結界とは何なのか。風水の立場だけではなく、日常生活にも大いに重要な意味を持つ、結界について考える。各種の結界、結界のやり方と原理など。風水学とは結局は、自分の周りに強固な結界を作ることにほかならない。
見慣れない言葉かもしれないが、今回のテーマは結界(けっかい)。オカルトマニアやゲームマニアは知っているかもしれない。
これはもともと仏教用語だが、自分の修行や何かの目的の為に修法(しゅほう)を行う時、その妨げをする有形無形のものが入って来ないように、そのエリアをなんらかの方法で区切ってしまうことである。
区切る、囲うというといかにも即物的だが、じっさいに目で見える形で、何らかの形のあるものを媒介にして「界を結ぶ」ことが多い。人為的に区切っているように見えなくとも、よく目を凝らしてみると、なんらかの約束事や法則が見えてくるものである。
結界とは、いわばある種の力の及ぶバリアをきっちりと決め、その力の邪魔をする他の要素が入って来ないようにすることなのである。
それにはさまざまな種類やノウハウがある。
結界を摩訶不思議なもののように捉えずに、広義、狭義、いろんな角度から考えてみよう。
生物学的には、人間は必ず自分の周囲に他人との間に一定の空間を置くそうである。
これがヒヨコの場合だと(笑)、ちょっと寒いと体をくっつけあい、押し合いへし合いしてダンゴ状態になっている。人間は少し寒いぐらいではダンゴにはならない。
例えば、電車の座席を考えてみよう。それほど混んでなくて選ぶ余地がある場合は、必ず隅のほうの座席から埋まる。他人とくっつかなくても済む場所を選ぶ。
人間は群れをなす動物であると同時に、自分のエリアを守りたがる生き物である。子孫繁栄だか個の保存だか、何らかの理由で、自分の最低限のエリアは守る。人間に限らず、種の保存本能のある動物は皆そうなのだろう。魚でも犬猫でも、一定の行動半径と餌場を持っている。これを更に、意識的に工夫を凝らしたものが結界でする。
仏教に限らず、何の世界にでも、自分の力の及ぶ範囲をはっきりさせようとする意識は働くので、例えば国境なども一種の結界である。
しかし、大陸における国境などは、人為的に決めた境界線である為に、自然界の構造と国境が一致しておらず、しょっちゅう結界が乱れて曖昧になり、外敵が隙を伺っては入って来ようとする。そうなると戦争になる。
この、自然の結界がはっきりしている国の代表が、イギリスと日本である。島国で四方八方を海に囲まれている為、強力な水の結界によって守られている。
これが近代になって、陸海空さまざまの移動手段が発達して来ると、結界のほうもだんだん曖昧になってくる。密航者が裏日本に漂着したり、北朝鮮に拉致される人が出てきたり、テポドンが飛んで来たりする。
いくら四方を海に囲まれているといっても、安心できなくなってくる。
しかし、これまで安心して島国の中で暮らしてきた習慣と国民性はそう簡単には変わらないので、相変わらず警戒心がない。
海辺を一人歩いていただけで、まさか他国に拉致されてその後の人生が180度狂ってしまうなどとは、当人も周囲もまったく予想もできないだろう。自然の形状による結界も、それほどアテにはならなくなってきたらしいのだが、このままのんびりしていて良いものだろうか?
物理的な結界だけでこと足りないとなると、次に出てくるのが霊的な結界である。
自然界での物理的構造と霊的な結界が一致していれば最強であることは、言うまでもない。両者が一致している代表が、神社仏閣である。
古い神社仏閣は、その多くが山の上にある。山というのは、はっきりした形状を持っていて、周囲と区別しやすいので、格好な自然の結界である。だから、神社仏閣というのは、霊的エネルギーと自然条件の両方で、最もしっかりした結界を持った場所なのだ。
ところが、山も使えない、川や池も見当たらず、なかなかそういう理想的な条件が備わらないとなると、そこに何かしら人為的な工夫をしないと、強固な結界はできない。
霊的な結界を人為的に作り出すには、何らかの形のあるものを必要とする。それが注連縄(しめなわ)であったり、お札であったりする。
思うに、昨今の拉致事件や外国人犯罪や、国際社会での日本いじめなどは、この霊的な結界がどんどん緩くなってきているせいではないだろうか。インターネットで仕事をしているとよく分かるのだが、日本から外国にお金を持ち出すのは、いとも簡単である。しかし外国から日本に入れるのは、数倍難しい。日本の求心力がどんどん薄くなっている。外敵、内敵の両方で結界を破ろうとする流れがあるのに、お気づきだろうか。
結界を作るのは、何か特別な職業とか、特別な場合だと思いがちだが、そうではない。日常、私たちが家に帰って、夜は鍵をかけて眠りにつくというのも一つの結界に入ることであるし、みな日常、知らず知らずのうちに自分自身の結界を作っている。
そうでなくて、少し意識的に結界を張らねばならない、特別な場合を考えてみよう。それは多くの人が出入りする、それもマイナスエネルギーを持った人の出入りの多い、病院、診療所、美容院、エステサロンなどであろう。病気やマイナスエネルギーを持ち込みやすい、またそこで過ごす時間が長い場所ほど、結界とか浄化が必要になる。
宗教施設などだと、結界は物理的、霊的に絶対条件なことは言うまでもないので、その宗教なりのノウハウを持っている。いわゆる作法というものだ。
例えば一般的な例では、神社やお寺にお参りすると、たいがい手水場(ちょうずば)がある。あれは手や口を清めてから参拝する意味もあるが、神社側からすると、外から不浄なものを持ち込まれない役割もある。
料亭で盛り塩をする習慣のあるところは、玄関に盛り塩するよりも、たまには店全体にサッとあら塩を撒いて1時間ほど置き、その後に掃き清めるほうが浄化になるだろう。病院や診療所などは、毎日してもいいくらいだ。
塩(ただの塩化ナトリウムでない、あら塩)はさまざまな雑多なものを吸着する働きがあり、それ以上に目に見えない浄化の力を持っている。炭と同じくらい浄化作用があるが、繰り返し使えないのが難点である。神社仏閣でもたまに清めの塩を売っていたり、祈祷を受けたさいにくれるところがある。
人の出入りが多くて結界すべき場所があれば、まずそこを浄化することが第一である。整理整頓、掃除は当然のことだが、目に見えない邪気や澱んだ空気を清めるのは、荒塩が最も手軽な方法である。さらに、結界を作る場所が四角であれば、まず四隅に盛り塩をして、間にほそ〜く荒塩で線を引く。素人にもできる方法だ。その作業をする時に、題目や称名を唱えながらするのも有効。
ちなみに神社やお寺で人形(ひとがた)のついた注連縄を全体にめぐらしているが、あれは界縄(かいじょう)と言い、あの縄で区切った内側が、はっきりした結界になる。
宗教的な場所では結界は幾重にも張り巡らされており、まずそのお寺なり神社のある地域(山など)が第一の結界。
山門の内側が第二の結界。
本堂の中が第三の結界。
本堂の中でも祈祷修法をする場所には更に場所を仕切って注連縄や人形やお札を張り巡らしてある。
内側にいくほど、強固な結界に守られているという訳である。
一般の人の結界の必要度は、人の出入りの多少とその質によって違う。家族友人だけならばそう大袈裟にすることもないだろうが、他人の治療をしたり、欲に絡んだ丁々発止のやり取りの多い人は、それだけ邪気を外から持ち込む度合いが強いので、浄化と結界も強めにしたほうが良い。
人の相談に乗ったり祈祷をしたりすることの多い占い師、祈祷師、僧侶などは、当人はそれなりの修行をしているので無事に済んでも、家族に災難が出る場合も多いのは、考えなければならない問題だ。
一方、せっかく作った結界も、いとも簡単に破られることがある。現代生活で一番カンタンに結界を破る道具は、電話である。
例えば深夜、夕食を済ませ風呂に入り、寝室でカップル水入らずの時間を過ごしている時、いきなり侵入できるのは電話である。うれしい知らせの時は良いが、時によっては異質なキャラクターの侵入であったり、電話イコール暴力そのものの時もある。
通信手段を牛耳ることが、現代では勝者の条件である。テレビやラジオなど、自分からスイッチを入れて情報を得るものはそうでもないが、電話回線というのは大きな役割をするもので、一種の霊的な力を持っているのかもしれない。
皆さんどの程度信じられるかは分からないが、電話やインターネットのEメールなどでも、ちゃんと霊的なエネルギーは伝わる。
もちろん、直接会うほどではない(と思う)が、これは保障の限りではない。というのは、人の念とか目に見えないエネルギーというものは、直接の肉体を介さなくても、いや場合によっては介さないほうが、ピュアに伝わる場合もあるからだ。
電話で霊視をすることの出来る人も珍しくないが、ある意味で、顔や態度やその場の状況やお膳立てが邪魔をしないぶん、電話だけのほうが霊視がしやすいのではないか、と思うことがある。
その次に可能なのは、プレゼントなどの物品に託して、ある種のエネルギーを送り込むことである。これは皆、知らず知らずのうちに影響を受けていることが多い。人間、どちらかというと貰うものにあまり良いものはないので、幸福になりたい人は、貰うよりも上げることを考えたほうが早道である。
特に宗教性の違う人から貰ったものは、自宅という閉ざされた空間に違うエネルギーの元を入れているので、要注意である。
最後に物理的、霊的に一番きつい結界破りが、お札、お守り、思想書のタグイである。家の中に得体の知れないお札や思想書のタグイがある人は、いくら熱心に掃除をして荒塩を撒いても、内側に結界破りの異質の要素があるので、まずそれを取り除くことが先決である。
また、外で悪い強烈なエネルギーを持つ人に会った時も、そのまま真っ直ぐ帰宅せずに、スポーツジムで汗を流したり、少し買い物をしたり一杯飲むなど、一呼吸置いてから帰宅するのも方法である。
一つ注意を促したいのは、例えば新興宗教の勧誘などにあって嫌な気持ちになり、一つ厄落としでもするか!と、そのまま近くの神社にお参りに行ったりすることである。これは先にも書いたとおり、神社仏閣という結界の中に邪気を持ちこむことなので、その神社仏閣の祭神にとっては、ちょっと迷惑な行為ではないだろうか。
あなたがそこの祭神に普段からよほど可愛がられていれば、神様も(よし、悪いものを祓ってあげよう)という気持ちになるだろうが、自分の都合で、嫌な目にあった時だけ良くないものを払いに行こうというのは、あまり賢い行為ではないような気がする。
大きなしっかりした神社の祭神であれば、そういうことにも慣れっこなのでお怒りになることもないだろうが、神仏に可愛がられている人ほど、そういう無礼はしないものだと思う。
昨今はそういう礼儀をわきまえない人間が増えた為に、神社仏閣のほうでも「当社寺のお札以外はお焚き上げしません」と断ってある場合も多い。
筆者が見た例で一番ひどい例は、赤坂の日枝神社の納札所に、大きな仏壇を投げ入れてあった例である。あそこは受付の人がいつも居るのだが、いつの間にその目を盗んで投げ入れて行ったものか…。
決して小さな仏壇ではなく、整理ダンスぐらいの仏壇だった。捨てた人は、仏壇は霊的なものだと思い、ゴミにするのが怖くてこっそり投げ入れていったものだろうが、日枝神社の神に非礼を働いた祟りは、怖くないのだろうか?
これを見た時には、筆者もさすがに、かなり驚いた。これほど非礼な人が居ようとは…知らなかったでは済まされないことだ。
話がそれたが、ある宗教施設に別の宗教的な要素を持ち込むことは、よく注意したい。また、頼みに行く時だけ神参りというのも、感心しない。苦しい時の神頼みではなく、普段から神が価値のある人として気にかけて守って下さるような人間になりたいものだ。
※仏壇や神棚などはタダの入れ物なので、神社仏閣に持って行ったりしないで、ゴミにして下さいね。ちゃんと手数料を払えば、地方自治体で粗大ゴミとして受け付けてくれます。それが気持ちが悪いという人は、仏具店に相談して下さい。仏壇に関しては誤解が多いので、このサイト内の他の章も参考にして下さい。
さて、説教臭い話ばかりでなく、少しマニアックな方向にも話題を向けよう。
よく、平将門の話などで、誰かが一定の法則の元に神社仏閣を建立(こんりゅう)して霊的な結界を結んだ、などという説があるが、あれもなかなか面白い。しかしそっちの方面はマニアにまかせるとして、陰陽道が流行の昨今、魔除けとして有名な五芒星を見てみよう。
一見してわかるように、五芒星というのは、三角形の集合体である。
三角で思い浮かぶのは、まず「ピタゴラスの定理」である。三という数には不思議な働きがあり、三角関数は数学と物理学の元になっている。三という数の働きがなければ建築物も建たないし、宇宙船も飛ばない。
筆者がさまざまな文献、資料を元に理解した範囲では、三という数は動き、活動を司る数である。ここで深入りするのはやめておくが、易の元となっている洛書も、よく分析してみると、三という数字を元に成り立っている。二が安定、不動であるのに対し、三は活動、伸張、変化などの力を持つ。
ユダヤの象徴は五芒星ならぬ六芒星だが、五芒星は安倍晴明の専売特許ではなく、西洋魔術にもちょくちょく出てくる。これは、三角形というものが洋の東西を問わず、天地自然を動かす、ある種の力の根源となっている証拠だろう。
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右の図を見ていただきたい。四角を対角線上で分割すると、三角形ができあがる。正方形、長方形と言っても、三角形の集合体である。ここに三の秘密がありそうだ。
これが五芒星、六芒星になると、もっと多くの三角形に分割される。
五芒星が魔力を持つ護符とされている理由は、じつは陰陽五行の原点に戻れば一目瞭然だ。五行説の相克関係の図そのままである。
この図からは、常に相手を克し、勝ち続ける緊張関係が見て取れる。一方、相生関係の図は、相手を生かし自分も生かす円満具足の円で表される。
相克関係の図式が破邪除災として使われるのも、いちおう納得がいく。
相生(左) 相克(右) |
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五芒星(セーマン)が安倍晴明の専売特許ならば、ドーマンとは何だろうか?
これは芦屋道満(あしやどうまん)という実在の人物で、護符として九字(くじ)を使った。
有名な「臨兵闘者皆陣列在前」というあれだが、これは密教でも法華でも修験でも使う。この場合の密教というのは、正確には天台密教(台密)といい、法華宗(日蓮宗)も元は天台宗から出ているので、この九字は修法でよく使われる。
宗派によってか修法師によるのか、細かい違いがあり、この修法を行う日によって九字を切る順番が違うし、呪文も多少違う。用途によっては線で九字を切るのみでなく、もう少し細かい書き込みを必要とする。
さて、ドーマンとセーマンの最大の違いはなんだろう。一見して分かるのは、三角形中心の五芒星と、矩形の九字という違いである。また、安倍晴明が葛葉(くずのは)というキツネを母親に持つという伝説があり、正体がはっきりしないのに対して、葦屋道満は播磨の国の実在の人物である。道がつくからというわけではないが、筆者はセーマンは使わず、ドーマンのほうはたまに使う。
矩形vs三角形、ドーマンvsセーマンの法力比べ、陰陽道の生まれた古代よりも、さらに奇々怪々な魔物の跳梁跋扈する現代、果たしてどっちが優勢だろうか?
| ドーマン | セーマン |
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※ドーマンセーマンや式神を、勝手に書いたりして真似をしないように!
九字を切る、護符を使う、式神(しきがみ)を作るというのは、目に見えない霊鬼を動かす行為である。
しかし霊鬼を使うというのは、いわば猛獣を使役する行為にも等しいから、面白半分でも真剣でも、力のないタダの人が猛獣を放すと、使いきれずにかえって怪我をする羽目になりまする…!
※福岡県では葬儀の後に祓い塩をする習慣を、迷信として切り捨てたそうだが、これなども二つの考え方ができる。確かに人間の死というのは当たり前のことで、死や葬式を穢れと考えて祓い塩をする必要はない。
しかし、死というものをそうドライに受け取めることの出来る人はなかなか少なく、やはり懸命に生活している者にとっては、死は良くないものである。
実際の話、もし天寿を全うした大往生だったとしても、周囲の人は看病疲れが溜まっていたり、相続争いが始まっていたり、葬儀の煩雑さに気もそぞろになっていたりで、心身ともに普段とは違ったストレス下に置かれる。これも一種のマイナスエネルギーには違いないので、それを祓うという意味では、祓い塩も無意味なものではないだろう。しかし、ああいった習俗に盲目的にこだわる反動としての廃止の動きでもあるような気がする。これは別項で書いてみたい。
★日本はいちおう神道国なので、古事記のイザナギ・イザナミの歴史にのっとって、黄泉国につながる死を穢れと考え、祓い清めをする習慣になったのだろうと思う。家の中で葬式を出すと、まず真っ先に神棚は白い布でもって目隠しをされる。神仏分離令もここまで浸透しているのか、といった感じだが…
(2004年頃記述)
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