風水巷談:目次

「世紀」と辞書の大問題



ニ十一世紀は何年から?

去年から私の周りで話題にしていたことの一つに、「二十一世紀は何年から始まるのか?」という問題がある。
これは、最近のマスコミを見ていると、表面上は全て問題なく2001年からとなっているようだ。MSNのトップページでも、「2000年は21世紀への橋渡し」とわざわざ書いてあった。どういう意味なのか、正確には判読しがたいが、これはいちおう、まだ21世紀は始まってはいないという意味に受け取れる。

しかし実際には私の知る限り、30代後半以上の世代の人は、ほぼ全員が「2000年から21世紀」と教わったことを記憶している。それ以下の世代では「2001年から」という説に落ち着いているようだ。
私もはっきり社会科の時間に、「20世紀は1900年から1999年まで。21世紀は2000年から」と教わった記憶がある。「2000年から説」の人は、変わった数え方をするので、みんなはっきり印象に残っているようだ。
テレビの座談会などでも、気をつけていると話の途中で、「いや、21世紀は2001年からです」などと反論している人がいるので、この問題に関しては、社会のあちこちに認識の食い違いがあるようだ。
普通の数え方でいくと、「2001年から説」のほうが簡単に思えるのだが、わざわざ「2000年から説」を覚えている人の論拠はこうだ。

※西暦の紀元年というのは、キリストの誕生日を基準にしている。西暦1年から1世紀とすると、満1年に満たない○ケ月の期間が「0世紀」になってしまう。0世紀というものが存在するのは困るから、0年から1世紀とする。

更に、こういう論拠も聞こえてきた。
※「ゼロ」という考え方は、もともとキリスト教にはなく、ユダヤ社会の考え方だ。であるからなおさら、0世紀というものは作りたくない。

後者の説は筆者の知人のウロ覚えなので、真偽のほどははっきり確認していないが、確かに数学とか0と1で構成するコンピュータは、もともとユダヤ社会の産物であるから、なんとなく分かる気はする。
ただし、西暦紀元元年が本当にイエス・キリストの誕生年かというと、いろいろ異説もあるのだが、ここでは触れない。

この問題に関しては、日本人がどうこう言うよりも、本家本元がこうおっしゃっている。
「21世紀は2000年から始まるという説と、2001年からという説と二つの説があるが、私はどっちも祝いたいと思う」(クリントン大統領の演説)

私達日本人はA型民族のせいか、すぐに白黒を決めてもらいたがる傾向があるが、おそらく議論好きのヨーロッパ人などの間では、ケンケンガクガクの議論が戦わされているのかも知れない。
いや、もし前記のような、ユダヤ教とキリスト教の考え方の相違が根底にあるなら、宗教感覚に疎い日本人には分からない、根の深い問題を孕んでいるのではないだろうか。それが、前記のようなクリントン大統領の演説になったのではないだろうか、と筆者は勝手に想像している。


辞書に裁定を求めたら

ただ本当は、そんなことにはあんまり関心はないのである。筆者は単に西暦が便利だから記号のように使っているだけで、肝心な時には元号を使用するので、この問題にはこれ以上立ち入らない。今回の肝心のテーマは辞書のことである。

最初、この何年から21世紀が始まるのかという問題で、「広辞苑」を引き、次に「平凡社・世界大百科」を調べた。どちらも疑いの余地なく「20世紀は1901年から2000年まで」とある。そうか、辞書も大百科も「2001年から説」であるなら、これはやっぱり、自分の思い違いかと思った。
しかし、私はそんなに記憶力ひどくはないつもりだし、身の周りにもあまりに「2000年から説」が多いので、これでは自分の受けた学校教育そのものの足元が揺らいでくる感じだ。もうちょっと調べてみようではないか。

そこで、肝心なものを調べていないのを思い出した。
「広辞苑」だけを代表的日本語辞書のように考えるのは、非常に間違っている。
確かに便利ではあるが、最近私には、ちょっと大衆に迎合し過ぎる嫌いがあるような気がする。流行語や外来語を増やすのに力が入って、辞書にとって大切な語源などは少々なおざりになっている感じだ。
こんなに収録語数ばかり増やしたのでは、中身が薄くなるのは致し方ないか。日本語版の「リーダーズ和英」を買ったつもりになれというのだろうか。

「世界大百科」のほうも、私は大切なことを調べるときには、この大百科だけには頼らないことにしている。私の関心のある分野については、むしろ「小学館・ジャポニカ」を買えばよかったかな、とつねづね思っているところだ。

前からこういう不安があったので、私は国語の最後の砦として「冨山房・大言海」(大槻文彦編)を入手しておいたのである。
この立派な辞典を手元に置いてあっても、実際には電子辞書ばかり使ってしまい、「大言海」などは古語辞典の代用品となってしまいがちな実情ではあるが、いざとなると必ず頼りになる辞典である。今回は、この長老の存在をすっかり忘れていたのである。

しかし何しろ古い辞典だ。今度ばかりは不安を覚えながら「世紀」の項を引いてみた。するとちゃんとありました。
「一、西洋ニオイテ、百年ヲ一期トスル称。即チ、十三世紀ト云エバ、西暦千二百年ヨリ千二百九十九年マデヲ云フ類ナリ。二、……」

「大言海」なんて、「そんなカビの生えた辞書、まだ売ってるの?」と思う人もあるかも知れない。
だが私は日本語に関しては、いつもさんざん調べ回って困った末に、古武術の先生の書庫に潜入し、バラバラになりかかった「大言海」を引っ張り出して、擦れて消えかかった文字を虫メガネで読んでは、「うーん、さすが大槻文彦先生!」とうなっている。
イザという時にこんな重宝な辞典はない、と思っている信奉者だ。
ただし、下に新聞紙を敷いて慎重にめくらないと、背表紙が真っ黒い粉になって、紙魚(しみ)と一緒にパラパラ落ちるのは重宝ではないが。
そこでつい先年、装丁が剥離しない真新しいヤツを、奮発して購入しておいたのだ。

やっぱり昔、1900年から20世紀と教わったのは間違いではなかったのだ。しかし、いつから変わったのか、その来歴も書かずに勝手に変更されては、非常に困る。

シャクだったから、皮肉がわりに「広辞苑」で「大言海」を引いてみたら「国語辞書……云々……語源、出典に意を用いる」とあった。昭和7~12年の編著とあるから、さすがに西洋の知識である「世紀」問題に関して語源が記されていないのは仕方がないだろう。
さらに冗談で、「広辞苑」で「広辞苑」を引いてみたら、やっぱりなかった。(当たり前)


辞典の傾向と対策

私がこんなにこだわるのは、他の辞典に関しても、少々問題が出ることが多いからだ。特に姓名判断の本を手掛けた時にはひどかった。
大手出版社の漢和辞典に「名前に使用できる漢字一覧」というのが画数別についていたので、著者の意向でそれをそのまま引用したら、連続でミスが発覚して、えらい目にあった。「○○の証明」シリーズでバブル成長し、社長が麻薬容疑で捕まったK書店だ。こういう例もあるので、辞典には注意している。

世間では、辞典に間違いがあるなんて、夢にも思っていない人が多いのではないだろうか。
今回の「世紀」問題は間違いではないが、電子辞書、CD-ROMにもなって国民的国語辞典の地位を獲得した「広辞苑」ばかりが辞書ではないということを、声を大にして言いたい。
一番大部なのは小学館の「国語大辞典」であるし、他にもたくさん優秀な辞典はある。
どれも優秀だが、どれも気を許してはいけない。
辞典、事典に編者、著者の名前が記されているのは、それぞれある個性と傾向を持っているからである。傾向があるからには対策も必要だ。K書店の辞書は間違っているという傾向があるから、買わないという対策ができる。他の出版社のものでも、絶対的なものはない。
「広辞苑」はとても良い辞書だが、それとても、一般的な現代人が普通に使うには便利、というものだ。
「世紀」の問題にしても、「広辞苑に2001年からと書いてあるからって、それがどうした」と筆者はますます頑固になってしまった。大槻文彦先生に裁定を下して頂きたいものだ。

しかし普通の人にとって、辞典は疑う対象ではなく、迷った時のよりどころである。それを前記のバブル出版社のように、内容の間違った辞典を発行しているなどは論外だし、あるレベルまで来たら、改訂などもあまり簡単にして欲しくはないと思う。
近年、改訂をわりあい頻繁に行っている「広辞苑」は、便利かも知れないが、少なくとも筆者にとっては絶対性は持たなくなった。
だいたい、辞書の編纂というのは大事業であって、多くの人手と労力を費やし、改訂に改訂を重ねて、やっと一人前の辞書になるものだ。いくらコンピュータ化が進んだとはいえ、日本語と漢字を扱うコンピュータは、成熟と言うには、まだほど遠い。辞典というのは大変なものなのだ。
ある問題についての定義を調べる時には、一字一句の違いが問題になる。そうたびたび改訂を行うというのは、如何なものだろうか。国語審議会の顔色を伺う必要はないと思うのだが。

※国語辞典については、どれくらい正確か、バロメーターになる有名な単語が幾つかあるので、参考までに挙げておく。
小さな辞書には載っていないから、友達に知ったかぶりをするのに良いだろう。「広辞苑」などでも版の違いでかなり記述が違うから、世の中の変遷が反映されているようだ。

独擅場(どくせんじょう)=よく独壇場(どくだんじょう)というのは、明らかな間違い。「擅」は「ほしいままにする」の意で、独擅場とは「独りでほしいままにする場所」という意味だ。別に壇上に登るわけではない。「どくだんじょう」と読むのは百姓。農業従事者に差別発言と怒られても、筆者は責任は取らない。「百姓読み」という日本語がある。インターネットは日本放送協会ではないぞ。

情緒(じょうしょ)=「じょうちょ」は間違い。「緒」は「しょ」としか読まない。広辞苑第三版以降では、「じょうちょ」もだんだん認める方向に来ているようだ。

土地鑑(とちかん)=これは有名な例。「土地勘」は間違いなのだが、これもだんだんと両方認めるようになってきている。「鑑」はもともと「見分ける、判断ができる、目利き」の意味で使われたもので、シックス・センスなどのことを言っているわけではない。

どれも時間が経つにつれて、みんなが間違った言葉を使うようになると、それが常識になってしまうという、良い例だ。確かに「言葉は生き物」ということもあるが、言葉は伝達記号、暗号ではなく、意味と魂を持ったものであるから、最も大切なのは、語源ではないだろうか。
「世紀」問題に深入りして少々くどくなってしまったが、人に聞いたり、世間常識を鵜呑みにせず、自分で調べてみると、案外違った展開が開けてくるものだ。

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