (せいば すすまず ひと かたらず)
金州城外立斜陽 (きんしゅうじょうがい しゃように たつ)

「太田道灌借簑図」(逸名)

孤鞍衝雨叩茅茨 (こあん あめをついて ぼうしを たたく)
少女為遺花一枝 (しょうじょ ために おくる はな いっし)
少女不言花不語 (しょじょは いわず はな かたらず)
英雄心緒乱如絲 (えいゆうの しんしょ みだれて いとの ごとし)

「題不識庵撃機山図」(通称・川中島)頼山陽作

鞭聲肅肅夜過河 (べんせい しゅくしゅく よるかわを わたる)
曉見千兵擁大牙 (あかつきに みる せんぺいの たいがを ようするを)
遺恨十年磨一劍 (いこん じゅうねん いっけんを みがく)
流星光底逸長蛇 (りゅうせい こうてい ちょうだを いっす)

詩吟は笹川親分のイメージがついてしまって以降、ちとナンですが、長い歴史のあるものであり、筆者が子供の頃にはそれなりの世界を形づくっていました。現代でもこういう稽古事で生きている世界もあるので、文化の一つと思って読んで下さい。
この著名な三つの七言絶句、私はあまり得意ではありませんでした。どれも吟じにくいところがあります。
何故なら、「金州城外作」は最初の出だしのフレーズが「さんせん~」ですし、「太田道灌借簑図」も「こあん~」と口を閉じてしまうので、出だしであまり気持ちよく発声できないのです。

しかし、「転」の部分は「せいば~」(金州城外作)「しょうじょは~」(太田道灌借簑図)と、どちらも「あ」で伸ばします。

「川中島」の詩は肝心の「転」の部分がが「いこん~、じゅうねん~」になってしまうので、「遺恨なり~」と吟じる人が多いです。

この三つの詩は、漢詩の最もスタンダードな形である絶句で、この構成は「起承転結」の文章作法の元となったものです。「起承転結」は絶句に限られ、八行だと「律詩」といって、起承転結の構成とは異なります。

「起」が導入部「承」でそれを受けて発展させ、「転」でクライマックスを迎え、「結」で速やかに締めくくる、という構成です。
吟じ方も、普通は起承転結の波の通りに吟じますが、同じ四行の絶句でも、起承転結で吟じない詩もあります。

詩の内容によっては、いきなり「転」(クライマックス)で出る詩もありますし、最後に転が来るものもあります。
漢詩の本を探し出すのが大変なのでこの位にしておきますが、要するに吟詠で吟るには、派手に盛り上がる「転」の部分で、なるべく「あ」の母音で伸ばすほうが、吟じやすく受けも良い、ということです。でないと、クライマックスで「ん~ん~」と口を閉じているのは、非常に吟じにくい詩になってしまいます。

この原則は、人名にも当てはまり、先生が弟子に号を下さる時にも、発音するものであるからと、母音を考えてつけていました。



音韻の妙

普通は、姓名判断の音韻というのは、ア行が土性カ行が木性サ行は金性…ということになっています。各文字をそれぞれ音読にして、この五行による相生・相克を見たりもしますが、筆者は音韻に関しては、母音が主で、子音を従と見るほうが、実体にかなっていると思います。
もちろん、発音しにくい子音の重なりなどは、真っ先にチェックしますが、姓名判断において、母音は少し軽く扱われ過ぎているような気がします。

こういう考えに至った理由は、やはり詩吟にあります。筆者の詩吟の先生というのは、実は長年のこと、聾唖教育に携わった方で、福岡聾学校の校長でした。その為なのか、発音が人間に与える影響について、自分なりのお考えがあったようです。

今考えると、その先生の教える吟詠は、他の先生とはかなり違っており、とにかく口を大きく開いて元気にはっきりと発音し、お腹から声を出すように、という指導でした。
何せ、稽古場が、聾学校の会議室とか運動場だったので、幾ら声を張り上げても、文句言う人は誰もいなかったという…ここは笑うところではないと思いますが。

今考えても、あの吟詠は、「うたう」という言葉は全く当てはまらず、むしろスポーツに近かったと思います。そのお陰かどうなのか、吟詠界では異端視されていたようなこともチラと聞きましたが、コンクールに行っても、九州の吟詠はどうもああいう体育会系の雰囲気はあったように思うので、関東の吟とは相性がよくなかったことは確かな気がします。
お陰で、筆者は関西でも関東でも、吟詠を再開しようと、いろんな教室に顔を出しましたが、謡曲のような節回し中心の吟に全く馴染めず、私の吟詠は終了を告げてしまいました。
代わりに、武道でしっかりと気合を出しているので、似たようなものかもしれません。今、武道でもし気合を褒めてもらえるとしたら、あの吟詠の効能は相当なものだと思います。筆者は本命七赤で呼吸器系に難があるので、ああいう出会いも、非常に恵まれていたのだと、心の底から思います。

ひとつ、皆さんも、五つの母音を、自分でしっかりと発音してみて欲しいものです。口をはっきり大きく開かないと、「あ」は発音できないことが分かります。
「あ」の外に出る力、外向性、明るさが影響したのかしないのか、上位30傑の姓の中、何と20の姓が「あ」で始まるという現実…こじつけかもしれません。しかし、「あ」のつく姓だと、学校で一番先に呼ばれてしまうから嫌だ~、と思っていたあなた、実は悪いことばっかりではないと思います。

これを機会に、世界中の言語の母音とか子音とかを調べてみると、なかなか興味深いことが出てくるかもしれません。
人前で話す機会のある人には、とても大事なことだと思います。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お、…か、け、き、く、け、こ、か、こ…」

また、何が何でも、誰でもはっきりと大きな声を出せば良いというわけでもなく、肝臓病の人などは、あまり張り切って声を出さないほうが良いのですね。反対に、土性体質の人は、できるだけはっきりと大きく声を出したほうがいいのです。
見ていると何故か、声を出したほうがいい人はあまり声が出ず、大きな声を出さないほうがいい人は興奮しやすく怒鳴ってしまう傾向が見受けられるようなのですが…。基礎講座の五行五気の章を参照して下さい。

名前に関しては、世間に出てゆくものですから、あまりこもった暗い母音が多いよりも、「あいうえお」が適度に分散されていて、キメの部分に「あ」があるのが、一番バランスがいいようです。
筆者も名付けをしていて、好みで決めると何故か随所に「あ」を使ってしまっているのですが、これはあながち自分の好みに傾いている訳ではなく、吟詠の先生や、いろんなものを見てきた結果が、影響しているのだと思います。
とても明るいお顔をされた素敵な先生で、今はどうなさっているでしょうか。1960~70年代頃に福岡聾学校に奉職しておられ、号を牛島昇陽先生と言いましたが、どなたか消息をご存知でしたら、筆者にご連絡をお願いします。



武道の声

最後に、武道の気合に触れておきます。
筆者の関わっている武道のうち、合気道は原則として声は出しません。しかし全く気合がないわけではなく、いわば「無声の気合」とでもいうものだと思います。
発声する先生もあります。福岡の合気道の師範は、確か学生の稽古では発声させておられたようです。一般の稽古ではどうか知りませんが。
合気道の話で「気」とか出て来ると、ちと話がややこしくなりますし、流派の違いもあると思いますので、稽古体系がかっちりと決まっている古武道のほうに、話を移します。

神道夢想流杖術では、「打ちの気合」と「突きの気合」がきっちりと決まっています。筆者がこの流派にはまったのも、気合に一目惚れしたからで、気合の良い人の技は、見ていてもほんとに気持ちの良いものです。
技そのものも、気合が綺麗にスパッと抜けた時には、変な力みが取れて、技も綺麗に決まりやすいものですし、またそういう方向で稽古するものです。
気合が変にこもってしまうと、自分の体に揺り戻しがきて、変な疲れ方をします。その為に、非常に気合がうるさく言われ、体を気持ちよく使えているかどうかは、気合が大きなバロメーターとなります。

この、「打ちの気合」は「いえいっ」であり、「突きの気合」は「ほっ」です。「ほ」は実際は「お」に聞こえることが多く、子音がはっきり聞こえないのは差し支えないそうです。
これは杖(棒=六尺棒ではなく4尺二寸一分)を使う時の気合であり、剣を使う時は「えいっ!」の一種類のみです。

問題は、打ったり切り裂く気合は「い」であり、突き抜ける気合は「お」であるということです。
杖道の稽古を見ていると、まず素人はびっくりすると思いますが、防具なしの普通の剣道着のところを、そのまま打ったり突いたりします。自分がまともに稽古していることだと、かえって無責任にyoutubeの動画を張ったりできないものなので、実際に技を見せるのは控えておきます。

この「突き」などは「相手の背中を突く積もりで」と指導するので、初心者はびっくりすると思います。向かい合って、相手の鳩尾を突くのですが、鳩尾を突く積もりだと表面だけになってしまうので、体を突き抜け、背中まで届く積もりで突くわけです。別に何の怪我もしません。呼吸を合わせる要領はありますが、きちんと水月(鳩尾)を突いてくれれば、きちんと受けられます。

えい」が打ち割り、切り裂く気合で、「」が突き抜ける気合…なかなか味のあるものです。

同じ「えい」でも、杖で打つ時には頭に「い」をつけて「いえいっ」剣で切る時は「えいっ」と鋭く短く一言のみ…。

一方、剣道の制定型を見ると、「打」と「仕」が「やっ」「とうっ」なので、なるほど「やっとう」というのはここから出たのか…と思いましたが、杖使いから見ると、この違いはなかなか新鮮でした。また剣道の大会見に行こう…
剣道の大会って、最初見た時はまったく分かりませんでしたが、ずっと見ていると、動体視力がアップしてきたのか、何となく見えてきたのに、自分でもびっくりしたものです。
ただ…夢想流の気合の美しさに慣れていると、「ほりゃー」「おー、おー(低く)」「わー、わー」「よいさー」とか言うのは、ちょっと自分的にはナンですが…。

この杖術では、修行が進んで「陰」(かげ)という段階に入りますと、気合を声に出しません。
気合はかけるのですが、「含み気合」と言って、はっきりした声を出さない気合になります。これは、基礎が相当しっかりしてきて、更に胆力が備わらないとできないので、5年10年程度の修行では、全くこの段階には入れません。一定段階から上には、一生はいれない場合もあるのが、修行の世界です。

武道を志していると、何か習うにしても10年単位で考えるようになります。インスタントな結果は求めません。武道の気合というのは、ある意味で、人間の声の最終形態、至高のものだと筆者は思っているので、一生をかけて追求するに足るものであると思います。良い気合が出るように、修行したいものです。
音韻と人間…なかなか奥の深いものでしょう?

「平成20年2月19日」

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