風水学講座:目次

子供と太極を考える

★家族旅行の問題

これもまた、非常に申し上げにくい問題の一つなのですが、最近は家族で海外旅行を計画する方が多くなりました。日本も国際社会で生きてゆくためには見聞を広めることも必要でしょう。しかし、不要不急の旅行、特に家族旅行はさまざまな問題を孕んでいます。

じつはしばらく前まで、専門家の間では、風水学的には外国は気が違うので、祐気取りには使えない、吉効果はないとする立場の人もありました。しかし、衣食住その他、生活と文化にかかわるもの全て外国製品のオンパレードで、外国にかかわるものを全く入れないというのは不可能になったし、実状に合わないでしょう。

それでも、やはり直接海外に行くということは、大きなリスクを伴います。東洋圏であれば比較的安全でしょうし、比較的宗教色の薄い大洋の島々などは、風水学的な気の違いをそれほど心配する必要もないでしょう。

家族旅行の問題は二つあります。
一つは、各人本命星が違うことがほとんどなので、全員が吉方になる時期はめったにやって来ません。家族5人であれば、共通の吉方が取れるご家族はめったにないでしょう。
誰を中心にするか、誰を犠牲にするか、言ってみれば究極の選択なので、鑑定を引き受けるにも一番困る部類のことです。専門家でも困るのに、初心者が年齢を考えずに全員本命星で見てしまったりするとえらいことになってしまいます。
移転してから子供の状態が変わったというのは、隣近所でもよく経験することだと思いますが、仕方のない移転ならばともかく、物見遊山の海外旅行が原因で子供の運勢を狂わせてしまうのでは、取り返しがつかないですよね。特に海外旅行は距離も大きく、違う気をもろに受けてしまうために、抵抗力のない子供にはことのほか影響が大きいものです。

そしてもう一つは、別の章でも述べた、その人自身の太極の問題です。子供は本命ではなく月命で見ます。だいたい15歳まで月命といういちおうのセオリーはありますが、私は個人個人によって少し違うと思っています。
また、年齢についていくら細かいことを言っても、専門書は数え年で書いてあることが多いのに、それを引き写して勝手に満年齢で解釈して疑問を持たない人がほとんどなのも、不思議ではあります。これまで一度もその質問が来ないのに首を傾げているのですが・・・?
しかしこの数え年と満年齢の問題は、私はわざと勝手に誤解させたままにしています。(こんなところでバラしていてはしょうがないけど)・・・というのは、現代では基礎教育年齢が伸び、子供が自立する年齢は非常に遅くなりました。少子化の波も手伝って、子供社会で揉まれることも少なくなったために、運命学的な自立年齢は、体ばかり大きく情報過多であっても、昔よりは遥かに遅くなったと思っています。
この点では異論もあるでしょうが、「○歳」という数え方を、あえて満年齢なら満年齢に統一する気になれないでいます。

さて、年齢の話ですが、年齢がいっていない、幼いということは、その人の太極がまだ未完成なことを表しています。月命から本命に移り変わるということじたいがその証拠です。この変化の時期にあちこち動き回って方位の影響を受けてしまうことは、決して好ましいことではありません。太極が定まらず、運気が不安定になってしまう怖れがあります。
小さい子供を連れて外出すれば、風邪をひいたり伝染病をもらったり、他人の良くない気を受けて様子がおかしくなったり、いろんな危険性があることは百も承知の筈ですね。そこになぜ家族で海外旅行をしようという無鉄砲な計画が出てくるのか、どうも分かりません。家族一緒だったら楽しいのに、という気持ちは理解できるのですが、実際にどの程度楽しいかはかなりの疑問が残ります。
最近は海外旅行が頻繁になったせいかあまり聞かなくなりましたが、昔は一時、成田離婚という言葉が流行りました。新婚旅行で初めて海外旅行に出かけたら、言葉は分からない、乗り物に乗るにも食事をするにも勝手が分からない。緊張とイライラでお互いの悪い部分がむき出しになり、ギクシャクして相手が嫌いになってしまい、新婚生活に入る以前に、帰国した成田空港でそのままサヨナラ、というケースです。

子供は口に出さなくとも、この成田離婚の新婚夫婦のようなストレスを、海外旅行でもろに受けているのです。飛行機に乗って外国の空港に降り立ち、香りの違う空気を吸い、違う水と土壌で育った食物を口にし、肌の色の違う人に触れるのは、テレビや本で見るのとは大違いです。
社会勉強であれば、自分自身の確固たる土壌ができあがってから勉強しても遅くはないでしょう。不要不急の海外旅行は、受け止める主体がまだしっかり出来上がっていないのに、出来上がりかけている屋台骨を揺るがすようなことをしているに等しいのではないでしょうか?
方位のことと同様、単に皆が行くから、という理由で家族での海外旅行は如何なものでしょうか?

筆者の世代は、小田実の「何でも見てやろう」に新鮮な衝撃を受けた世代でもあります。若い人にはあまり馴染みがないかもしれませんが、これは、前べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の代表・小田実(おだ・まこと)が、まだ海外旅行自由化以前にわずかな海外渡航のチャンスだったフルブライト留学生で渡米し、留学期間を終えてほとんど無賃旅行で世界一周しながら日本に帰り着くまでの顛末を書いた旅行記です。
これがベストセラーになり、代々木ゼミナールはこの小田を英語講師に迎え、その知名度と話題性で予備校のトップの座に躍り上がったというおまけつきです。海外旅行に憧れる若者は、藤原新也の作品と同じぐらいに読んで欲しい本ですが、今読んでも時代錯誤に感じるか、かえって新鮮に感じるか?・・・疑問ではありますが。

※読む前に誤解のないように言っておきますが、この時代には海外に行くことのできるのは、外交官と商社マンと、このフルブライト留学生ぐらいしかチャンスがなかったのです。だから割引運賃もないし、ツアーもなければガイドもいないし、外国に行っても日本人なんか見かける可能性は皆無でした。考えようによっては海外に行けるのはエリートだったのですが、そのぶん、危険性も大きかったのです。


★子供の留学と旅行

なぜ、ここでこういう話を持ち出したかというと、どうもこのところ、小さい子供を連れての海外留学が流行りだしたのか?と思われる節が見受けられるからです。(いつものように、同じタイプの相談が続くという、私のところだけの現象かもしれませんけど)
この問題は、私はずーっと前から口に出してよく話していたので、私と直接接触の機会のある人は聞いているかもしれません。ネットで書くには少々偏狭な意見という気もするので、あえて書かなかったのですが、どっちみち全部偏狭な意見のサイトですし、実例を沢山見て思っていることを黙っている訳にもいかなくなってきました。筆者の立場では子供の留学をあまり肯定するわけにはいかないので、イタイことを書きついでにここで書いてしまおうと思います。

実例とは、例えば国際結婚の例を考えてみます。外国人と日本人が結婚すると、当然子供はハーフになります。この場合、国籍がどちらになるか?万が一離婚したら親権はどちらになるか?というような手続き上のことはどうでもいいのですが、問題は当人の中身です。顔かたちがどうであろうと、完全にどっちかに決めてしまえば偏狭な風水師にもまったく異論はありません。(ま、体質というものがあるので、なかなかそうはいかないでしょうが)
モンゴル人の顔をしていながら完全な日本人であったり(あんまり変わんない?)アイルランド人の顔をしながらイギリス人であったり(これもあんまり変わんない?)ロシア人の顔をしながら完全にインド人であったり(離れすぎ?)という場合は、別段異論はありません。
ところが、日本人とハンガリー人のハーフで(あくまでも例)日本に半分、ハンガリーに半分、というような場合、いろんな面でどうもよろしくないようです。(ハンガリー人は『自分達はフン族の末裔=フンガリアンだから東洋人である』と主張しているけど、???)

一つは、行ったり来たりで、先ほどの、本人の太極が出来上がらないうちに両方の影響を受けてしまい、どっちつかずの不安定な運気になりやすい、ということがあります。もちろん、方位の影響も受けるでしょう。
もう一つの非常に大きな問題=言語の問題があります。

どうかすると、言葉を覚えるのは子供の時が一番有利なので、幼いうちから外国と行ったり来たりすると、外国語を覚えられて有利、と思っている方があるようです。いや〜、けっこう多いですかね?

子供時代が言葉の習得が早いのは当たり前ですが、それは母国語の話をしているのです。母国語を言語中枢にしっかり叩き込んでいる途中で外国語が入ってきたら、そのぶん母国語は未完成になります。未完成とまでいかなくとも、深さに関しては一定レベルでストップしてしまいます。

言語の習得には大原則があって、いくら外国語を熱心に学んでも、外国語は母国語以上には上手にならないのです。逆にいうと、母国語のレベルの高い人は、外国語も母国語より少し下のレベルまでは習得できる可能性があります。しかし、どれが外国語だか母国語だか分からないような行ったり来たりの学び方をすると、どっちも途中で止まってしまうのです。母国語の言語中枢は途中で成長をストップしてしまってます。

文学作品でも、最近は翻訳者という専門家が存在しますが、昔は外国の文学作品を翻訳するのは、同じ職業の文学者が多かったものです。外国語のできる人が少なかった時代、一番外国語の習得に能力を発揮したのは、一番日本語の得意な文学者だったのです。日本語の上手な人は、本来は外国語も人よりも上手なのです。後は勉強にかける時間の問題でしかありません。ですから、日本語が中途半端なレベルで外国語を学ぶのは、最終的にはプラスかマイナスか分からない側面があります。


★国際人の悲哀

それは、行ったり来たりすれば、日常会話を適度にこなす、言語のコンビニエンスストアのような人間はできるでしょう。しかしこれは、もっと重大な問題を孕んでいます。

人間はものを考える時、言語を使って考えます。
日本語は論理的な思考には向かないので論文はラテン語で書く、というような方は却下!……と言いたいところですが、じつはこういう芸当ができる方は、しっかりした日本語能力を身につけているので、ラテン語でも論理的にしっかりものが考えられるのです。

思考の緻密さ、深さ、洞察力、表現力、構成力などは言語能力と比例します。一つの言語を細かく、丹念に、分析的に、長く、深く、広く、たくさん使う練習をしていないと、思考そのものも、深く緻密には組み立てられないのです。
しかし人間の感情や本質は、言語や思考というツールが未完成であっても、容赦なく本人の中に育ちます。花を見て美しいと感じ、花の咲く意味、散る意味、人間との係わりを考え、自分の来し方行く末を考え、まとめて整理し、自分の中に芽生えはじめたモヤモヤしたものを整理し、分析し、表現し、自己撞着を見出したり、悩んだり、芸術でも哲学でも何でもいいから深入りしてみて、終にはカタルシスによって昇華しようとしても、言語と思考力という密接な関係にあるツールが未完成なので、深入りしようにも「アレ???」という状態になりがちです。

そこで、自己のよって立つ根本的な信条を探す放浪の旅が始まります。これはいつ果てるとも知れません。なにしろ、必要不可欠なツールが未完成なので、深入りしようとしてはうまくいかず、迷ってしまうことになります。いくら国際的に重宝がられる立場になっても、中身はどこかジプシーのままになってしまいます。

外国語の幼児教育の専門家が一致して言うことに、「外国で子供を育てたり、二ヶ国語を使用する場合は、絶対に、一人の人間が二ヶ国語を使ってはならない」ということがあります。つまり、アメリカで子供を育てながら、日本語も忘れてもらっては困る、という場合は、母親は子供の前で英語を喋らないのが原則です。
これもある意味、言語を通じてのもののルーツ、位置付け、価値観を迷わせない為ではないでしょうか。

しかし、なぜそうまでして小さい子供を海外留学させる必要があるのでしょうか?おおかたの人が2〜3年程度で帰国する予定のようですが、その2〜3年は無駄どころか、子供の足を引っ張ることにしかならないのですが……。
こういう計画を立てるのは、余裕のあるお宅が多いようで、そのぶん子供の教育にも熱心なのでしょうが、方位のこと以前に気の重い事例ではあります。
風水師は方位さえ見ていればいいようなものなのでしょうが、持ち前のおせっかいと老婆心からつい書いてしまう…というか、ほんとに老婆だし、と言われても困るんですがね・・・?


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