風水学講座:目次

震災と原発事故に思うこと

〜ゆるやかなアジテーション〜


終わりの始まり

この原稿は、2011年5月に書いています。
こう書くと、なぜわざわざそう断っているのか、分からない方はまずないでしょう。もちろんそれは、本年3月11日に東日本を襲った、未曾有の大災害の2ヵ月後であり、震災後初めての更新だということです。
被災された皆様には何と言ってお悔やみや慰めの言葉を申し上げてよいのかわかりませんが、そういうこととはまた少し違うベクトルで、いろいろと個人的に思うことがあります。

一つは、この災害は今までの災害とは全然、質が違うということです。今まではどんな大災害があっても、また強く逞しく立ち上がり、復興の槌音高く再建してゆくのが、日本の常でした。
しかし今回は、その規模の大きさもさることながら、現代文明の行き詰まりや、日本人の体質の中にあるおかしな部分、矛盾点に、どうしても目を向けざるを得ないところまで来ている気がするからです。
これらの事は個人個人で感じ方が違うと思いますし、かなりの部分、筆者の個人的な見解が強く入っています。あくまでも個人的な意見ですが、現在は一見して平常に戻りつつあるような雰囲気ながら、このまま平常に戻ってはならないと思います。また既にいろんな点が違っていて、戻ることは出来ない時点に来ていると思います。

こんな中で、自分のこれまでの平穏な生活が戻ってくるのを願うだけでは、今回の経験は生かされません。福島第一原子力発電所の事故は全く収束の気配もなく、静かに深く、日本の国土を侵しつつあります。水と土壌が冒された土地で、今までどおりの生活が出来よう筈はないのですが、厄介なことに原子力というのはその実感が目に見えて感じにくい為に、目をつむってしまえば、短期的には笑い飛ばすことができてしまうのが曲者です。福島と関東一円だけで済めば良いのですが、筆者はそれほど楽観的な認識を持つことが出来ずにいます。

このサイトではあまり癖のある外部サイトはリンクしないことにしているので、全ての情報源をご紹介するわけではありませんし、テレビから主に情報を得ている方は、筆者の言っていることが今ひとつピンと来ないかもしれません。しかし筆者自身、このまま黙っていることは出来ませんので、電波と付き合いたくないと思われる方以外は、我慢してお読みいただければ幸いです。

「天罰」というのは政治家が言ってはならない言葉だとは思いますが、ある意味で真理を突いていると思います。それは被災地に向けての言葉ではなく、「私」を含む日本人と日本全体が、まだ未成熟な社会であり、目の前の欲しいものを手に入れたならば後は野となれ山となれを、この狭い国土条件を考えずに、無秩序に行ってきた結果に向けての言葉ではないでしょうか。

今はあまり聞かれなくなりましたが、昔、エコノミックアニマルという言葉がありました。もともとは経済大国になった日本への賞賛の言葉だったそうですが、だんだんと蔑視の言葉になり、日本人の後先考えない利己的な行動と体質を指す言葉になっていったようです。
現在はこの言葉は国際社会では死語になっているのかもしれませんし、またそうであって欲しいと願います。しかし残念ながら、個々の人を見ていると、この言葉が死語だとは到底思えないのです。

それはなにも、経済活動のことだけではありません。子供が家族との会話の時間も持たずにゲームに引きこもってしまったり、親のほうも少しでも子供を有名校へ上げる為に、偏差値重視の価値観で動いたりしてしまうという底流から、すでにエコノミックアニマルの道が始まっています。しっかりしたビジョンを持たないままに、目先の欲望だけを追求する態度のことです。
ある意味でそれは、自由競争社会の常なのかもしれませんが、自由競争でもルールなしの自由競争はあり得ない筈です。弱者救済やある程度の利益の均等化を考えながら、露骨な弱肉強食状態は避けてはじめて、社会を活性化させ努力が報われるという自由競争である筈です。
幾ら利益追求といっても、その場で利益を食い尽くしてしまったら、後で困る事態になります。

そんなことは誰でもわかっている筈なのですが、何故か原子力発電に関しては、後先を考えない推進と利権の追求が行われてきた結果が、現在の東日本の状態です。いや、東日本などという狭い範囲ではなく、日本全体はもちろんのこと、近隣諸国にまでその影響が及ぼうとしています。

その根本原因には、首都圏への一極集中化が進み、地方経済が置き去りにされてしまっているという背景もあるのではないかと、筆者は感じています。また、電源三法というものが、地方を活性化させる努力とは反対の方向に、拍車をかけてしまったのではないか、という気がしてなりません。
そして、今回の事故に関連してさまざまな情報を収集し、原子力に関して思いがけず詳しくなってしまうと同時に、日本の現状にかなり驚いてしまった方は少ないないと思います。残念ながら筆者もその一人です。

原子力に関しては、日本は本当に馬鹿なことをしていると思います。自分で作ったものの後始末が出来ない、後処理技術も未開発のままに、刻々と巨大な産業廃棄物…それも、誰も近づけないような厄介な廃棄物を出し続けています。日本は今後も長年にわたって、巨大な負の遺産を背負っていかなければならないのです。

このあたりのことは、残念ながら、TVで伝えられることが全てだと思っている人々と、自分で積極的に情報を収集する人々との温度差が、余りに大きくなっています。
筆者が思っていることは、次の通りです。震災の前はこのように思っていました。

1、原発反対派はイデオロギーが絡んでいてうさん臭いと思ってた。
2、原発がないと電力が足りないと思っていた
3、自然エネルギーはまだまだ未知数だと思っていた
4、古いものは徐々に停止できるものだと思っていた
5、危険なものではあるが、日本はそれを制御する技術があると思っていた
6、原子力はエコでクリーンで枯渇しないと思っていた
7、原子力がCO2削減に役立つと思っていた

これらが全て間違っていたということを、今つくづくと実感しているわけです。あんな大掛かりで手に負えないものがこの狭い日本に54基もあって、更に増やそうという計画が進んでいます。
54基もあって供給電力が2〜3割ということからして、かなり意外な気がしましたが、その上、かなりあちこちで事故を起こしているのに、あまり報道されません。
更に始末に負えないのは、もんじゅ(福井県敦賀市)と常陽(茨城県大洗町)の、二箇所の高速増殖炉です。技術的に手に負えないと判断してフランスさえも手を引いたのに、日本はまだ再稼動させる予定のようです。それは、ウランが早く底をつくことが分かっているので、再処理して使おうということらしいのですが、この計画に関しての問題点は、読者諸氏にご自分で読んでいただきたいと思います。

Wikipedia:もんじゅ(高速増殖炉)


また、自然エネルギーが実用化の段に至っていないと言う点ですが、事実は実用化の努力をあまりせずに、原子力利権の方に政治と実業界の関心が向いていたからではないか、という気がして仕方がありません。
動画サイトで、原子力安全委員会の委員長が「原発は金が凄いからね。金だよ、金!」と我が意を得たりとばかりに高らかに話をされているのを見ると、これじゃあエコでクリーンな自然エネルギーなんて、原発利権の邪魔だから開発予算を回さないように継子扱いにされてきたのではないか、という気がしてきてしまいます。
まだまだ無数にあるのですが、これらを並べ上げても仕方がありません。要するに、自然災害は致し方ないとしても、それを被害甚大にしているのは人間なのではないか、ということなのです。

はっきり言って筆者は、今回の震災と津波の被害は全力を挙げて復興しなければならないけれど、原発に関してはまだまだ国民の意識が足りないと思っています。
事故の規模の割には危機感の薄い人が多く、このままでは原発の安全性や利権構造、そもそもの存在意義に関する議論も、なし崩しに埋もれてしまうのが心配です。それだと結局は、利権に絡む人々が保身に走るだけで、臭いものに蓋をされてしまって、事故以前と変わらないのではないか、という危機感があります。
また、利権に走る人々を生み出した日本の政治や産業と経済のありかたに、きちんと目を向けることも大切だと思います。

そこで、今後、個人がどのような行動を取るか、ということですが、私は各人が自分の社会的責任をしっかりと果たし、雰囲気に流されずに自分のことは自分で決める、ことが基本になると思います。しかし、真の社会的責任とは必ずしも、「これまで通り」ということとイコールではないのではないでしょうか。例えば事故を起こしているのにこれまでどおりに原発を動かしたり、危険性に目を瞑って直ちに危険はないと言い続けるのは、真の社会的責任ではないと思います。

それと同時に、個人的な思いとしては、既存の価値観や体制をはずして、皆が多くの選択肢を持って欲しいと思っています。
重要な仕事を持っているならば、当然その仕事が優先でしょう。また離れられない心配な家族を持っているならば、行動を共にしたいでしょう。しかし、縛られるもののない人まで思考停止してしまうのは勿体無いと思います。
日本全体が運命が狂ってしまっているので、若い人はどんどん外国に出て行って、今まで自分たちがどれだけ恵まれていたか、またどんなところがおかしかったのか、学んでくるのも良いと思います。そうなるともうはっきり言って、弱い者や怠け者は淘汰される結果になると思いますが、致し方ありません。淘汰されたくなかったら、強くなるしかないのです。金銭やコネのあるなしではなく、やる気の問題だと思います。
いち早く避難すべき人、自分なりにできる対応を粛々とやる人、危険を冒してもやるべき仕事のある人、それぞれの立場があると思います。しかし蛮勇を奮うのは決して偉くはありません。それぞれがちゃんと自分なりに情報を把握分析して、最善を尽くすべきです。

それに、こういう話になると「自分だけ助かろうとして」という雰囲気になってみたり、海外へ避難する話になると、まるで裏切り者を見るような冷たい態度になってしまう人がけっこう居るのも、どうかという気がします。
筆者はもともと、海外移住や留学にはほとんど反対の立場でした。それは、迂闊に海外へ行くのは大きなリスクを伴い、その人の運命を狂わせてしまうからです。多くの人が、隣の芝生は青い、とばかりに自分探しに海外に出かけるのを、(もっと先にしなければならないことがあるのに、)と苦い思いで見てきました。
しかしもう、日本は平常時ではありません。むしろ、黙って今の場所で日々の生活を送るしかない人々を見るのが辛い気さえしています。

遊びでもなく仕事が決まっているわけでもなく海外へ行くのは、誰にとっても楽ではないと思います。しかし、そこまで気持ちを狩り立てるのは、安心して暮らせない何かの要素をキャッチしているからで、更にこの事態を一丸となって収束させようという気迫が政界に見受けられないせいでもあると思います。
手放すものも束縛もない人、また束縛があってもはね返してみようという気概のある人ならば、日本に縛られている必要はないと思います。自分で縛られなくとも、束縛は幾らでもあります。

こう考えてくると、人間関係も変わってくるかもしれません。しかしこのような時にこそ、価値観を共有できる相手を発見して、それを大切に育ててゆくチャンスではないでしょうか。


茹でガエルの法則

皆さんは「茹でガエルの法則」という言葉をご存知でしょうか。
一種の寓話ですが、環境の変化に対する一種の警句です。

その要旨は次の通りです。
「2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は冷水に入れる。冷水のほうはごくごく緩やかに温度が上昇していく仕組みになっている。すると、熱湯に入れられたカエルは直ちに飛び跳ねて脱出し、結果的に生き伸びるのに対し、冷水から緩やかに温度上昇させられたカエルは、水温の上昇を知覚できずに死亡する」というものです。

これに関しては、生物学的な疑問も投げかけられてはいますし、別にカエルでなくても何でもいいのかも知れません。しかし、現在の日本人にも少し当てはまる気がして仕方がありません。そう言うとたぶん、かなりの方が嫌な気持ちになるかもしれませんが、嫌な感じがするほうが正常だと思います。
こんなことを書きたくなるぐらい、現在の日本は楽観視出来ない状態だと、筆者は思っています。それ故に、海外脱出してみようか、という気概のある人を止めたくはない気持ちになっているのです。

そういう視点から一言書かせていただければ、このサイトはインターネットの黎明期から立ち上げているので、ネットを利用するのにまだ敷居の高かった時期にはかなり、海外で起業した独特な雰囲気を持つ日本人が、多く訪れてくださっていました。
その人達が口を揃えて言われるのは、外国で仕事を探そう、という積りだったらやってゆけない、外国に、特に発展途上国に行くのだったら、自分で仕事を作る積りで行かないと、ということです。

もちろん、先進国に派遣してもらえるような立場の人に、筆者が余計な事を言う必要はないと思います。徒手空拳で、身一つで出て行ってみよう、という人の話です。筆者は自分の身辺で、さしたるお金も持たずにバックパッカーで出て行った人を沢山見ていますし、海外青年協力隊に行く人も全然珍しくない、という環境にあるからかもしれませんが、生きていけるか否かは結局は当人のバイタリティだと思います。
もちろん、何年か単なるバックパッカーをやるのと、家族で移住を考えるのでは雲泥の差がありますし、そんなに簡単ではないのは百も承知です。しかし現実に、かなり多くの人が実行しています。

そんな気がなくて、何とか今までどおりに出来るよね?と言う人は、それはそれで良いと思います。しかし、友達や知り合いが自分の予想のつかない決定をしても、それに対して冷たい目を向けないで欲しいと思います。こんな事態になってまで他人に皆と同じ行動、横並びを強要するのは、日本人の欠点でもあり、バイタリティのない人のひがみだと思われても仕方がないと思います。
そういう部分が、震災の翌日で揺れ続けていようが、停電で電車が動いてなかろうが、何が何でも出勤しないとリストラにあう、という体制にもつながっているのではないでしょうか。
以下のような言葉は、筆者は禁句にしたいと思います。

また、既に海外で生活をしておられて、親切心から家族を一時避難させても良い、と思っている方は、逆に慎重になっていただきたいと思っています。
現在の日本の危険は、短期間のことではありません。何年、何十年にわたってのことなので、とりあえず短期間避難してもらって、あまり長くなるようだったら帰ってもらいたい、というのは感心しません。帰れない人に帰る前提で避難してもらうぐらいなら、最初から手を出さないほうが良いと思います。
そういうことを承知の上で受け入れるならば、年寄りではなく若い人を、海外でも活躍できるような日本人に育ってゆくお手伝いをする積りで、受け入れてあげて欲しいものです。身内の年寄りではなく、他人の若い人を優先すべきです。妊婦や子供ももちろん優先ですが、これには当然、大きなリスクが伴いますので、十分に吟味しなければなりませんが、不可能なことではありません。ただし避難するほうも、今までと同じような贅沢を言うことは出来ません。茹でガエルとは違う意味で順応する積りでいなければなりません。

筆者が言う「海外でも活躍できるような日本人」というのは、テレビのインタビュー番組に出てくるような立志伝中の人物とか、いかにも海外生活、というようなお洒落なライフスタイルを実践している人、という意味ではありません。当たり前のことが当たり前に出来、しっかりと自分の足で立つことが出来れば、それで良いと思います。
筆者は本来、子供の海外旅行や移住には大反対で、幼児英語教育にも異を唱えてきたのですが、それは平常時の話です。今の日本は平常時ではありません。静かにだんだんと痩せ細ってゆこうとしています。それを何とかしてやり過ごそうという努力も良いと思いますが、自分の選択を他人に押し付てはならないと思います。

筆者はもともと、まともな会社勤めをした経験がなく、…というよりも、二十歳から母子家庭でやってきた社会の底辺の人間です。社会保険やボーナスなどの恩恵を一度も受けたことがありません。その為、会社とか組織というものの枠組みで物を考える習慣が全くなく、自分の手しか信用しません。そのせいでサラリーマンとは全く考え方が違うので、こういう無責任で大胆なことを書いてしまう面があるのかもしれません。
しかし、今後の日本で、ちゃんとした国の保護が受けられない、社会的権威や枠組みも当てにならない、またそういう保障が自分には縁がないから飛び出してみようか、と思われる方は、思い切って飛び出して行くのも一つの生き方だと思います。

失う物の多い人ほど動きにくいというのは一つの考え方ではありますが、実際には、動けない人はポテンシャルが足りないだけだと思います。ポテンシャルがあるのかないのか、試してみるのも一つの生き方ですし、たとえ失敗して舞い戻って来るのも、またそれも一つの生き方だと思います。筆者はどちらも応援します。
ただ、他人の見る目を気にしたり、人に頼らなければ動けない人は、やめておいたほうが良いと思います。だんだん汚染されつつある日本ですが、そこで我慢するのがつまらない生き方だという積りも、毛頭ありません。筆者も家族が心配なので関東に留まりますが、こういう環境の中でどういう風に工夫して生活するか、また家族や他人の役に立てるか、一種のゲーム気分でやってみるのも面白いと思っています。

放射能汚染が怖いからいろいろやるのではなく、どんな工夫ができるか試してゆく…それは今後のコンテンツに譲りますが、一つ、そんな生き方を楽しんでみようと思っています。
国や自治体の体制がおかしいのだ、と怒ってばかりいても、それも何にもならないことです。国も自治体も一人一人が集まって構成しているものです。一人の人間の中には小宇宙があるのですが、それに気付かずに人の目を気にしたり会社を当てにしたり、不満を漏らしたりするのもつまらないと思います。時間も空間も無常です。元には戻りません。先に進みましょう。

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「2011年5月記述」

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