風水巷談:目次

<実録・高島嘉右衛門伝・2>

第二幕・九天九地が口をあけ


鍋島藩江戸屋敷…「離為火」

大枚千両の融通を頼み込んだ嘉兵衛の言葉に、留守居役の忠兵衛は目を丸くした。
「いったい何に使う金だ・・・?」

十両盗めば首が飛ぶこの時代。驚きも当然である。ここで嘉兵衛は、その場ででっち上げた山林買占めの件を、まことしやかに告げた。友人が総額五千両の山林を急に買い占めることになり、材木価値にすれば一万両の大仕事。しかし、残金千両が足りない。今日じゅうにこの千両が調達できなければ、話はご破算、既に納めた四千両は没収とあいなり、家は断絶、一家離散は必定。窮状を見るに見かねての差し出口、なにとぞ嘉兵衛を男にして下され・・・。

あり得ない話ではなさそうだが、もちろん真っ赤な嘘なので、どうもうまく舌が回らない。しかし何しろ、普段の働きが働きなだけに信用絶大だ。相手は信じ込んでしまった。
「なるほど・・・それは不慮の事態だな。事情はよくわかった。しかし明朝までとなれば、今夜じゅうに現金の手配が必要だが、返済の条件は如何に?」
このへんはさすが鍋島藩というか、しっかりしている…。

「手前どもがご当家に納めます材木及び工事請負代金は、年間数千両に上ります。その中より返済となれば、さほど難しいことではございません。もちろん相応の利息は心得ており…」
「うむ、それならば、重役がたも嫌とはおっしゃるまい。しばらくここで待つが良い」

…待つ間、嘉兵衛は鋭く頭の中で計算した。江戸中の有名な材木問屋とその店の在庫。材木買占めにかかるとしても、小さな店ではせっかくの儲けをふいにしたかと臍を噛むことだろう。余裕のある店を選ぼう。そこまで計算を巡らせる嘉兵衛…
なぜ、材木が儲けになるかというと、急に材木相場が暴騰するという読みである。いったい、いったい…それはどういうことなのだろうか…

離為火!

江戸の町が大火に見舞われるという読みである。上も火、下も火、カッカと燃えている、急げ!…離為火という卦の読みに、すべてを賭けたのである。ちょっとこのへん、山師っぽいが、もともと盛岡の鉱山事業請負で、山師は本業である。洒落ではなく、真面目に本物の山師気質を養っている。

「喜べ、話はまとまった。日頃から殿の信用も篤いそのほう、このはからいが後日お耳に入っても、依存はあるまいとの家老方の御意見。一千両を即刻現金にて引渡す」

嘉兵衛は現金を手にするや、あらかじめ引き連れて来ていた手代数名をその足で各材木問屋に先回りさせ、商談にあたらせた。
当時の江戸は不景気が続き、木材の価格は極度に安かった。また当時の商法では、一割程度の手付金で取引が決まり、後日の価格の変動にかかわらず、確実に取引価格で受け渡しされることになっていた。この慣習を破った者は、二度とその後の商売ができなくなる為、この約束は確実に守られたと言う。

とにかく、徹夜で商談に歩いた結果、たった一夜で約一万両に上る取引が終わった。家路についた嘉兵衛の懐には、何十枚かの証文が入っていたが、千両の現金は一枚残らず消えていた。

一生に一度の大芝居、大博打、もしこれで何事も起こらなかったならば、確実に破産である。さすがにその夜は、さすがの嘉兵衛も一睡もできなかった。胸中察して余りあるところである。

さて、夜が明けて、天には雲一つない日本晴れ。火事の気配など、どこにもない。。。いや、そよ風一つないのだ。この天候では、万一火事が起こっても、すぐに鎮火して大事には至らないだろう。

一方、木材の現品の引き取りは5日以内と決まっている。そうのんびりと天変地異を待ってはいられないのだ。嘉兵衛は居ても立ってもいられない。しかしもう、後は待つしかないのだ。何を待つのか?そう…お江戸の大火…。花のお江戸が大火事で焼け落ちるのを、命がけで待っているのだ。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉は、果たしてこういう時にも当てはまるのだろうか?

その日の午後…嘉兵衛は駕籠をとばして、高輪泉岳寺に父の墓を訪ねた。
「江戸に大火が起こって欲しい…などという大それたことを願うわけにはいかない。しかし、お約束でございます。この利益は、びた一文として私(わたくし)いたしません。どうぞ、私を男にして下さい。それだけが願いでございます」
その時、彼の五感がかすかに大地の異常を捉えた。墓の傍の大樹が、風もないのに枝を鳴らしたのだ。


天地騒乱・安政の大地震!

その翌日、本郷を所用で訪れた嘉兵衛は、酒を振舞われて帰路についた。駕籠の中で心地よい酔いに身を任せていた嘉兵衛を、突如、百雷のような轟音が襲った。

「地震だ!!」
木の葉のように舞う駕籠から辛うじて這い出した嘉兵衛の目に映ったのは、町家がぐらぐら揺れ動き、戸障子が微塵に砕けて飛び散っていくさまだった。
続いて第二の振動。家々は将棋倒しに崩れ落ち、瓦は砕け散った。人々の悲鳴や怒号が飛び交う。まさに生き地獄、安政の大地震である。

安政二年十月四日
この日の江戸の大地震は、大正十二年の関東大震災に勝るとも劣らぬ規模で、甚大な被害をもたらした。
死者総数20万人、江戸百万の住人のうち、5人に一人が命を落としたのである。当時の大学者であった藤田東湖も、この地震の時に水戸藩江戸屋敷で読書中、病床にあった母を救い出そうとして梁の下敷きになり、51歳で命を落としている。彼がもっと永らえていれば、幕末の歴史は変わっていただろうと言われるだけに、惜しい人物であったが、これは安政地震の惨事のほんの一端であろう。

嘉兵衛の頭の中は、現実的な方面にめまぐるしく回転した。買い占めた材木の値段はどれぐらいになるだろう?現物を引き取るさいの残金の工面はどうしたら…?

非常の際のことで、その場で駕篭かきを家に帰した嘉兵衛は、京橋目指して歩き出した。
黄塵が濛々と立ち上り、早くもあちこちから火の手が上がり始めている。この有様では消化活動も及ばず、たちまちのうちに江戸じゅうが火の海となり、後に残るのは焼け野原のみとなること、必定。

夜が更けてからやっとのことで自宅に帰りついた嘉兵衛だったが、さすがに材木問屋だけのことはある。手抜きのないしっかりした基礎工事を施しただけあって、地震にも倒れず、周囲を堀に囲まれているので飛び火の恐れもなく、人手も揃っている。この問屋町は無事に原型をとどめていた。ほっと胸を撫で下ろす嘉兵衛だった。
奥から飛び出してきた女房のおしげが、涙を浮かべながらもほっとした面持ちで迎える。番頭、手代も揃っている。次の仕事は、何はともあれ、翌朝すぐに、南部藩、鍋島藩の屋敷へ火事見舞いを差し向けることだった。

鍋島藩は、上屋敷中屋敷下屋敷とも、すべて炎上壊滅の憂き目にあって、まったく原型を留めていなかった。
戸板百枚、草履七百足、焼け跡の板囲いの為の幕杭300本を当座の見舞い品として、早朝から嘉兵衛は鍋島藩を訪れた。
なんと言っても、大名屋敷の焼け跡には、板囲いをしてから幕を張り巡らし、内部を窺わせないようにするのが真っ先にすべきことである。しかし非常の際のこと、お互いの無事を確かめるのに精一杯で、誰もそこまで気が回っていなかった。
迅速適切な対応を感謝された嘉兵衛、さっそく次の仕事である。

「殿はちょうど昨日、国許をお発ちになり、江戸へと向かわれている。早飛脚でお知らせはしたが、殿のご気性ではそのまま出府なさることであろう。」
「いかにも然様でございましょう」
「それで、殿が到着される以前、今日から30日以内に仮のお住まい、奥方のお住まい、家中の者達の住居六百軒を建ててはくれまいか。火急の工事ゆえ、費用の件は何としてでも取らせるが、この工事、引き受けてくれぬか」
「よろしゅうございます。いかにも嘉兵衛お引き受けいたしますが、何と言っても先立つものがなければ、材木、職人の手間賃など、普段にも増して高騰しております。それもこの先、どこまで暴騰するか分からぬ現状、早く前金で抑えなければ、普段の数倍、いや、どこまで跳ね上がるか、その見当さえつきかねます。先日の金一千両は、申し上げました通りの山林買占めの目的にあてましたゆえ、手前どもの手元にも余裕がございませぬ」
「いかにももっともだ。いかほど入用じゃ?」
「前回の千両は別にしまして、とりあえず金一万両、前渡し金としていただきとうございます。清算の方は工事完了次第、実費にしかるべき利益を添えて、決済願いたく存じます」

「よし、あい分かった。ところで、その金子だが、あの地震の折、当屋敷の金子は残らず屋敷の中の井戸に投げ込んである。十間余りの深さゆえ、どのような事態になろうとも安全だろうと思ってな。今日は早朝より、潜水の達者な井戸屋を呼び集めて、引き上げにあたらせている。今しばらく待たれい」

この処置には、嘉兵衛も思わず舌を巻いた。これほどの非常時に家臣の一人一人がここまで気をきかして、しっかりと非常の措置を取ったのも、鍋島候の教育が末端まで行き届いている証拠である。これで材木引取りの残金の目当てもつき、それにつけても自分は幸運だったと思わずにいられない。

「有難うございます。それでは、建築の基本方針だけ申し上げておきます。今後とも、地震発生の可能性が皆無とは申せませぬ。その対策といたしまして、屋根は上等の銅でもって張り詰め、その下はこけら葺きとし、壁は寒さに向かうことゆえ、板羽目にして紙で目張りをいたすのがよろしかろうと存じます」
「うむ、細かな点はその方に任せた。それではくれぐれも頼んだぞ」

まもなく、十の千両箱が嘉兵衛の前に運ばれて来た。これだけの大金を目にするのは、さすがの嘉兵衛も初めてである。思わず、身が震える思いである。
千両箱を開いて中を改めた後、四人肩の駕籠を呼んで百両包みを駕籠布団の下に敷き詰め、自分はその上に胡坐をかいた。

商談のまとまっていた材木問屋を順番に回って、残金の支払い、材木引取りの手筈を済ませた嘉兵衛に、さすが江戸の商人、文句を言う者は一人としていない。当然、地震後のこの3日間、材木の価格は天井知らずと言われたぐらいに高騰していたのだが、商売の道は厳しいものである。ただ一人、吉田屋新兵衛という問屋だけがちらりと皮肉を漏らした。
「嘉兵衛さん、お前さん、大儲けをしなすったねえ。3日で四倍にはねあがった材木だが、この状態では後金の工面がつく筈はない、手付金も品物もこっちのもの、お気の毒に…と思っていたのが当てが外れちゃったよ。もちろん、約束どおり品物はお渡ししますさ。しかし、忘れちゃいけねえ、こんな幸運は二度と来ないぜ。あんたがなまずの親類ででもない限り、柳の下に二匹の泥鰌はいねえから、そこんとこ、肝に銘じてな・・・」

ここまでツキまくっている嘉兵衛に、この言葉がどこまで染み入ったかは分からない。
この時嘉兵衛、わずか二十二歳。しかしこの工事、三十四日のあいだ、深川木場と鍋島屋敷の間を駕籠で往復するだけの毎日。草鞋の紐も解かなかったというのだから、超人的な体力、努力である。
その甲斐あって、鍋島屋敷の完成は他の大名屋敷よりもふたあし、みあしも早かった。鍋島候の江戸入り当日には立派な仮屋敷が仕上がっていた。鍋島候も嘉兵衛の活躍を聞いて、「この親にしてこの子あり」と膝を叩かれたという。

工事完成後、丸二日間というもの、泥のように眠りこけた嘉兵衛は、次に南部藩江戸屋敷を訪ねた。南部藩は先代嘉兵衛が間に入って一肌脱ぎ、鍋島藩から窮状を助けられたという経緯がある。嘉兵衛は家老の楢山佐渡に会った。

「大変申し訳ないと思いながらも、鍋島様御屋敷の建築を仰せ付けられまして、日夜を分かたぬ仕事が続きました。ご当家へのご挨拶が遅れまして、面目次第もございません。鍋島様のほうのお仕事は目出度く終了いたしました上は、ご当家のほうの御用を、遅ればせながら承りとうございます。何なりとおおせ付け下さいますよう、お願い申し上げます」

「おおそうか、その方の家にはいちおう使いを出したのだが、鍋島様の御用で忙しいと聞き、そのまま立ち帰ったという。先年、当藩の飢饉のさい、鍋島様のおはからい、われら一同、骨身に沁みて忘れはせぬ。そのほうが鍋島様のおん為に全力を尽くすのは、われらの名代のようなものだと、陰ながら喜び感謝していたところである。われらのことなど、二の次、三の次で良い。嘉兵衛、ご苦労であった」
楢山佐渡も、幕末の陪臣達の間では指折りの賢臣とうたわれた人物である。ものの道理がわかっている。

「ありがたきお言葉でございます」
「そのほうに頼みたいこともないではないのだが、如何にも疲労の様子、まことに無理もないことと思う。ここ数日はゆっくり休養を取り、改めて出直して来てはくれぬか。仕事の話はそれからにしよう」
「お気持ち、有難うございます。そうさせていただきますれば、真に助かります。しかし、その前に、お見舞い代わりの一仕事、この場でご許可をいただけませぬか」

「というと…?」
「この二日間、あまりの疲労に万事を忘れて眠り続けましたが、その間に手代達を遣わしまして、御当家の菩提所のお墓のご様子、つぶさに検分させました」
「な、なんと…それは…」
さすがの賢臣の楢山佐渡も、言葉を失ってしまった。
「そこまで…そこまで心を配っていてくれたのか…」

「はい、白金の瑞祥寺、芝の金地院のお墓石七十余基、ほとんどが転倒いたしているとの報告でございます。このままに捨て置きましては、南部様の御家名にもかかわりましょう。幸い地震以来まだ40日も経ちません。ここ数日のうちに御墓所の修復を終われば、人も感心いたしましょう。この費用のいっさいは、手前がお引き受けいたしますので、なにとぞ御心配なきよう。日頃の御愛顧にこたえさせていただくまででございます」
「嘉兵衛、よく言ってくれた…。万事よろしく頼んだ…」
この混乱の中で、嘉兵衛のこの気配りには、さすがの楢山佐渡も目をしばたたいて、声にならない感謝の念に浸るばかりだった。

もちろん、嘉兵衛は期待を裏切らなかった。
中五日の間に全ての墓石がきちんと据え直され、そればかりか、欠けた部分はきれいに継ぎなおされ、苔を落として磨きをかけ、まるで新しい墓と見違えるほどに完全修復を終えた。

七日目にそれを検分に来た南部藩の家臣は、自分の目を信じられない思いだった。もちろん、墓石が倒れたのは南部藩だけではない。しかし、墓石の修復を済ませたのは南部藩が最初だったのだ。屋敷の修復が手付かずなのに、墓の修復が先に行われたことで、屋敷を立派に建て直すよりもいっそう、世間を感心させたのだ。

貧乏藩とあざけられていた南部藩は、これで大いに見直され、南部大膳太夫の名は孝子として世に謳われた。その一方、この一件での遠州屋嘉兵衛の名はほとんど伝わらなかった。
しかし嘉兵衛にはそんなことはどうでもよかったのだ。何しろ、私(わたくし)しないという約束の元に、この地震で男を上げたのであるから、天地神仏に対する約束を守っただけである。

南部藩墓地の修理が済んだ頃、鍋島家からは工事費の請求書を差し出すように、との沙汰があった。出来上がった三軒の屋敷を検分し終わった直正候が、その仕事ぶりにいたく感心され、一日も早く工事費を払ってやるように、との言葉があったと言う。

ここで問題なのは、請求額である。嘉兵衛は一晩思案した…。
当時の幕僚達の間では、商人を蔑視する傾向が強く、商人として当然の行為でさえ白眼視する向きがあった。特に、天変地異に際に当然のように発生する物価の上昇に対しては、それを利用して巨万の富を築いた者は吟味の上入牢という、厳しい処罰の可能性さえあった。

嘉兵衛の出した結論は、工事費用の実費、大工や職人の手間賃はありのままに書き出し、材木の費用は鍋島藩のほうで、地震の翌日の市中の値段を調べてもらって平均額を出し、その合計に5分の口銭を上乗せするというものだった。これならば材木の値上がりぶんはそのまま儲けとなり。取調べを受けても咎めを受ける恐れはない。

この計算法はそのまま認められ、代金は即座に支払われた。町奉行所から鍋島藩へ問い合わせがあったが、辻褄があっているので咎められる筋合いがない。ここで嘉兵衛が得た利益は、約二万両に上った。


九天九地の口が開く・「坎為水」

こうして、江戸でも有数の商人として頭角を現した嘉兵衛だが、大地震で九天に登ったのも束の間、この頃から九地のほうの口が開き始めたのである。
それは、地震で破壊した南部藩江戸屋敷の工事請負あたりから、はっきりした形を取り始めた。

安政三年、南部藩からこの工事の相談を受けた嘉兵衛は、五万五千両の予算でこれを引き受けた。ただし、木材は南部領内で切り出したものを使い、そのぶんは工事費からさっぴくという、南部藩にとってはけっこう得な条件だった。

3月から工事開始だったが、何と言っても急を要する仕事の為、まず嘉兵衛の手持ちの材木で工事にかかり、それに見合うだけの材木は、後日現物で埋め合わせるという手筈になっていた。
雪解けを待って伐採された木材は、筏を組んで北上川を下り、石巻港から船積みされて深川木場に運ばれてきた。



8月15日のことである。
南部藩邸の工事は順調に進んでいたが、この日の江戸は、空前と言われたほどの強い台風に直撃された。
深川を、津波のような高潮が襲った。永代橋は橋桁が折れて橋全体が崩れ落ち、三十三間堂の屋根は暴風に飛ばされ、一里も先の閻魔堂の境内に落ちていったとも言う。

深川木場の材木置き場の被害も、惨憺たるものだった。南部藩から回送してきた材木のほとんどすべては、この高潮で海へ流れ出し、回収不能になってしまった。半分以上工事が進んでいた南部藩邸も大変な被害を受け、根本的なやり直しが必要なところさえ出て来た。

嘉兵衛はこの時、江ノ島神社に詣でていた。海の神の竜神さま弁天さまに願って、台風を収めて貰おうという望みでもあったのだろうか。
しかし駕籠を飛ばして江戸へ帰って来たところ、目の前の被害は想像をはるかに上回っていた。さすがの嘉兵衛も二日間は言葉もなく、対応策も立てられないまま暗然となってしまった。

しかし、この時代、商人の生きる道は一つしかなかった。当時は建築工事を請け負う者は、天災などの不慮の事態が起きても、決して工事の中止は許されなかった。約束の期限が遅れることは致し方ないとしても、必ず工事を続行し完成させなければ、信用をなくして二度と請負はできないという、厳しい掟があったのである。
こうなったら損得ではない、信用だ。嘉兵衛は自分に言い聞かせた。3日目に、やっとその腹を決めた嘉兵衛は、とにかく、南部藩邸の工事を再開した。しかし、前年の地震に続くこの台風被害のために、江戸の木材相場と職人の手間賃は、再び天井知らずに暴騰していた。

借金につぐ借金を重ね、どうにか工事は完成したが、その損害や甚大。前年の利益を全て吐き出した上で、残った負債の総額は、実に二万両。万両分限と言われたのも、わずか一年という短期のことだった。

世間の目は冷たいものだ。
「火で儲けたものを水で吐き出したのか」
「なまずの親類も竜神さまには勝てなかったようだな。江ノ島の弁天さまもご利益はなかったようだ」
借金の利息の払いだけでも並大抵のことではない。これまでさまざまの難関を乗り越えて来た嘉兵衛だったが、これまでで最大の悪戦苦闘が始まった。

嘉右衛門翁は陰遁生活に入ってから、この時期の心境を振り返り、「毎日毎日、重い石を背負って激流を遡るような思いだった」と述懐している。



新天地、横浜の罠

このような苦しい状況の中で、ある日突然、新天地が開けてくるのである。

嘉兵衛のもとに、鍋島藩の家老、田中善右衛門が訪ねてくる。用件は明年六月に開港となる横浜に、鍋島藩特産の伊万里焼の店を開きたいが、嘉兵衛にその店を商ってみないか、という話だった。
鍋島藩のほうでも嘉兵衛の窮状は噂に聞いていたらしい。何か脱出の方策があれば応援したいという趣旨もあったのだろうが、嘉兵衛の手腕を使って藩の財政に貢献しようという、田中善右衛門の才覚という面もかなり強かったようである。

この話の出た安政五年、1858年あたりから、日本は新たな激動期へと突入してゆく。
開国に伴う尊王攘夷の風潮、井伊直弼の日米通商条約調印、それに反対する攘夷論者達の弾圧開始。安政の大獄である。
続いて7月にはコロリ=コレラが発生し、多数の犠牲者が出た。この混乱の時期に、田中善右衛門が異人相手の商売の将来性に目をつけ、嘉兵衛を起用したのはいちおう卓見ということになるだろう。

田中善右衛門の提示した条件は、開店資金として四千両を長期間の年賦払い。これは嘉兵衛にとっては、願ってもない条件だった。横浜という場所を始めて認識したのは、嘉兵衛にとってこれが発端だった。
江戸を離れ、国際港としての横浜を新天地として店を出すのは良いが、未だ一歩も足を踏み入れたことのない横浜という土地で、異人相手の商売・・・果たしてやっていけるだろうか?
しかし、当時の苦しい状況の中、他に突破口を見出すすべもなく、嘉兵衛はこの話に自分を賭けてみようという気持ちになる。

とにかく、嘉兵衛は安政六年6月2日、横浜港開港の日に、「肥前屋」という屋号で横浜に伊万里焼の店を開店したのだった。鍋島藩直売店のようなものなので、他店よりもはるかに安く品物も豊富で、外国人客だけでなく、日本人客も多く利用するようになり、大変な繁盛ぶりとなった。
ところが、一息ついたかと思ったのも束の間、この店には余計なおまけまでついて来る。江戸と横浜では一日という距離の為、肥前屋の繁盛ぶりはすぐに江戸で噂になり、多数の債鬼が店先に姿を現すようになってしまった。

「これだけの品物を置いてこんな繁盛ぶりだ、こっちの借金も払ってくれ」
こんな債務者に追い回される毎日では、せっかくの再起をかけた店の繁盛ぶりも、何にもならない。おまけに、慣れない品物、異人相手の商売でもある。嘉兵衛はすっかり神経をすり減らして、ノイローゼに近い状態になってしまったという。


貨幣売買で大儲け

ここで、嘉兵衛はふと、妙なことに気づいた。
肥前屋ではほとんど商品を売るだけだからすぐには気づかなかったのだが、外国人の商人のやりかたには変わったところがある。商品を買う時にはすべて銀貨で払い、自分の商品を売る時には、必ず小判を要求するというのである。

彼は、改めて、小判の中の金分と、銀貨の銀分の量を計算し、その値段を比較して仰天してしまった。
貿易港としての横浜開港という事態で、幕府の役人はそこまで気づかなかったのだろうが、この交換率には大変な矛盾がある。
ごく簡単に言えば、小判を小判としての貨幣価格で使用せずに、小判を鋳潰して金塊とし、金としての時価で売り渡せば、公定換算率の三倍に売れるのだ。

理に敏い商人たちが、このからくりに気づかない訳はない。現に小判の闇相場のようなものがあり、そこに小判を流せば、公定相場の倍以上の銀貨が入るという情報も耳に入ってきた。

大量の小判を入手し、裏取引で銀貨に交換し、銀貨を公定相場で売れば、その差額だけで膨大なものになる。これを利用すれば、借金などはすぐに返済できる。
絶え間なく債務に苦しめられて半分ノイローゼ状態になっていた嘉兵衛には、この方法は天啓のように思えた。しかし、この行為が国法に触れるということは、まるで考えてもみなかったという…。

嘉兵衛はいろいろ手を尽くして探索を続け、この闇取引の首謀者がキネフラというオランダ人であることを突き止めた。このオランダ人は肥前屋の上客でもあり、嘉兵衛も顔はよく知っていた。早速彼はキネフラの商館を訪れ、人払いの上、密談に入った。

取り出したものは一枚の小判である。
「これをお買いになりませんか」
「ウツクシイ、コガネ、イチマイ、ダケ、デスカ」
「ご希望であれば幾らでも」
「ドウシテ、ソンナニ、コバン、アツメラレル ノデスカ」

嘉兵衛は鍋島藩との関係を話し、藩から小判を貸してもらって、それを元に多くの取引をしたいと持ちかけた。
たちまちのうちに乗り気になったキネフラと、換算率の細かな相談を終わると、江戸へと駕籠を飛ばし、鍋島方に事情を打ち明けて江戸屋敷の小判を放出して欲しいと頼み込んだ。
鍋島藩にとっても損になる話ではない。ただし、藩として公然と闇取引に参加したとあっては、もしもの時に家名に傷がつく。
「決してこちらに迷惑はかけてくれるなよ」という約束の元に、新たな嘉兵衛の活動が始まった。鍋島藩以外にも各所から小判を集め、キネフラの所に持ち込めば、公定歩合よりもはるかに高率で銀と交換できる。その差額から発生する利益で、負債を返済し始めた。

この闇取引、「商人なら誰でもやっていた」ということもあるだろうが、嘉兵衛がここまでこの取引にのめりこんでしまったのは、借金でノイローゼ状態だったことが大きいだろう。それに若さもあった。
この闇取引は足掛け2年、実質1年2ヶ月続いた。取引仲間も何人かでき、嘉兵衛はこの利益で、いとも簡単に莫大な借金を返済し終わった…その年の10月。


投獄!

江戸に帰っていた嘉兵衛の元に、同じ違法外為グループである山口屋の手代、幸助が顔色を変えて飛び込んで来た。
「旦那、旦那はお宅ですか…えらい、どえらいことになりました…」
歯の根もあわないようなおびえ方である。
奥座敷へ通して話を聞いた嘉兵衛は、さすが愕然としてしまった。江戸の両替屋でこれもグループの玉井幸太郎親子と手代三人が、この朝召し捕られ、小判密売の件を残らず白状してしまったというのである。もう山口屋と肥前屋の召し捕りも、時間の問題であることは間違いない。

「これはえらいことになった」
最低でも、数ヶ月の入牢は間違いない・・・そういう直感があった。そうなると、いろいろ整理しておかねばならぬこともある。とりあえず、安全な場所に身を潜めて成り行きを見ようと、彼はすぐに旅装を整えて夜のうちに江戸を出発した。

鉱山開発事業で四年の山中生活をしていた為、足は達者である。江戸から横浜を越えて箱根湯元の知り合いの旅館へ、一日二十四時間で二十里の道のりを歩き通した。
翌日の夕方、旅館福住屋に到着した彼は、さすがに疲れ果てて、泥のように眠り続けた。

その晩のこと、嘉兵衛は不思議な夢を見た。
先年、コロリで死んだ姉婿、利兵衛が襖を開けて、部屋へ入って来たのである。

「いままでは、生くべきときに、生きたれど、死ぬべきときに、死にに行くなり」

利兵衛の幽霊は、こうい歌を残して音もなく姿を消してしまった。彼は一瞬で目を覚ました。
「寝入りばなの夢は逆夢、朝起きがけの夢は正夢ということだな…」
(縁起でもないが、昔よく当たる易者に言われたことがあったな…三十前に万両分限になるが、その代わり人災で命を落とすことになる。あの予言はやっぱり当たるのか…)

嘉兵衛は何通かの手紙を書き、近くの知り合いに当てて自分の様子を知らせ、早飛脚に託した。朝食を終え、伊豆山神社へ参詣に出た。
おみくじも「凶」である。

その後、キネフラ、デーセンなどに連絡して急を知らせた嘉兵衛は、江戸へ帰ることを決意した。知り合いの家で侍姿に変装した後、妻の実家、江戸の自宅など各方面に顔を出して別れの挨拶をする。
最後に行ったのは、赤坂溜池の鍋島藩江戸屋敷である。そこでは鍋島家の関係者達が密かに集まって別離の縁を開いたのだが、その席で井上善兵衛が嘉兵衛に問いかけた。

「お上では、当家にも共犯者がいると睨んでいるようだ。そのほう、これから自首して出るとのこと、それなりの覚悟はあるだろうが、万一拷問などにあって、言うべからざることまで口走るようなことがあっては、殿のご迷惑にならないとも限るまい。その件に関して、その方の心がまえを聞かせてはくれまいか。その申し立ての内容によっては、われらとしても事前にそれなりの準備をいたし、殿に累の及ばぬよな方策を講じておきたいと思う」

「その御心配には及びません」
嘉兵衛はきっぱりと言い切った。
「このご家中には、このことに関係のあるお方は一人もございません。私はただ、商人として利をはかった為に、道を誤っただけでございます。その罪は自分であがなうべきこと。どのような拷問を受けましょうと、事実でないことは口外できません。ご恩を受けた殿様にご迷惑をおかけすることなど、思いもよらないことでございます。お心やすう存じます」

居合わせた人々は、一様に顔を合わせてため息をついた。
「その方の父、先代の嘉兵衛のことが思い出される。殿もその方の今の言葉をお聞きになったら、この父にしてこの子あり、とさだめし感心なさることであろう。この上はこれぐれも体に気をつけて、再び対面の日が来るまで、ぜひとも達者でいてくれよ」

嘉兵衛はそれから、呉服橋の北町奉行所に自首して出た。いったん、留置場にあたる仮牢へ入れられ、数日経ってからすでに捕らえられている五人の関係者と一緒に白洲に引き出された。他の関係者はすっかり生きた心地をなくして、やつれ果てている。

取調べにあたっての供述は、鍋島藩で約束したとおり、すべて自分一人で罪を被るものだった。小判を買い集めたのは、最近小判の相場が上がっていることから、すべて自分一人で考え出したものである。それも、あくまでも日本人間の取引の為に集めたもので、それに協力した他の日本人の行為は、何ら違法性はないとの一点張り。

翌日から嘉兵衛に対して厳しい取調べが始まった。しかし嘉兵衛の言い分もふるっていた。自分は異人に小判を売ったのではない。横浜の店に、突然異人がやってきて、強制的にそこにあった小判を奪い取って、代わりに銀を置いて行ってしまったという主張だった。取り返そうにも言葉の通じない異人相手で、腕力沙汰ではどうにもならず、そういうことがたび重なるうちに、店には不正手段で置いて行かれた洋銀が溜まってきたため、届け出るにも出られなくなり、躊躇しているうちに召し捕りに至ったという主張である。
すでに国外に出てしまった異人に全て責任をかぶせる主張で、作り話なのは一目瞭然だが、話としてはいちおう矛盾点はない。何よりも当の異人がその場にいないので、これ以上取調べようがない。
嘉兵衛はとにかく、二人の異人を取り調べてくれ、との一点張りである。

与力たちもこれにはすっかり手を焼いてしまった。いくら作り話と分かっていても、当の異人を取り調べなければ決着はつかない。しかし、国外逃亡してしまった異人が戻ってくるとは、まず思えない。

やむを得ず、二人の異人が日本に再来するまで、嘉兵衛は入牢ということになった。
帰って来る筈のない異人を待って、嘉兵衛の囚獄生活が始まった。
万延元年(1860年)、嘉兵衛29歳の時である。

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