風水学講座:目次

タンポポに見る北米の価値観


映画のような生活の下には

「ゲストの部屋」のmoo mooさんの家の問題から、私が考えたことがあります。風水というのは本来、どっちの方位に何を置くというような小さなものではなく、自然と人間の共存関係を土台にした、人間科学とでもいうべき広さと深さを持った学問です。

この観点からよく考えてみると、絵に描いたような青々した一面の芝生というのは、どこか少し、違うような気がしてきます。
放っておくには芝生が一番安上がりで手間もかからないから、というのであれば芝生が良いでしょうが、芝生というのは、維持するのが大変な植物の一つです。整然と刈り込まれた一面の芝生が良いというのは、アメリカ大陸的な趣味ではないでしょうか。これがかりに日本庭園であれば、もっと変化に富んでいる筈です。

農業の分野でも、アメリカ大陸で主に行われているのは、広い面積に一種類の作物を植え付けることですね。
個人の住宅であっても、一つの家はその国家のミニチュアのようなものと考えれば、moo mooさんの家の芝生は、北米全体の傾向を表しているような気がします。
フランスの有機農業を見て回った人の話では、ジャガイモならジャガイモ畑に連れて行かれると、「えっ、これがジャガイモ畑?ジャガイモはどこにあるの?」という感じだそうです。もちろん、ジャガイモに限らず他の作物でもそうです。

土壌の健康を保ち、適度に水分を蓄え、繰り返し収穫しても土地が痩せ細ってしまわないようにするには、ある程度の種類の植物が、程よく交じって生えていなければならないのだそうです。
自然というのは、人間が頭で考えた予定どおりに、そう都合よく区画整理されてくれるものではなく、いろんな生き物が共生し、バランスを保っているものです。一種類の作物ばかり植えれば、バランスが崩れ、特定の害虫が大発生する事態も引き起こしかねません。


イギリス貴族の趣味は

別にヨーロッパ文化を贔屓するつもりはないのですが、例としてイギリスを考えてみましょう。
イギリス貴族の子弟の必須教養項目に、バラ作りとバードウォッチングがあります。
これは何故かと日本人に尋ねてみますと、普通、「バラはイギリスの国花だから」と思う方が多いでしょう。ついでに「バードウオッチングも優雅な趣味だよね」というところでしょうか。しかしこれには、歴史的な土壌があります。
ヨーロッパの貴族というのは、何もお城に棲んで優雅な生活を送るばかりが能ではないのです。
国というものが今のような形態になっていなかった時代、貴族=地主というのは、自分の棲む領地が、国家そのものでした。自分の国家は、自分で治めなければなりません。
当然、法律も年貢も、自分で決定します。その為には、領地に棲む人々の生活を良く知っていることが必要です。どこの国でも、年貢は過不足なく十分に取り立てたいのが支配者というものですが、あまり無茶な年貢を取り過ぎると、領民は生活が成り立たず、国家の基盤そのものが崩れてしまいます。

その辺をうまく見極める為には、地主自らが土と自然に親しみ、「今年は農作物の出来が良い」「渡り鳥が早く来たから、今年の冬は厳しいだろう。この調子では、作物の不作は覚悟しなければなるまい」という見当をつけることが不可欠になってきます。
かといって、貴族自らが大根やカボチャを植えるのも無粋ですから(この辺は筆者の推測)、自らはバラ作りをしながら土地と作物の状態を見て回り、バードウォッチングで野生動物の動きを見て、季節の推移や天候を注視する、というのが本当の目的でした。
バラ作りもバードウォッチングも、大地に足のついた、生活の為の必然的な営みなのです。筆者もバラが好きで、たまに鉢植えのバラを買っては、何とか育てようとするのですが、バラは花の中ではけっこう難しい部類に入るようで、いつも失敗。
バラ作りの名人の話では、バラ園を持つと一年中気を抜けず、農作業に追われているそうです。ちょっと油断すると虫がついてしまいます。
でも、その為に殺虫剤を使うのは下の下。古来、バラというのはニンニクと一緒に交ぜ植えするもの、と相場が決まっています。そうすると虫がつかないのです。

迫害されるタンポポ

芝生と交ぜ植えするのは何が適当かは知りませんが、タンポポを敵外視するのは、どうも北アメリカ大陸の全体的傾向のようです。
タンポポというのは、世界中に広く分布するキク科の植物ですが、同じキク科のヨモギが、やはりアメリカ大陸では邪魔物の代表、諸悪の根源、雑草の代表のように敵視されているようです。
なぜなのでしょうか。ヨモギは食用にもなりますし、薬効成分もあり、根にたっぷりと水分と養分を含んで地質を柔らかく豊かに維持し、多くの野生動物がこのヨモギを食べて繁殖します。

そのヨモギ、タンポポなどの雑草(!)を根絶やしにするために、とにかくありとあらゆる手段が取られてきました。
その代表が、農薬という名の毒薬です。
そのために、さまざまの野生動物の種の存続が危うくなり、動物学者が声を大にして警鐘を鳴らしているにもかかわらず、状況はいっそう悪くなる一方です。
この実態については、先月も紹介した「沈黙の春」(レイチェル・カーソン著=新潮文庫)に詳しく描かれています。
この本は1962年の初版で約40年も前に書かれた本なのに、ちっとも古くならないのです。この古くならないという事実は、この本が素晴らしい著作であることを示すと同時に、怖いことでもあります。
「そういえば、昔、そんなことあったね」という具合になってくれれば良いのですが、状況はあいも変わらず、いや、いっそう複雑になってきています。
筆者は動物愛護団体とは何の拘わりもありませんが、自然動物が死に絶えてしまった世界で、果たして人間だけが生き延びることが出来るのでしょうか。
丈夫な雑草も生えない土地の上で、生きることができるのでしょうか。芝生の上にキク科のタンポポ、ヨモギが頭を出すと、極悪人のように敵外視する、というのは、どこか底の浅さを感じはしないでしょうか。
形が違っているのが、そんなにいけないのでしょうか。メグ・ライアンはお茶のコマーシャルで「ワタシ、タンポポダカラ」と言っていますけれど。

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