巷談:目次

<実録・高島嘉右衛門伝・5>

第五幕・歴史の波がハマを呑み


高島屋旅館に集う人々

出獄後、持ち前の器量でもって横浜の地で事業家としてメキメキ頭角を現した嘉右衛門は、慶応元年〜慶応四年(9月8日から明治と改元)の四年間に、更にめざましい発展を遂げた。

ちょうどこの時期は、日本の歴史に於いても、未曾有と言ってよいほどの大変革を遂げた時期である。明治維新、大政奉還という大きな時代のサマ変わりは、平和な時期からは想像もつかない荒々しい波となって、日本をすっぽりと飲み込んだ。
ことに、横浜という日本の窓口に居て外国公館の仕事に深くかかわっていた嘉右衛門には、時代の流れはことのほかくっきりと感じられたことだろう。

この四年間で、彼が異人館建設によってあげた利益は、15万両に及んだ。横浜だけでなく、神戸の領事館建設などにも手を染めている。更には、英国公使などの周旋によって、全国の灯台建設を一手に引き受ける元受となっている。

このような忙しさの中でも、彼は将来に関する布石を忘れなかった。明治新政府誕生とほぼ同時に、横浜に大旅館「高島屋」を開店した。(現在の高島屋デパートとは無関係)

もともと、建築土木請負というインフラを、主ななりわひとしてきた嘉右衛門からすると、旅館という、いわばサービス業の運営は、少し今までの仕事の流れとは異なる気がする。ところがこの高島屋旅館が、その後の彼にとっての大きなターニングポイントとなるのである。

それまでいちおう、横浜にも旅館はあったが、商人宿に毛の生えたようなものしかなく、高位高官の宿泊に相応しいものではなかった。もともと、江戸から横浜まで、高位高官が所用で出向くということが想定されてはいなかった時代なので、無理もないことである。

ここに目をつけた嘉右衛門であるが、やることが違う。建築費に糸目をつけず、思い切って豪華な和洋折衷の旅館を建築した。更に、ソフト面も並のレベルではない。宿泊客の接待に当たる、いわばサービス係の人選も、旅館の従業員というイメージを払拭するレベルだった。
接待に出る男衆には、江戸幕府城中勤めの茶坊主を当てて、髪を伸ばさせて給仕に仕立てた。女衆には旧幕臣の息女や幕府大奥、また諸藩に女中奉公していた者だけを集めた。

容色、立居振舞、礼儀作法、それこそ超一流の本物ばかりである。こうして高島屋旅館は、ハード、ソフト両面とも、他に類を見ない一流旅館として、その名を馳せるようになった。

これで流行らないわけはない。明治新政府の大物や外国公使のすべてが高島屋旅館の常連客となり、嘉右衛門と懇意になっていくのは時間の問題だった。
豪奢な旅館で超一流のサービスを受けられる上に、宿の主人は実業界の大立者であり、そこに泊まれば情報も入ってくるし人脈もできる。
更に嘉右衛門には、「易」という隠し技がある。何かにつけて迷いの出た時には、こっそり嘉右衛門を呼んで易を立ててもらう客が後を絶たない。お陰で、嘉右衛門は旅館の繁盛と共に、政府の裏面の情報に触れる機会を得、この旅館は一石二鳥以上の働きをしたのである。


易者嫌いの易断は

これらの宿泊客の多くが、何かにつけて嘉右衛門の易断を参考にしたのに対し、一人だけ易を好まない人物があった。
当時の参議・陸軍大将の西郷隆盛である。

もちろん、易断を仰がないからといって、西郷が嘉右衛門や易そのものを信用しないと決まったわけではないだろう。自分の行動は自分で決する、という信念の表れなのだろうが、何となく気になった嘉右衛門は、ある日密かに、この西郷隆盛の運命を占ってみた。
結果を見た彼は、愕然となった。

「水地比」上六爻
之を比す。首なし。凶


「比」とは人に和合し、親しみ交わるという意味である。しかし、陰陽五行学の知識の少しある方ならば分かると思うが、水と地(土)は、本来は相容れないものであり、この卦は交わってはならない人間に交わり、その結果、命まで危うくなるという卦だ。

参議・陸軍大将ともあろう大人物にこのような不吉な卦が出よう筈はない、これは自分の占断ミスに違いない。そう思った嘉右衛門は、このことを誰にも告げなかった。しかし、それから約10年後、西郷隆盛は西南戦争で官軍の弾に当たって動けなくなり、部下に介錯されて一命を断ったのである。
事実関係とこの易断結果との関係は、読者諸氏の解釈に委ねるとして…


嘉右衛門は高島屋に来る政府要人の中で、数人の人物に目をとめた。その第一は伊藤博文。当時はまだ20代で、新政府の要人としては最年少だった。
伊藤博文は嘉右衛門よりも9歳年下で、長州の周防の生まれである。長州藩ではごく軽輩の家柄だが、幕末の動乱期のことである、生家の身分などは比較的こだわりなく、有為の若者が実力主義で台頭してきた時代だった。
伊藤博文は、三浦半島の警備にあたった際に警備隊長の木原に認められ、江戸藩邸との連絡係を命ぜられ、この仕事の際に桂小五郎=後の木戸孝允と顔をあわせるようになる。この経緯が、後日の飛躍の為に重要な布石となる。
その後、伊藤博文は吉田松陰の門下生となり、安政の大獄や桜田門外の変、英国公使館焼き討ち事件、生麦事件などへの係わりが続くのだが…

嘉右衛門が伊藤博文に注目したのは、やはり易者として、彼の人相、手相に輝くばかりの前途を見出したからだった。

もう一人、嘉右衛門が目をつけた人物に、旧佐賀藩士の大隈重信があった。
この伊藤と大隈の二人に関しては、英国公使バークスにしても、早くからその将来を買って、日本はあの二人の働きによって運命を決するようになるだろう、と漏らしていたという話もある。

さて、嘉右衛門が手をつけた最初の大掛かりな事業は、横浜市の下水道の整備だった。
ある日、高島屋に宿泊した参議・木戸孝允に呼ばれた嘉右衛門は、非公式にこの問題について相談を受けた。
当時の横浜は日本の表玄関ではあるものの、急速に発展した都市の例に漏れず、さまざまな受け入れ態勢が不備だった。その一つが下水道である。

わずか十万坪の街だが、外国人居留地などが密集している為か、水道の使用量の割りに下水道が不完全で、その為、各所に汚水が滞り、溝からの悪臭は町を歩いているだけで気持ちが悪くなるほどだった。

嘉右衛門は木戸孝允の期待に背かず、蒸気ポンプをアメリカから取り寄せ、汚水を海に排出し、そこから出る泥土は埋め立てに利用するという方法で、100日という短期間で下水道工事を完成してしまった。新政府の人々は、「高島恐るべし」との思いを新たにしたものだった。


嘉右衛門の野心

明治2年、9月10日のことである。大蔵大輔(現代の大蔵次官)である大隈重信、大蔵小輔の伊藤博文の二人は、横浜のイギリス公使館を訪問した後、高島屋に一泊した。
横浜、東京はおろか、日本で屈指の豪華な近代的旅館である。夕食の席でくつろぎながらも、新時代を担う二人の関心は、仕事のことへと向かう。

「高島さん、まあ一杯いきましょう。最近、何か為になる話はありませんかね」
「私など、一商人に過ぎませんよ。政府の博識なお方に下手な話などするのは釈迦に説法」
「何も謙遜なさることはないでしょう。我々は忙しさにかまけ、目先の急務の処理で手一杯で、遠い将来に対する見通しを立てきれなくなっている気がするのですよ。民間人の立場から見て、日本の為に今一番の急務は何でしょうかね」

「それは…蒸汽車の敷設でございましょうな」
「蒸汽車?」伊藤と大隈は顔を見合わせた。
伊藤博文は、先年イギリスに渡った際に蒸汽車に乗って、その便利さは体験済みである。ところが、日本ではベルリの来朝当時、模型汽車が送られただけで終わっている。その模型汽車にしても、江戸城内で将軍や大名などに見せられたのみで、その後、火事で消失してしまっている。

「高島さん、あなた、外国に行ったこともないのに、いつ蒸汽車を見たのですか?」
「何、耳学問ですがね。あんな便利なものがあるならば、日本も将来と言わず、明日からでも準備にかかるべきです。例えば、鹿児島と根室の間は約800里あります。1日10里の道中としても、最低80日かかります。ここに鉄道ができて蒸汽車を走らせれば、わずか三日半ですよ。
こうして各地が蒸汽車の鉄道で結ばれたならば、あらゆる物資の輸送が楽になりますから、その為、日本全国の物価が安定します。また、一朝事があった場合でも、軍隊を派遣するのに便利です。更に、この鉄道工事そのものによって、御維新で職を失った人間に仕事を与えることができ、世情が落ち着くのに一役買うことでしょう。」

「なるほど…」二人は考え込んだ。
「確かに最もな意見ですが、新政府発足後、まだ日も浅く、片付けなければならない問題が山積みでして」
政治家ともなると、有益な仕事とは分かっていても、諸事情で板挟みになって身動きが取れないというのも無理のない話だ。
「それはそうでしょうな。それでは、この仕事は個人の事業としては如何でしょう。もしお許しを頂けますなら、東京−横浜間の鉄道を私個人の仕事として建設いたしましょう。そうなれば、一日で用事を済ませて往復することも夢ではなくなります。万事につけて、こんな好都合なことはありますまい」
「まあ、その話はいづれゆっくりと考えましょう。それよりももう一杯」

二人は何故か、笑って話を打ち切ってしまった。しかし、嘉右衛門は野心満々である。特にこの時期の嘉右衛門は壮年期でもあり、地獄を見た後の上昇気流に乗って、生涯で最も内外ともに充実していたに違いない。この時期の嘉右衛門の写真には、晩年からは想像もつかない精悍さが漲っている。

鉄道敷設の事業が頭から離れない嘉右衛門は、鉄道の完成見込みについて、易を立ててみた。大隈、伊藤両氏の顔色からしても、脈があると見たのである。


「火天大有」二爻
大車以って載す。往くところ有り。咎なし。

占う内容からして、願ってもないピッタリの卦である。4年以内に鉄道は開通すると、嘉右衛門は読んだ。

見込みが出ていったん腹を決めた以上、すばやく行動に移すのは嘉右衛門の本領である。
しかし、普通の事業ではない。鉄道敷設となると、資金も膨大なものになる。彼は最低100万ドルの資金の調達法を模索した。そしてその対象を外国人に求めるべく、調査に移った。

普通の事業とは違う大金なので、おいそれと応ずる相手はない。しかし通訳の横山、富永の二人を通じて探すうち、居留地二十番館のホテルに滞在中だった、リードというイギリス人が、この話に応じてきた。
担保は政府から出される鉄道敷設免状とし、三ヵ年据え置き、四年目以降から元利を十ヵ年で年賦償還するという条件である。

これだけの下準備を整えた後、彼は上京して大蔵省を訪ね、大隈重信に面会して鉄道建設の願書を提出した。
「東京側の中央停車場は浅草あたりが適当と存じます。そうすれば将来、北へ鉄路が伸びる際にも便利と存知ますが」
「待て、まだ許可はしておらぬ。いったい、この資金は確かなのかね?」
大隈は厚い願書をデスクの上に置いて、嘉右衛門をじっと見つめた。
「はい、確かに仮契約は取り付けて参りましたが」
「冗談じゃない、100万ドルと言えば大変な額だ。それだけの金を一個人に貸せるようなヨーロッパの大富豪が、なぜ日本の横浜くんだりまでやってきて、不便なホテル暮らしをしている」
「それは、外国人には外国人の考えがありましょう。特にイギリス人の冒険気質は日本人には想像の及ばないところがあります。それに、この金は公債で集められるということです」
「それにしても…とにかくこれは重大事だ。いちおう書類は預かっておき、許可不許可は追って沙汰するとしよう」
嘉右衛門としても、この重大事が即決されるとは思っていなかったが、願書を読んでもらえれば半ば事は通ったも同然という算段で、丁寧に挨拶し、大蔵省を後にした。


大隈は伊藤を部屋に呼び寄せて嘉右衛門の願書を見せた。
「どうだ、この計画をどう思う」
「計画そのものは立派です。またあの男ならばおそらく立派にやり遂げましょう。しかし、政府の大方針としては…」
「どこが違うというのかね」
「例のボルメトン事件です」
「うむ」
大隈は何度かうなずいた。

張り切っている嘉右衛門の知らぬところで、この鉄道敷設事業には、思わぬ横槍が入っていたのだった。
ボルメトンというのは、アメリカ公使館に長く勤務していた書記官だが、徳川時代に老中小笠原壱岐守に取り入り、言葉巧みに江戸横浜間の鉄道敷設及び使用の免許状を下付させていたのだった。
言葉巧みにというといかにも詐欺的行為のようだが、ある意味でこれは大変な利権であり、先読みの才能を持った人間であるとも言える。

こんな免許があることなど、新政府では誰一人として知らなかったのだが、この問題が表に出てきたのは、新政府になってから、この免許を新政府名義のものに書き換えて欲しい、という要求を出してきたので、初めてこのことが明るみに出たのだった。

免許を下付した小笠原老中にしてみれば、軽い気持ちで在任中の懸案を片付けておこう、という程度のことだったかもしれない。しかしこれは、新政府要人の考えとは完全に食い違っていた。

日本の鉄道は日本で経営するのが当然だ。これを外国人に経営させることは、まるで外国の植民地になるのも同様だ。
これが、この問題の責任者となった大隈、伊藤両人の一致した意見だった。

幸い、この問題には一つの逃げ道があった。
ボルメトン所有の免許状の日付は慶応3年11月7日となっている。徳川慶喜の大政奉還は同年10月24日である。これは、すでに新政府に政権が移った後に、旧徳川の老中が免許を与えていることになる。つまり、権限のない人間が与えた免許として、無効を主張しても、法的には理屈が通っているというわけだ。

この日付を盾に、政府は公使からの正式な要求も、頑強に突っぱねている最中だったのだ。

二人は相談した。
「ボルメトンは純然たる外国人、高島嘉右衛門は日本人。この違いこそありますが、一私人にこれだけの事業の権利を与えたら、省内や世間は何と言うでしょうか。反対者には何と言って説得なさいますか。今後、面倒なことになる可能性もあります。」

もう一つ、鉄道敷設には大きな問題があった。
「何といっても、西郷さんがのう」

佐賀出身の大隈重信、長州出身の伊藤博文の二人は、どうも薩摩出身の西郷とは調子が合わない。かといって、西郷隆盛は新政府で抜きにしては語れない人物である。その西郷は、鉄道敷設には大反対の態度を取っていた。

「鉄道を作るぐらいなら、その金で軍備を増強すべきだ。そのほうが先決問題だ」
大隈が自分の私見だがと断って、西郷に鉄道建設への賛否を尋ねた時、隆盛は叱りとばすようにこの案を突っぱねたことは、伊藤も大隈から聞いて知っていた。

「討幕以来、西郷さんも変わられましたな。昔はあんなお方ではなかったのですが、江戸城無血開城が西郷さんの最後の手柄だったのですかねえ」
薩摩出身のある政府高官が酔って漏らしたこんな言葉を、二人は忘れることができなかった。

二人はもともと、蒸汽車のことには詳しかった。洋行して実際に汽車の便利さを体験してきた伊藤博文はもちろん、大隈重信も、蘭学者・川本幸民翻訳の『遠西奇器述』という本を愛読して、外国の新奇な発明のことをよく知っている。そんな文明の利器の話題に関しても、伊藤と大隈はよく話の合う仲だった。
「まあ、西郷さんを口説き落とすのはゆっくり時間をかけるとして、この願書はどうしようか」

「一つ見逃せない急所がありますな。高島嘉右衛門という男は、時には大法螺も吹きますが、眼は鋭く計算はしっかりした男です。その高島がリードなる男に会って100万ドルの借り入れの約束を取り付けたとなれば、リードもまんざらの山師とは思えません。一つ、われわれが直接交渉にあたってはどうでしょう。個人相手に100ドルの取引をしようというほどの男なら、我々が政府代表として交渉すれば100万ドル以上、いや、300万ドルでも借りられるかもしれません」
「うむ。それでは高島さんを出し抜くことになってしまうが、国家の大事だ、やむを得まい」
こうして腹を決めた大隈、伊藤両氏は、その日のうちに横浜に赴き、高島屋には寄らず、県令官舎の客となり、翌日早朝にリードを訪ね、その日のうちに仮契約はまとまった。

嘉右衛門も一歩遅れてリードの居るホテルを訪れたが、リードは急病とのことで会見を断った。
一方、東京へ引き返した伊藤は、一緒にイギリスに留学していた井上勝に、鉄道敷設の事業を任せる算段をする。井上勝は萩藩出身で、脱藩してイギリスに密航し、足掛け6年もロンドン大学で土木や鉱山学を学んだ逸材である。まさに伊藤博文とは気の置けない朋友でもあり、専門から言ってもこれ以上ないうってつけの人物だった。


鉄道開通の裏に

その夜、嘉右衛門はなんだか寝付けなかった。床に入っても妙な胸騒ぎがし、神経が高ぶって仕方がない。
彼は思い切って床を離れると、水垢離を取って身を清め、自分の運命を占ってみた。

山地剥−上九−
碩果食らわれず。君子は輿を得、小人は櫓(ろ)を剥(おと)す。


「山を崩すとは読めないかな」
この鉄道を敷く為には、各所の山を切り崩し、横浜付近では海を埋めなければならなくなる。
俺は、いったい、君子なのかな?
嘉右衛門は自分を反省した。この卦には命を落とすという意味もある。こういう一大事にあたってこういう卦が出るのは、自分自身に原因があるに違いない。何といっても、出獄以来、自分のしてきたことは金儲けだけだ。公益の為に鉄道を敷くと言っても、世間では新式の金儲けとしか見ないだろう。

このごろ、嘉右衛門は妙に命が惜しくなり始めた。金ができたからというような単純な理由ではない、自分はまだこの世になすべきことがある、という、漠然とした予感があるのだ。それを成し遂げるまでは、命を粗末にしてはならない、という気持ちがどこかに芽生え始めたのだ。
その夜、嘉右衛門は眼がさえて、朝まで一睡もできなかった。
大隈と伊藤は、鉄道建設に向けて精力的に動き出した。嘉右衛門を訪ね、事情を述べて謝り、願書を返還した。もとより、二人は嘉右衛門とは認め合った同士でもあり、気持ちよく了解を得た後に、嘉右衛門は改めて工事の申請をした。
鉄道を通す為には、各地で山の切り崩しが必要だが、その中でも神奈川青木町から横浜石崎までは、入り江が深く入り込んで、このままでは汽車は大きく迂回しなければならない。
この場所を直線でつなげるように、埋め立て工事を嘉右衛門が引き受けることになった。

一方、資金調達を引き受けたリードのほうでは…
当然、何百万ドルというような金がリードの元にあるわけがない。彼はロンドンに帰り、日本鉄道開設の為の公債を募集し、自分はその手数料で稼ごうとしたのだった。
この手数料が日本政府側で問題になった。大隈、伊藤は公債という言葉を知らなかった為、リードに万事まかせる気になったのだが、結局、政府はリードに違約金を打って契約解除した。そして、イギリスのオリエンタル銀行と新たに契約を結び、100万ポンドの公債を募集して資金とした。

嘉右衛門のほうには、願書どおりに埋め立て工事の許可が出た。しかし、その工期は晴天140日、もし工期が遅れた際には非常に厳しい罰則が科せられた。
嘉右衛門は何事もなかったように、数千人の人夫を集め、自分は後に高島台と言われる大綱山の山頂に立ち、望遠鏡で工事を監督しては現場に伝令を飛ばして指揮を取ったのだった。

こうして、明治5年5月、品川、横浜間に蒸汽車は仮営業を開始した。この開通の様子に関しては多くの資料があるので特に取り上げないが、「鉄道が開通する」という嘉右衛門の易は、彼が手がけたのではないにしろ、とりあえず的中した。
そして、彼は、「山地剥」の厳しい卦をどう受け止めてゆくのか。まだまだ、嘉右衛門の歩く道は、急上昇と急降下の波乱万丈を繰り返してゆくのである。

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