風水学講座:目次

再考・陰陽の法則とは



最近、世間が騒がしいです。東日本大震災以来、政局もずっとゴタゴタしていますが、特に今年(2012年)の尖閣列島問題に係わる中国の騒動に加え、韓国との関係まで危うくなってきているようです。
お隣とか近親者との関係が難しいのは、個人に限らず、国どうしの場合にも同じなのでしょうか。 「近攻遠友」だか「隣国を援助する国は滅びる」だか、日常生活を送っていると意外に感じる言葉が兵法書にはあるそうですが、ちょっと考えると、そう意外でもないような気がします。
家族でもお隣でも、結局は別の人間です。筆者は割りと突っ放した物の見方をする傾向があるのか、はたまた人生経験を通じてそうなってしまったのか、家族愛とか友情とか恋愛とか、どこまで本物なのか、あんまり信用していません。

多くの人が家族を大切にするのは、もし何かあったら自分にも関わりが出てくるから、という側面が強いでしょうし、子供を無条件で愛すのも、自分の分身みたいな感覚が抜けないからではないかと思います。一方、男女の愛というのは、けっこうただの執着や思い込みが多いような気もします。ましてや、そこに結婚という強烈な利害関係が出てくると、重要なのは相手なのか結婚なのか、実は曖昧な人も少なくないのではないでしょうか。
本当の愛情というのは、もっと人間の根源に係わる部分を正しく見てこそ初めて抱けるもので、単なる愛着や執着とは全然違うものだと思います。

特に隣人愛なんかは全然分かりません。もっとも日本語に隣人愛なんてあったかどうか…たぶんキリスト教の教えですよね。
まあそんなシニカルことを言っていても仕方がないのですが、そんな奇麗事よりも、近隣の人と喧嘩しちゃったら不便だし気まずいから、なるべく揉めないように平和にやったほうが暮らしやすいでしょう?と言われたほうが、まだスンナリきます。

その為には、あんまり自分の地を出したり、我がままを通したりするとまずいことになりやすいので、常に一定の緊張感を持って、油断せずに距離を置き、世の中に通用しやすい態度で、なるべく事を荒立てず平和にお付き合いすることが、大切だろうと思います。
お隣だとその垣根が曖昧になりやすいので、離れている国との付き合いよりもずっと、注意というか気遣いが必要だということで、前述のような、やや極端な言い回しが出てきたのだろうと思います。
お隣はあくまでもお隣に住む他人であって、うまく付き合っていくにも助け合いをするにも、一定の線を引く必要があります。
都会は冷たい、近所づきあいもない、と考えるのはたぶん田舎の人であって、人間がひしめいているからこそ、距離を保つようにしないと、密着したら大変なことになってしまいます。
都会の人だって、隣の家まで○キロという場所に住むようになったら、お隣のことを気にかけると思います。

うーーーん、なんだかこれを、歴史や政局になぞらえて考えると、すごーくむつかしい問題になってきそうな気がしますが…
日本人は性善説の人が多いので、他の国と摩擦なく付き合ってゆくには、少し性悪説も勉強しなければならないのかもしれませんね。

と、こんな余計なことを考え始めたのは、少し気になる発見をしたからです。それは、本章のメインテーマであると同時に、当サイトの軸になっている、太極とか陰陽学に深く係わることです。
本題に入る前に、基本からおさらいをしてみましょう。


■陰陽の原理と運命学への応用

世の中の森羅万象、あらゆることには、「陰」と「陽」があります。もともとは、「陰」は山の陰、「陽」は山の頂上の陽の当たる場所です。

もう、思いっきり、常識中の常識ですが、山があるから蔭ができる、昼があるから夜があるので、何にでも陰陽はありますし、陰陽があるからこそ、この世界が形作られているのです。

ただしそこで「陽は良いもの、陰は悪いもの」という発想に偏ってしまうと、少しおかしくなってしまいます。

これは運命学の話でもあるのですが、時々、こういうご相談があります。
「最近、○○をきっかけにして、すごく運が悪くなりました。ずーっと全てが順調にいってて幸福だったのに、とても不思議です。何とか原因を取り除いて、以前のように、良い運勢を取り戻したいです」

お気持ちは分かりますが、ある意味でこれは当たり前のことではないでしょうか。こういうことを仰るのは、年齢に係わらず、まだ人生経験の少ない方だと思いますが、どんな人にでもその人なりの山や谷はあります。
その山と谷の落差が余りに大きいので、急に不運が訪れたように感じる場合と、或いは何らかの原因で本当に思いがけない不運が訪れた場合の両方のケースがあると思います。
しかし現実に運勢的な山と谷が出来たという点では、たとえ思いがけない外部要因であっても、やはりそれは、運勢という意味では織り込み済のことだという解釈が出来ます。

また、その方の人生設計のサイクルと、運気的なサイクルが食い違っていた場合にも、体感的にこういう不運な感じは出てくるでしょう。
例えば、運気を見ると幼少期から30台までは元気一杯で苦労知らずで全て順風満帆、その後はカックンと落ち込んでそのまま晩年まで終了、というパターン。これが結構あります。
こういう場合は人生の前半でだいたいその人の主たる活動期が終わってしまっているので、当人が人生前半の勢いのままに一生まっしぐらに走ろう、と予定を建てていても無理です。

反対に、人生前半はどうも恵まれず、心身ともに不調だったり、或いは育った環境が良くなかったりしてどうもパッとしなかったが、中年期以降にやっと自分らしい活動力や才能を生かせるようになった、という場合があります。

どちらも一長一短あるのですが、前者の場合には、単に甘やかされているだけでは恵まれて育ったことにはなりませんし、後者の場合も、人生後半で力を発揮する為には、物質的には恵まれなくても、しっかりと基礎力はつけておく必要があります。
基礎力というのは、自分はやれば出来る、という自信を持たせることだと思います。それこそが本当の愛情なのでしょうが、意外と一見恵まれているように見える家庭でも、世間体を取り繕うような場合には内実が伴わない場合があります。

子供の育て方にまで話が脱線するのは避けますが、陰陽で言えば、前者は陽から陰に、後者は陰から陽に移り変わるわけです。必ずしも誰でもが前半、後半を二分するサイクルにはなりませんが、必ず波があるわけです。それは、運勢の良い悪いではなく、内で力を養うインプットの時期と、外に出て力を発揮するアウトプットの時期、と言ったほうが分かりやすいでしょうか。
それは、必ずやってくる波ですので、運勢を気にするのならば、この波を考えないと、ただ運勢を良くしようと思っても、逆方向に努力しても何にもなりません。
誰でも、しばらく頑張ったら、少し休んで休養を取ります。昼(陽)に外で活動したら、夜(陰)には家に帰りゆっくり休んで英気を養います。これが自然な流れで、陽と陰とどちらが良いとか悪いという話ではないのです。

人生が前半で終わっちゃったら嫌だなあ…そんなこと聞きたくないよ、という向きも当然あろうかと思いますが、あえてここでこんな事を申し上げるのは、当サイトを訪れる方は、かなりの部分が後半型だという事情があります。大部分、と言っていいかもしれません。
ネットで発信しているという事情もあり、利用者にどちらかというと比較的若い方が多いので、まだ後半からの流れが見えていないという場合もあるでしょう。

最も多いのは、幼少の頃から他人と違う環境に置かれたり、何かと苦労が多かった為に、自分に疑問を持ったり運命について考える機会が多かったので、自然とこのようなサイトに辿りついた、という場合だと思います。
そういう方はほとんどが陰→陽の後半型ですので、運命鑑定をしていると、あの人もこの人も後半型、というケースが多くなります。
若い頃に順調に行っている方は、割りに自力本願というか、運が悪いのは当人の努力が足りないだけ、と思っておられる場合も多く、人間には自分で制御できない大きな流れがある、という視点を持つには、まだ時間がかかるのではないか、という気がします。


このように、運勢の流れから日常生活に到るまで、陰陽の組み合わせは何にでもありますので、話は尽きませんし、身近なものを引き合いに出せばいろんな役立つ話題も出てくるでしょう。しかし今日は、東洋運命学で使う太極のマーク、これがメインテーマです。
えっ、陰陽の話じゃなかったの?と思われたかもしれませんが、その通り、まさに陰陽の話です。マークを見ていただけば分かるとおり、太極=陰陽そのものなのです。
そして、この太極のマークが国旗に使われている国があるのです。


先日の中国、韓国関連のニュース関連でネットを徘徊していたら、ふっと「大清國屬 高麗國旗」という文字が目につきました。

ん?清の時代には韓国は中国の属国だったってこと?と思いつつ記事をたぐっていくと、昔の韓国の国旗を収録した資料が、2004年に発見されていたとのことのようです。
けっこう特徴のある国旗なので、その解釈を巡っていくと、かなりオカルトチックな話にもぶち当たりました。

一国の国旗を制定するに当たっては、識者の意見を取り入れて、いろいろと綿密に検討されていると思います。しかし、どうしても国旗というような目につくものは、内政外交含め、いろんな力関係が左右する面があると思います。その為、何らかのバイアスがかかる可能性は必ずしも否定しきれないような気がします。

日本などは、日の丸も君が代も、いつの間にかこれしか無い、作者不詳のままに自然と決まってしまっているという状態になり、まず変更する余地がありません。ある意味これは幸福なことで、たとえ誰かがこんなの嫌だ、と文句を言っても、違う候補を提出するのはかなり困難、という状態で落ち着いてしまっています。
そういう国と他国では、かなり事情が違うと思います。何度か変わる間に、表向きの話し合いの他に、何らかの意図が働く可能性は残されているのではないでしょうか。それは人間が意識してするものばかりではなく、もっと別の…人間世界とは別のものかもしれない、という可能性が、個人的には捨てきれません。

そういう、いわば色眼鏡的な感覚をもって現在の韓国旗を見てみると、旧「大清國屬 高麗國旗」と比べて、やや不思議な点があります。

太極(陰陽魚) 現在の韓国旗 大清國屬 高麗國旗


東洋学に関心をお持ちの皆さんなら、ある程度はお分かりだと思いますが、どちらも真ん中に太極があり、四隅に四つの卦が配置されています。八卦が四つに省略されたのは先天図の四正のぶんだけを取ったとして、不思議な感じはしません。
問題は真ん中の太極図です。

本来の太極図は左図の通り、陰陽魚と言われる勾玉状のものが、二つ組み合わさった形になっています。丸くなったほうを魚の頭、細いほうを尾とすれば、ちょうど二匹の魚が絡み合って、相手を飲み込もうとする様子に見立てることが出来ます。

陰陽の両方とも真ん中に小さな丸い玉がありますが、これは陽中の陰、陰中の陽であって、陰陽は表裏一体であることを端的に表しています。また、この図が縦になっているので、視覚上、自然と重みが感じられて、そこに動きを生じます。陰陽が動的に絡みあうありさまは、どちらが上でも下でもなく、お互いに切磋琢磨しあって陰が陽へ、また陽が陰へと、絶えず変化し動き続けようとするさまが見事に表現されている、と言えるでしょう。

この太極図を元に旧「大清國屬 高麗國旗」と現在の韓国旗を見比べてみると、かなり印象が違います。
太極魚の形も違いますが、もっと大きな違いは、陰陽の目が無くなってしまったことです。右図では分かりづらいですが、大清國屬 高麗國旗のほうにはちゃんと目があります。一緒に発見された資料に手書きの図解がついているので、間違いありません。
さて、陰陽魚には目が無くても陰陽魚と言えるか?筆者は違うと思います。

陰陽の法則の真髄は、陽中の陰、陰中の陽にこそあり、お互いが自分の中にお互いを内包して、しまいに相手と一体になろうとする部分にこそ、陰陽の法則の真髄があるので、このように陰陽の目が無くなってしまったのでは、一つにまとまろうとする太極の働きの肝心な部分が骨抜きになってしまっている、と言っても過言ではないように思います。

どのような経緯でこのような変化があったのかは、筆者には分かりません。しかし、国旗という国の象徴の変化の歴史は、過去現在未来を読み解く、ある種のヒントを指し示している場合があります。
このように、太極図を国旗に擁している国は、モンゴルが五行思想的な意匠を取り入れている以外、韓国のみです。

筆者は、韓国は本来は儒教の国であると信じていますが、現実は様々な外部要因も渦巻いていることでしょう。陰陽魚の力がきちんと働いてこそ、太極もしっかりし、ひいては国の太極である中枢機能もしっかりして、国力が発揚されようものだと思います。
「大清国属」というような、屈辱的な名称の下に使用された旗をそのまま使いたくない、という気持ちはとてもよく分かります。世界中どこの国家国民であろうとも、等しく同じ気持ちになる筈です。
しかし変えると言っても、もっと違う変え方があってもいいのではないか、という気がします。大清國屬 高麗國旗のほうも、色使いや形も今ひとつ爽やかさに欠けるきらいがありますが、少なくとも、せっかくの太極の旗印を掲げるのならば、太極の働きの肝心な部分はしっかり確保ておくほうが得策ではないだろうか、と思います。

陰陽の法則を考えるにあたり、ふと目についた韓国旗を例に出しましたが、人の運命やいろんな事象を目にするにつけ、太極の大切さと、太極を構成する陰陽の法則の見事さは疑いようのないところです。今後も機会あるごとにご紹介していきたいと思います。

「2012年11月記」

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