巷談:目次

<実録・高島嘉右衛門伝・7>

第七幕・丁々発止のその後に


仕事に貴賎なし

人生の前半生を、事業家として、政府首脳から外国高官まで含めた生臭い世界で、生き馬の目を抜くような、危うい駆け引きに明け暮れてきた嘉右衛門だった。
しかし、その生き様を長い目で見てみると、商売人として利益を上げることに血眼になるというのとは、違うものを感じる。といっても、単に自分の信念を貫くというだけでもないのだ。

最初から確固たる出来上がった信念を貫くというよりも、事業商売の荒波の中で、その場その場で事業を完遂する過程の中に信念を見出し、そこから力を得てきた、という方が近いような気がするのは、筆者だけだろうか。
ある意味で、これは求道者の姿勢である。高島嘉右衛門だけでなく、大事業家にしばしば感じられる姿のように感ずる。

人間、目の前の大きな仕事を成し遂げたとしても、これが真に自分が一生をかけて打ち込むべきことだったのだろうか?という思いに駆られることは少なくないと思う。それは事業の規模が大きくても小さくても、あまり変わりないのではないだろうか。
嘉右衛門の場合、そのスケールがあまりに大きく激的なので、目の前のことに気を取られがちだが、実際は、単に事業に打ち込むというよりは、打ち込む対象として目の前に事業という素材があっただけではないか、という感想を覚える。

嘉右衛門の行動には、浮世に生きるどのような人々と比べても、どこか違う行動基準とか価値観のようなものが見られる。運命の変遷が大きく劇的なせいかどうかは知らないが、若い頃から易を立てて行動の参考にしていた、というところにも、その一端が垣間見られると思う。
またここで、一つの横浜時代のエピソードを紹介しよう。


明治5年の夏…
嘉右衛門は横浜県庁に、県令の陸奥宗光の元を訪れた。差し出したのは、一通の願書である。その表紙を見て、陸奥県令は一瞬、眉を顰めた。
「こ、これは…いったいどういうことです?」
「おかしいですか?いったい、このお願いのどこが悪いのでしょうか?」

嘉右衛門はビクともせずに、陸奥に対峙した。
「高島学校の創立者ともあろうお方が……幾らなんでもこれは…『高島町遊郭開設許可願』とは…言語道断ですな」
陸奥は咳き込みながら言った。剃刀宰相として後世に語られる陸奥宗光の肺には、この時、既に死病となる肺病が、その兆しを現していたのである。

「ほう。陸奥さんは、いつカトリックの洗礼をお受けになったのですか?」
「私は和歌山生まれで、キリシタン−−いや、クリスチャンではありません」
攻撃の矛先が、カトリックのほうに向かうのは、いかにも陰陽五行の和をもって行動の規範とする、嘉右衛門らしいところではある。

「それなら話は簡単です。この願書を、隅々まで読んではいただけますまいか」
「こんなものを読んでどうなるのですか。あなたは教育にも功労のある篤志家として世の尊敬も篤い方なのに、これはあなたの名誉を穢すものではありませんか」
「陸奥さん、それは閣下にも似合わぬ、道理の合わないお言葉です」
「何とおっしゃる!あなたの信奉なさる易学では、売女の存在を認めているのですか!」

これを説得というか、いつの間にか自分のペースに巻き込むのが、嘉右衛門の手腕である。易は陰陽の原理、男女の和合あってこそ世の中は成り立つものであり、一見、不条理に思われる遊郭の存在も、いわば必要悪であり、そこには一定の統制が必要なのはどこの国も同じであることを、嘉右衛門は説いた。
実際、この時期でも多くの諸外国では、売春制度というのは陽禁陰許…つまり表向きは禁止だが裏では黙認、という状態だった。

「閣下、私は異人のカトリックの神父さんのところへ、この願書を持って来たのではありません。政治家として庶民の幸福を考える役割の、陸奥県令の元に持って参上したのです。どんなに禁止しても圧迫しても、人間の性への欲望というものは、人間の根本ですから、法律で制圧することはできない。いや、それを除き去るというのでは、国が滅びます。また、実際問題として…」

実際問題として、遊郭を全面的に廃止してしまったら、どういうことになるか?
性的な捌け口がなくなれば、犯罪が増加する。アンダーグラウンド化した遊女の定期的な検診もできなくなり、性病が蔓延しはじめる。

これらの道理…(というか、あくまでも嘉右衛門の自説)を熱弁を振るって説いた後、嘉右衛門は願書を取り上げてこう言った。

「私も神ではなし、自分の行動の全てが正しいという確信はございません。易経にも、『君子豹変、大人虎変』と申します。この願書は潔く持って帰りましょう。ただし…明治新政府も、天が下にある一切の遊郭を、一つ残らず廃止なさるのが道理ではございますまいか。この儀、必ずお願い申し上げます」


陸奥県令の思惑は

サッサと願書を取り上げ、丁重に一例して部屋を出てゆく嘉右衛門を見ながら、陸奥は腰が抜けたように、椅子に深く身を沈めた。
(やられたか……)

同室していた秋川秘書が、陸奥に声をかけた。
「閣下、高島さんは焦っておられるのではないでしょうか。東横線開通工事の時に埋め立てた高島町と嘉右衛門町、あの一角は、海と線路に挟まれて、人家は立っていません。高島さんとしても投下資本を回収したい一心で、遊郭設置の案を出してこられたのではないかと、私はお話を伺いながら考えましたが」
「そうかな…彼は六年もの間、獄中で人の想像できない辛酸をなめてこられた御仁だ。私も同じだけの苦労をあえて求めようとは思わないが…もし私も味わっていれば、それなりに悟るところがあるかもしれないのだが…」

この後の展開は、まさに嘉右衛門が計算したのか、運を天にまかせた結果か…こういう具合にあいなる。
陸奥はしばらくの間、沈思黙考、腰に手を当てて部屋の中を歩き回った後、壁にかかっている横浜大地図を、鋭い視線でしばしみつめた。
そして、遊郭のある港崎の高田区長を呼び寄せるという行動に出たのである。
やってきた区長に下した命令はというと、港崎にある遊郭をすべて太田久保山地区に移転するようにというものである。区長は寝耳に水の移転命令を聞いて、真っ青になった。太田久保山地区といえば、崖が多く、墓地と火葬場以外には何もない土地である。移転には最低でも二〜三年はかかる。当然、県令に意義を唱えたが、嫌なら区長を辞任しろ、の一言で、あっさり押し切られてしまった。


それから、県令は車を飛ばして嘉右衛門宅へ駆けつけた。名目は碁を打ちにである。嘉右衛門も県令の急の訪問に驚いたが、何も言わずに一局打ち始めた。
「まあ高島さん、そんなびっくりした顔をせずに、一手お相手願います。県庁では私が上手として白を持って上座にも座りましょうが、実際はあなたのほうがはるかに上手。一手ご指南下さい」
碁は手談とも言われ、無言でも相手の意思が通じる高度な遊びといわれているが、この日の対局に限っては、えらく雑言が多かった。

「黒と白の碁石は、色そのままに、陰陽を表すものでしたね」
「それはそうですが…陸奥さん、今更、何を言ってるのですか」
「碁盤は四角、碁石は丸い、なかなか相容れない形ではありましょうが、高島さんがこの黒白の碁石のように、丸く丸くものごとを考えるられるのは、それも生き方だと思います。しかし、我々のように官職にある者は、この碁盤のように角張り、縦横の筋目を通さねばなりません」
「はあ…まあ、それは確かにそうですな。しかし、碁の腕を上げられましたなあ。どなたか、先生におつきですか?」
「高島さんに褒められるとは、先生について学んだ甲斐があります。村山秀甫先生についておりますが、碁打ちの中にも、碁の世界で終わらせるのは惜しい人材がいるものです。ところで、この石はどうなさいます?」
「気がついておられましたか。さっきからどうしようかと首をひねっていたところですが」
「私ならば、こういう難石は捨てて、ふりかわりを考えますね。例えば今日、港崎の遊郭が太田久保山へ移転を命ぜられたように」

嘉右衛門は手にした石を、ポロリと落としてしまった。
「まあ、久保山では商売しながら生きて行く為の苦労は並大抵のことではないでしょうな。あそこ以上の適地がまだまだある筈ですが」
「……」
「高島さんは、この出願の前に、どういう易をお出しになりましたか?」
「すべて陰、『坤為地』の二爻を得ました」
「なるほど、直方にして大。習わずして利しかるざるなしーと爻辞にありましたな。男女の道は長ずれば習わずして自然に悟るものです。碁や易とはおのずと違いますからな」
嘉右衛門はことのなりゆきに内心ニヤリとしながら次の手を打ち下ろしたが、陸奥県令は肝心要の言葉を口にした後は、多忙ということでサッサと帰って行った。



嘉右衛門はこの後、間髪入れずに行動に移る。何通かの手紙を書き上げ、手代に持たせて東京へ使いに出す。次に、港崎の女郎屋「神風楼」と「岩亀楼」の主人を呼び寄せた。
港崎女郎屋の二人は、当然、店の移転命令は即座に伝わっているので、困り果てているところだった。
折りよく土地の有力者である嘉右衛門から使いが来たので、それこそ藁にもすがる思いで、移転命令の取り消しを嘉右衛門に依頼してきた。
そこにすかさず、嘉右衛門側では代案を出す。高島町に東京の遊郭の出店を出す計画があるので、港崎の女郎屋も、その新店出店に便乗して、一緒に高島町に移転しないか、という誘いをかける。
つまり、お上の決めた最悪の場所に移転するよりも、自分の決定で、もう少し条件の良い別の場所に移転しては如何ですか?ということだ。その布石として、東京の遊郭の出店を先に誘致しておく、というわけだ。呼び水があったほうが、他の店も移転しやすいだろうという読みである。

「しかし高島さん、それは大変有難いお話ではあるのですが、その許可は降りるのでしょうか?」
「私は政府との契約書を持っております。鉄道敷設の為に海面を埋め立てた時、鉄道用地と国道の部分は政府に献上し、残りは私の私有地として、どのような目的に使用しても良い、という一札を持っております。県令閣下もこの書類には物言いをおつけになることはできません」
「それを聞いて安心しました。それでは帰って町中の者の意見をまとめて、改めて参上いたします」
「いや、それはいけません。大勢の方が集まってがいがいわやわやと小田原評定をしていては、まとまるものもまとまりません。いつなんどき、どのような邪魔が入るかわかりません。いっそ、あなたがた二人が率先して高島町に移転なさる計画を実行に移されては如何でしょうか」
「実行とは具体的にはどうするのでしょうか」
「失礼ですが移転新築となれば、先立つものはお金です」

というわけで、嘉右衛門は二人にサッサと一万両の金を無利子で貸し付けてしまった。普請の手配のしかたも教え、まさに神速とも言うべき手際で、高島町遊郭の設置に着手した。
即座に蒸気列車で東京に向かい、商談をまとめて帰った二人は、すぐに町中の者を集めて相談に移った。この降ってわいたような突然の移転命令に、町中がひっくり返ったような騒ぎになっていたところである。町の筆頭である大店二軒が進退を決定したので、われもわれもと、結局、町全体が高島町に移転と決まってしまった。

こうして、明治の初め、不夜城と言われた高島町遊郭は生まれてゆく。
嘉右衛門はただ届書を提出しただけで、県令陸奥宗光は、一言も発せずにこれを受理した。

筆者には、嘉右衛門のこの行動は、理解できるようなできないような、どうも半端な感じだ。遊郭誘致の手筈とか手段は、いかにも嘉右衛門のやりかたらしくて疑問はないが、なぜ何事もなく安穏に港町で営業を続けている遊郭を、これほどまで強引に高島町に誘致してしまったのか?
当時の横浜の状況、嘉右衛門が読んだ未来の横浜の形、陸奥県令が嘉右衛門に黙って手を差し伸べたわけ…どうもそこには、我々凡人の察することのできない理由があるのだろうか。

当時の嘉右衛門はあくまでも一介の商人ではあるし、遊郭を必要悪と言ってしまえば何のことはない。
しかし筆者のない頭脳を絞って考えれば、ひょっとしてそこには、嘉右衛門が行動の規範にしている、「易」というものがあったのではないだろうか、と推測してみる次第。

易=陰陽五行の思想というものは、人間を頭や肩書きや外に見せるに都合の良いものだけでなく、高邁な理念からシモの部分まで含めて一個の人間と見るものだ。
嘉右衛門の言葉に「遊郭がいけないというのは、あなたはカトリックですか?」という発言があるが、やはり、根本は易の思想に根ざした行動ではなかったか、と思う。

このまま嘉右衛門が横浜の公共事業、教育事業を手がけ、実に立派な横浜の功労者として、銅像でも建立することになれば、ある意味でそれは名誉と肩書きを尊ぶ凡人である。
また、遊郭を自分の名を冠した町にわざわざ誘致するというのは、易の思想も根底にはあるが、一風変わった、一種の「粋」だったのかもしれない、という気もするのだ。あくまでも想像ではあるが。


横浜の女傑と弁天お雪

嘉右衛門は、これだけ変化に富んだ人生を送りながら、比較的、女性には淡白だったようだ。いちおう、妻の他に妾を持ち、高島台の屋敷の別棟に住まわせ、渡り廊下で往来していたとのことだ。男二人、女二人の子供ももうけているが、どちらかというと、その遊びは江戸の粋人というような感じで、あまりややこしい関係になった女性はいなかったようだ。
彼の立場からすると、この女性関係は非常に少ない感じがするが、事業に精力を費やしていたことでもあり、きちんとけじめをつける生き方が身についているので、女性関係のほうも揉め事なく、しっかりと収まっていたのだろうと推測がつく。

そんな中で、妻や妾とは少しばかり毛色の違う、恋人的な女性が存在した。
富貴楼という料亭の女将で、おくらという名の、女傑とでもいうようなタイプの女性である。元は内藤新宿の安女郎だったが、年季が明けて横浜に来ると小料理屋をはじめ、生糸で財をなした甲州屋伝兵衛という商人から資本を出してもらって、富貴楼を開いた。

他にないような高級料亭だったことと、おくらの伝法肌で機転のきく客あしらいが新政府の要人達に気に入られて、店は大変な繁盛ぶりだった。嘉右衛門の後妻も、神奈川の請負師下田屋文吉の娘で名をお庫(おくら)と言い、この縁談の橋渡しをしたのも、この富貴楼のおくらなのだ。
このおくらは、実は日本の待合政治の原形を作った陰の立役者として、嘉右衛門との関係を抜きで語っても、とても面白い女性である。

ある日、この富貴楼に遊びにやってきた嘉右衛門は、おくらをつかまえて言った。
「おい、お前、刺青をする気はないか?」
「急に、何を言い出すんです、旦那」
「お前の腕の勘さま命の起誓彫り(きしょうぼり)は俺だって知っている。いつだったか、今となってはこの起誓彫りが格好が悪いから、この上に何かきれいな絵を彫って、名前をかくしてしまいたいと言ってただろう」
「そういえば、旦那にお話したことがありましたね。でもこちらから刺青師の家に通うのも何ですし、かといってここへ来てもらうのも世間体があると思いましてね」
「しかし、相手が女なら世間体を気にすることもないだろう」
「女の刺青師がいるんですか?」

ここで読者諸兄は思い出されることだろう。そういえば、嘉右衛門伝には珍しい、絶世の美女の女刺青師が、前に登場したことがあった。弁天お雪である。
このお雪が旅に出て、世話になっていた親分に死に別れ、この横浜へと戻って来たところだったのだ。嘉右衛門の恩を忘れることができよう筈がない。挨拶に出向いてきたので、その仕事初めにと、嘉右衛門がおくらの腕の起誓彫りを消す仕事を思いついたのだった。

「それなら気を使うこともありますまいね。ひとつ、仕事初めのご祝儀がわりに、一肌脱いで片腕まかしてあげましょうか」
翌日さっそく、お雪はおくらのところに尋ねてきたが、もともと弁天娘と異名を取るほどの美貌である。そこに、重ねた苦労の味と刺青が重なって、さすがのおくらも惚れ惚れと見とれるほどの、磨きぬかれた凄艶な美しさが備わっていた。

おくらの腕から肩にかけて牡丹を幾つか彫り、男の名前は雲のぼかしの中に沈めてしまう。仕事は5回と、すぐにまとまった。肌をまかすうちに、すぐに二人は気心の知れた仲となり、自然と、お雪の身の上話も、問わず語りに語られることになる。

その身の上話の中で、おくらがぎくりとしたのは、お雪のかつての恋人が、花和尚魯智深大蛇退治の刺青を彫っている、というくだりである。
店の客で、明治政府の高官の一人に、立派な刺青を彫っている者がある。その絵柄は、まさにそのまま……
どう考えてもその政府高官が、お雪の元恋人、花和尚吉三の後身だとしか思えない。

すぐにそのことを伝えようとしたおくらは、一瞬、思い直した。昔は昔、今は今。討幕の為に市井に身を潜めて渡世人を装っていた頃ならいざ知らず、立派に政府の役人となった現在では、お雪にそのことを伝えるのが、果たして良いことなのかどうか。
男は公的な身分である。スキャンダルは最も気にするものである。昔の古傷に触られることを嫌がるかもしれない。そんな女にかかわりたくないと言われたらどうしよう…

いちおう、男のほうの気持ちを聞いてみたうえで、場合によっては自分一人の胸におさめておけばいいのだと、おくらは思い直した。それでも、ことがことなので、いちおう嘉右衛門に相談することにしてみた。嘉右衛門も、さすがにこれには驚いたようだった。
「そうだったのか…やはり、あの時の俺の卦は当たっていたようだな。あの女には命がけで惚れ込んだ男がいたのだ。背中の弁天様の刺青も、その男に対する気持ちの証だと、おやじさんが死んだ時に身の上話を聞いたのだが、どれ、一占立ててみるとするか」


男女の仲は卦もあつく…

嘉右衛門が気合をこめて割った筮竹は、見事に二人の真実を暗示していた。
「早く東京に行って、お雪の話をしてやるのだな。むこうは喜んでとんでくるだろう。二人がうまくいくことは間違いない」

風沢中浮のニ爻変・・・

=鳴鶴陰に在り。其の子、これに和す。我れに好爵有り。我れなんじと共にこれをつなぐ=

「男女の仲を占うにあたって、これ以上の卦はめったにない。鳴鶴というのは美女を現している。男は立派に世に出て、これからもどんどん出世の道を歩く。これが、この卦の暗示である。二人の間には子供も出来るだろう。女が表に出られない立場になるのは仕方がないが、この先二人は、死ぬまで離れないだろうな」

二人は相談して、お雪に何も伝えないままで男を呼び寄せ、おくらの店でいきなり二人を引き合わせる算段をした。良い話を小出しにせず、確実な現実にしてやろう、という段取りである。

その花和尚の刺青をしている男というのは、西郷隆盛の実の弟、西郷従道だった。
西郷は、お雪のことを聞くや、子供のように喜色を浮かべておくらに言った。
「俺も、別れの時には、自分の本当の素性を打ち明けられなかった。それでめでたく東京へ帰ってから、人を横浜へやっていろいろとお雪のことを調べていたのだ。しかし、おやじに死なれて旅に出た、という以外のことは分からない。なんといってもこのご時世、どこで流行り病いにでもかかって死んだとしても、女一人のこと、消息が知れよう筈もない。そう思って辛い気持ちで諦めていたのだが…
会いたい!必ずあわせてくれ!横浜へ飛んで行くから、お雪を呼んでくれ!」

こうして、弁天お雪と明治維新の雄・西郷従道の長い旅は結末へと向かうのだが、この時、西郷は、お雪に最後の仕事を依頼した。
お雪の父・彫徳が西郷に施していた刺青が、あと僅かのところで仕上がらないままになっていたのだ。2回か3回程度のものだったが、お雪はこれを彫り上げるのを最後に、刺青の針を捨てることになった。
これは今後、花和尚吉三改め、新生・西郷従道としての公的な身分でスタートを切っている男に寄り添っていく為の、お雪側のケジメだった。
彫りの銘は、父とお雪の名前を連ねた、「彫徳彫雪」である。

その後まもなく、お雪は横浜を後にし、東京で従道の傍に使える身となる。事情が事情なので日陰の身ではあるが、激動の時代を経て二人が得た、貴重な幸福だったであろうことは想像に難くない。
何故か、西郷の刺青のことは、正式な記録には残っていないそうだ。西郷は大酒家で、酔余裸踊りに興ずることも多かったそうだが、この話は刺青師達の間に風説として残っているだけだそうである。

しかし、このことが縁で、西郷従道と嘉右衛門が親交を結んだというのは、確かな事実である。これはあくまでも話だけだが、従道の兄西郷隆盛が、征韓論をめぐる政争に破れて野に下った時にも、従道は兄と行動を共にするかどうかを嘉右衛門に相談し、その易によって思いとどまったという話がある。
その卦にどういう暗示が現れていたのかは分からない。このお雪と西郷従道の話は、二代目彫宇之を中心とする刺青師たちの間に伝わる逸話である。明治維新の、陰の歴史のようなものかもしれない。

この後、嘉右衛門はますます政治の中枢への係わりを深めながら、老境を高島台で易の実占に捧げ、「高島易断」をまとめ上げ、ついには伊藤博文の最後の旅に、辛い占断を下すことになってゆく。


追記:高島町への遊郭誘致の件だが、嘉右衛門の真意をはかるという意味で少し気になったので、その後、周辺の歴史を少し調べてみた。
筆者は付近の土地鑑はあるのだが、維新前後と現在では様子が異なるので、古地図と横浜の歴史を頼りに、嘉右衛門の遊郭誘致の理由を考えてみた。たぶん、計画書の中に書かれていたに違いないが、なにしろ嘉右衛門のなした事業は、いわば横浜の表歴史裏歴史をひっくるめたもので、易者としての嘉右衛門の行動の真意を量るには、いろんなことを総合して考えねばならない。

調べてみると、横浜港崎(みよざき)遊郭は、最初は現在の横浜公園の付近にあったが、慶応2年の大火災(豚屋火事)で消失している。再建しようとしたが、こんなに仕事場のまん前に遊郭があっては具合が悪いという外国側の反対で、慶応3年に吉田新田内に新しく吉原遊郭が再建された。
このあたり、横浜公園付近というと、まあ、横浜官公庁街のど真ん中、現在は横浜スタジアムとか裁判所のある場所である。豚屋火事の出火原因となった豚肉料理店があったのが、現在の横浜中央市役所のある場所だ。
しかし、吉田新田というと、前の遊郭のほんのすぐ傍である。馬車道をはさんで歩いて10分前後であり、移転というには少し近すぎるようである。この吉原遊郭も、明治4年11月に火事になり、これまた目と鼻の先の長者町で、仮営業が行われている。

嘉右衛門の遊郭誘致は、明治5年7月であるから、二度目の火事で焼けた遊郭群が、まだ中途半端な状態の時である。横浜の、諸外国に向けた日本の顔としての発展を見据えつつ、庶民に必要な歓楽街機能をしっかりと安定供給するには、タイミング的にも位置的にも、嘉右衛門の計画は、一番現実的かつ必要なことであり、為すべくして為された行動のように思われる。

歓楽街なんて不良の行くところさ、なければないでそれで済むのに…とおっしゃる御仁は、あまり現実というものをご存知ないような気がする。横浜ほどの大きな港町が、船を降りて息抜きする為の歓楽街なしで、機能を果たせるとは思えない。いや、現在でも、もう少し港近くの歓楽街が活発であったならば、横浜ももう少し財政が潤っているのではないか、と筆者は内心密かに思っているぐらいだ。

当時、中途半端な状態だった歓楽街を、中心地から遠すぎず近すぎない一箇所にまとめあげることができたのは、嘉右衛門以外にいなかっただろうし、この業績がなかったならば、現在の伊勢佐木町付近に、風俗店が広く分散して営業することになり、何かと不都合が出たのではないかという気がする。
横浜の歴史でも、この嘉右衛門の遊郭移転事業を、横浜への功績として記述しているところもある。しかし、この高島町遊郭も、あまりに繁栄して名物になってしまったためか、客車内から見えて目立ち過ぎるので具合が悪いという理由で、明治15年に真金町に移転を命じられている。

現在でも、長者町と伊勢佐木町一帯に挟まれた路地は、旧親不孝通りとしてファッションヘルス街の様相を呈している。真金町は、高度成長期にはトルコ街として有名だった場所である。

横浜とは面白いところで、通称黄金町ガード下(初音町)の細い路地裏には、現在でも立派な青線地帯が存在する。通りを歩いてみると、日本人外国人、男娼織り交ぜたさまざまなタイプの娼婦が、赤や紫のネオンに照らされながら、店の前で客引きをしている。三畳間ぐらいか?と思われる店の二階で、座布団の上で客を取るか、近くの旅館へしけこみという形態である。

その青線の情景たるや、ごく普通の住宅街の一画に、突如として治外法権的な空間が出現するので、突然、時間と場所の感覚が吹っ飛んでしまう。
一度、桜木町の飲み屋でその場所のことを話題にしたら、店の主人が「え?あそこ歩いてきたんですか?!ツバひっ掛けられなかったですか?」とびっくりしていた。その主人も、地方から友人が来ると、話の種にそこを案内すると、みんなかなりびっくりするそうである。
中華街の中にもちょっと怪しげな店が存在するらしいが、やはり横浜はまだ、小奇麗なチェーン店や高級店の並ぶ場所ばかりではなく、こういうアングラ的なエネルギーに満ちた場所があって、大好きである。

港の見える丘公園や外人墓地、霧笛橋、山下公園に大桟橋、記念館群…こういう、堂々と表に出している場所だけが横浜ではなく、赤いネオンの下半身や胃袋も同等に横浜だと思うのは、たぶん嘉右衛門も同じだったのではないか、という感慨を、筆者は覚える。

現在、高島町から桜木町まで続く東横線線路のガード下には、延々と続く落書きが並んでおり、落書きなんかしてはダメだ、と言う以前に、よくここまでのエネルギーがあるものだと、感心というか、あっけにとられてしまう。いったい、何百メートル続いているのだろうか。やはり、遊郭跡地の因縁なのだろうか…。ここまで来ると、無理に整備するよりも、「らしい」場所のひとつとして、このままにしておいて欲しいと言う気もするのだが…

更に追記:初音町の歓楽街は2005年末に一斉撤去され、このガード下の迫力のある一郭はこの世から完全に消え去ってしまった。うーん、残念と言うべきか、仕方がないと言うべきか…役所側がダークサイドを嫌うのは仕方のないことだろうし、横浜はダークな臭いのする場所がかなり多いので、時代の成り行きだろう。
跡地をマンションにするとか学生の芸術振興街にするとか、いろんなことを言われているが、今の状況では、何となくそのまま寂れていくだけのような雰囲気。

伊勢佐木町裏側の親不孝通り近辺のファッションヘルス街は相変わらず健在だが、この付近もけっこう歩いていると面白い。昔から住んでいる地元住民の営む店と、にわか拵えのピンク産業がごちゃ混ぜに軒を並べている。昔からある手芸品店、熱帯魚店に加えて、剣道場まであるので、ほんとに色とりどりの風景だ。剣道着を着て竹刀袋を持った小学生が道場から出てきて、ファッションヘルスの前を通り過ぎて帰って行った。環境が悪いということなかれ。この子も大人になってゆくのです。

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