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神頼みと人の行く末



名刹の正体は?

奈良市にある生駒山麓一帯は、辺りでも指折りの観光地として、休日ともなると家族連れのハイキング、カップルのデートコースとして賑わう。
しかし、場所は奈良である。いたるところに由緒ある寺院、名所旧跡が点在して、日本の歴史をものがたっている。
さてこの生駒山の中腹にある宝山寺は、通称を生駒の聖天(しょうてん)さまという、全国に名高い寺である。 なにしろ、ちょっと歩けば歴史のある神社仏閣に出くわす土地柄なので、地元の人がどれくらい認識しているかは知らない。しかしじつはこの寺は、非常に特殊な方面で知られる名刹なのである。

生駒の聖天さん、真言律宗宝山寺といえば、一般には商売繁盛の神様として知られている。しかしこういうことに詳しい人、特に行者、祈祷師の間では、知る人ぞ知る、非常に特殊な神様なのである。
どういうふうに特殊かというと、その効験のあらたかなことと、祟りの恐ろしいことである。
どれくらい効験あらたかかというと、まず、ここにお願いすると、どんな無理な願いでも適うということだそうだ。最初に○○さまに頼んで駄目で、次に××さまを拝んでも効き目なし、それならと△△さまにお願いしても音沙汰なしという時に、いよいよ最後にお願いするのが、聖天さまなのである。
欲深な人などは、そんなに効験あらたかなら、凄い、私も頼みに行っちゃおう、とすぐに出かけそうだが、それっばかりでは済まない。御利益のある神様は、祟りのほうも恐ろしいのである。それだけ力があるということなのだ。

どのくらい恐ろしいかというと、行者、祈祷師の間では、この聖天さまを専門に拝む行者で天寿を全うした者はいない、と言われている。みんな扱いを間違えて、事故死、変死の悲惨な末路である。
祈祷師の間では、聖天さまを祀っているというと、「エエッ」と驚かれる。内心「ずいぶん、度胸があるなあ。しかし、聖天さんは御利益あるからなあ。この人、じっさいのところ、どれくらい御利益もらってるんだろう」と色気も出てくる。聖天さまというのは、あちこち拝んで回るのが好きな人の間でも、最後のものなのである。マニア中のマニアのものなのである。

その特徴はというと、少々の無理なお願いでも、たちどころに適えてくださる代わりに、願いが叶ったら、必ずたっぷりお礼をしないと、後が恐ろしい。お礼参りをしないと、逆に向こうからお礼参りが来る。ちょっと柄の悪い言い方になってしまったが、神頼みの世界というのは、後で述べるように能力プラス義理人情の世界なので、ある意味ではヤクザの世界と共通点があるのである。
世間の人は、(神様だから、小さな人間の願いなど片手間にかなえてくれて、しかも寛大だからお礼なんか当てにするような神様はいないだろう)と勝手な解釈をしがちだが、これは大間違いである。
人間というものは勝手な生き物で、さんざん願い事をしておいても、いったん願いが叶ったが最後、自分の力か偶然の賜物と思いがちだ。これがいけない。
これは聖天さまに限らず、神頼みをした場合は、絶対忘れてはならないことなのだが、必ず願解きをしなければならない。それも、頼んだことに見合うだけの十分なお礼をしないと、ひじょうにお怒りになる。

神頼みをした以上、必ずお礼、願解きをしないと、それ以上の祟りがあると思った方がよろしい。今世で祟りを逃れたとしても、必ず来世では厳重な取り立てがある。その非情さは、税務署以上と思ったほうがいい。聖天さまはその度合いが強いというだけの話である。


神頼みされた側の実態

さてここで、神力とかその利益ということについて、一般の人にも分かるように、考えてみたい。
なぜこういうふうに、利益と祟りが一対になっているかというと、神というものの存在、概念を知ってもらう必要がある。神といっても、ピンからキリまである。一般人が商売繁盛やら縁切りやら願いにくるのに、それほど位の高い神がいちいち出て来ることは少ない。人間の日常生活の欲にからんだ願いに応じて働くのは、鬼神である。
鬼神の性格とその働きというのは、人間と同様に考えればよい。人間は、働きに見合うだけの報酬をもらえばきちんと仕事をするが、それなりの対価を払ってくれない相手に対しては、指一本動かさない。また、身内であれば無報酬でも身を犠牲にして助けるが、何の関係もないアカの他人に対しては、頼まれても内心面倒臭いだけである。その能力にしても、何を頼んでも立派に出来る者もあれば、あんまり役に立たない者もある。

じつは神も、これら人間と同様なのである。神と人間の差は、能力と住んでいる世界の差であって、本質的な差ではない。人間の能力を、数百万倍したのが神と思えば良い。
神のことを仏教語では「天人」というが、これは「天に住んでいる人間」という意味である。
神であっても悪事を働いて上位の神に罰せられる者もあるし、寿命が尽きれば死ぬ。神の寿命が尽きる状態を「天人五衰」という。三島由紀夫の小説にある。

ただ、非常に大切なことがある。神と人間の大きな違いは、能力とか財産というものの形態の違いである。人間の財産が、物質的、金銭的な数量、あるいは体が健康か才能があるかという点で測られるのに対し、神のそれは、功徳力で測られる。どれだけ良いことをして徳を積んだか、という点である。病気の神はいないし、貧乏な神、恋愛に悩む神もいない。そういう、すべて万能で思いのままに過ごせる世界で大切なのは、ちょっと難しい問題になるが、どれだけ「真如」を得たかという問題になる。悟りの高さ、深さという物差で、財産が測られるのである。
これを人間社会で起きる具体的なものごとにあてはめると、どういう人間をどれだけ助けたか、という点が大きなポイントになる。そこに神の性格と悟りと、価値判断が表現されるからである。ただのんびりと、天上で甘露を飲んで昼寝ばかりしているわけにはいかないのである。

考えてもみて欲しい。大犯罪者のくせに、むやみやたらに悪運の強い者がいる。永田町あたりに、たくさん大手を振って歩いている。また善人、一般人であっても、学者と商人の性格、能力には開きがある。そういう人にはそういう性質の守護神がついているからである。
その中でも、神がもっとも注目するのは宗教家である。宗教家を守る守護神が、良くも悪くも、もっとも力を増すからである。哲学、宗教の分野は、この世を構成する根本要素であるぶん、その影響が大きいからである。
正しい宗教家には正しく力の強い神がつくし、悪い宗教家にもそれなりに力の強い大悪神が力を貸すので始末が悪い。


神を叱り飛ばした人間

清澄寺の日蓮上人像

そこで、本題からは少々遠ざかるが、エピソードを一つ紹介しよう。
日本で一番宗教の再編が活発に行われたのは、鎌倉時代。その鎌倉仏教が生んだ宗教家の代表格が、日蓮である。日蓮上人というのは、その激烈な性格、極端なほど歯に衣着せぬ直截な表現もあってか、生涯にわたって何度も何度も法難を受けた宗教家である。その一つに、鎌倉竜ノ口の法難という有名な事件がある。

文永8年(1271)9月10日のことである。
日蓮は、時の権力者であった北条氏に楯つき、他宗ことごとく敵に回した結果、すでに出来上がっていた日蓮有罪の筋書きのもとに、捕らえられてしまった。
佐渡へ流罪ということで、北条宣時の屋敷へいったん預けられる。しかしその夜半、夜中の12時ごろになって、突然出立ということになった。
これは表向きは佐渡へ流罪と見せかけ、じつは竜の口の刑場で首を刎ねるため、人目をはばかっての突然の連行である。
日蓮は裸馬に乗せられ、平左衛門頼綱以下役人たちの手で連行されてゆく。

日蓮はもう悟っていた。自分が行こうとしている所、その目的を。
馬は現在の鎌倉雪の下から鶴岡八幡宮の若宮小路にさしかかった。そこでいきなり、日蓮は馬から飛び降りたのである。
警護の侍が慌てて駆け寄ろうとするのも構わず、日蓮はうっそうとした八幡宮の杜に向かって、大声で呼ばわった。

「いかに、八幡大菩薩はまことの神か!」
なにしろ、法華経の読誦行で鍛えているから、気合が入っている。
「われは日本第一の法華経の行者である。そのうえ、身には一寸の過ちもない。かつて釈迦仏が法華経を説かれるゆえに多宝仏、十方の諸仏、菩薩が集まりたる折り、無量の諸天ならびに天竺、漢土、日本国などの善神聖人、皆おのおの法華経の行者に疎略あるまじき由の誓状を差し出されたではござらぬか。さらばこの日蓮が申すまでもなく、急き急きその誓状の宿願を遂げさせたもうべきに、なにゆえここに出会われぬのか!」

ここで言っていることは、こうである。
むかし、お釈迦様が法華経を説かれた時に、世界中の菩薩や諸天善神が集まって、法華経の行者を守護しようと固く約束したはずなのに、八幡さまは、なぜちゃんとその約束を守らないのか。それでも、ほんとうの神なのか、というわけである。鎌倉八幡は、日蓮に叱り飛ばされたのである。
警護の侍も、度肝を抜かれたに違いない。よほどの信念の持ち主でなければ、こんな言葉は出ないだろう。
さてこの結末はというと、竜の口に到着して、いよいよ処刑とあいなった時である。役人が近づいて鞘を払い、白刃が大きく振り上げられたその時、天の一角、江ノ島の上空に正体不明の光り物が出現した。月ぐらいの大きさで、非常な明るさ。浜辺の貝殻、砂ひとつぶまではっきりと見分けられるほどだった。
この光が、江ノ島上空から戌亥(北西)の方向へ、ゆっくりと移動してゆく。この怪異現象に、馬はいななき、太刀取りの役人ほかほとんどの者が眼をおおって、われ先にと逃げ出してしまった。
これで日蓮の処刑は不可能になってしまい、棒立ちになっていた平左衛門は仕方なく、日蓮を相州依智の本間邸へと連れて行く。かくして日蓮の行者生命と活動は、その後も続くのである。

なんだか、日蓮宗幼稚園の紙芝居のようになってしまったが、私、雲切童子の立場からいって、日蓮に脅迫された鎌倉八幡の気持ちはよく分かる。これでは、のんびり江ノ島弁天といちゃついているわけにもいくまい。
「法華経の行者を守護することは何よりも優先事項であると、お釈迦様の前で一筆入れたじゃねえか、それでも神か!」と叱りとばされては堪ったものではあるまい。
こういう具合に、一般の人の商売繁盛やら縁結びやらはいつでも良いが、行者、宗教家の守護は優先順位が一位なのである。国家の一大事に等しいのである。
これは功徳力という点からいって、偏差値の比率が非常に高いからである。日蓮の信念の強さを伺わせるエピソードだが、これなどは、神と人間の関係という観点からみると、非常に面白い。
少し論点がずれたが、日蓮が鎌倉八幡を名指ししたのも、土地神であると同時に、もっとも力の強い神の一人であり、ものごとの価値判断のわかる神であることを知っていたからであろう。神にはまさに、「神通力」を体現できる神もあれば、ハナ紙にしかならない神もあるのである。鼻紙を拝んでも仕方あるまい。


聖天さんのご利益とは

聖天さんというのは、この力の強い神の中でも、代表格の一人である。しかしその力の強さはというと、わりあい現実的、日常的なことに使われることが多い。
商売繁盛の神である点を見ても、わりあい庶民に近しい、御利益優先の神である。

これは、その名前とルーツを見てもわかる。聖天さんのルーツは、他の仏教神と同様、インドである。よくインドのお土産に、鼻の長い、人間とも象ともつかない姿の像がある。あれが「ガネーシャ」と言って、聖天さんの原型である。
単身のものと、男女のガネーシャが抱き合っているものがあるが、単身のものは危険であるとされている。ガネーシャはもともと無類の乱暴者で、何をするか分かったものではないので、女をあてがっておかないと、災厄を招くのだそうな。

仏教神としての聖天さんは、正式な名前を「大聖歓喜天」というが、その訳はこうだ。
ガネーシャはその荒ぶる性格が直らないので、十一面観世音菩薩が女性の姿で近づいてたぶらかし(ちょっと言葉は悪いが)、仏教に帰依させ、乱暴をしないよう改心させたのだそうだ。しかし女性がいないと、いつ暴れだすか分かったものではないので、常に十一面観音が側にいて、優しくいなしておくことになっている。大聖歓喜天の名前の由来である。
なんだ、「歓喜天」というのはすなわち、いつもウハウハしてるという意味じゃないか、と馬鹿にしてはいけない。英雄色を好み、色事に強いのは、万事に強いということになっている。食べ物の方も両刀使いで、その法要は百味供養という、色とりどりの供物を上げて般若供養が行われるが、一番の好物は、「お団」という油で揚げたお菓子だそうである。あと、供物に必ず大根をあげる。これは放っておくと体に毒が溜まるので、大根で清めるのだそうだ。関西ではこの生駒の聖天さんが有名だが、関東では浅草待乳山(まっちやま)聖天さんがある。生駒と同様、熱心な信者で賑わっている。

さて、この聖天さまを代表として、御利益のある神さまにお願いをすると、現実にどういうことになるか、という問題だ。
神頼みにはやり方によっては非常な効果がある。しかしじつは、神頼みをするということは、ある意味でその神と契約をかわすということでもある。あくまでも契約であってボランティアではないから、取引である。何か頼めば、対価を支払わなくてはならない。
通常は、神主や坊さんに頼んで、いくばくかのご祈祷料を支払って頼みごとをする場合が多いが、なかなかどうしてこれでは終わらない。
これはお寺や神社に対する手続き上は終わるか、そこは神通力の世界であるから、御利益と対価が釣り合うかどうかはしっかりと天秤で測られている。御利益が大きいと思ったら、それなりのお礼をしておいた方が無難である。
よく、宗教によっては収入の何割がお布施と決められている場合があるが、ま、神頼みというのは多かれ少なかれ、そういうものだ。ましてや頼みっ放しで忘れてしまうと、どういうことになるか……元の木阿弥ならばまだ良いが、もっと別の事態を招く場合がある。これ以上脅かすのは止めておくが、どういう具合に神様と付き合ったらよいか、とりあえず一般論だけ述べておこう。

神さまとの付き合い方

1、自分の縁の深い神、土地神、産土神とまったく付き合わずに過ごすのは困難だ。神の助けがなくては何事も通らない。正しいつきあい方を覚えておこう。
2、そこが良い因縁の神社仏閣であることが条件だが、たまには(最低年に一回)お参りに行こう。この時の拝み方は、必ず、無心で手を合わせることだ。人間の欲望に拘わることを願うのは、原則として邪道だ。邪道でない正しい願いかたは「自分が社会の役に立つ、立派な人になれるよう、自分本来の役目を立派に果たせるよう」願うことだ。力がなくては社会の役には立てない。こういう大義名分を持っている人間に対しては、神は力を貸すのにやぶさかではない。あなたはワンランク上の人間になれるだろう。
3、何か事情があってお願いごとをする時には、昇殿祈祷を受けると良い。これは祈祷を受け付ける神社仏閣では、社務所で所定の申し込み書を記入して祈願を頼むようになっている。いちいちこと細かく案内してくれるから、迷うことはない。
この時、祈願札を貰うが、これを粗末にしないよう、必ず1日、15日には和菓子やお酒、お花を供えることだ。
4、願いが叶ったと思ったら、お礼のお参りを必ずしよう。前の通りに社務所でお礼の祈願を頼んでもよいし、単に、のし袋と日本酒を「お礼に参りました」といって社務所に渡してもよい。この時、祈願札が古くなっていたら一緒に納めても良いし、一年以内だったら、前のお札に新しいお札を重ねて祀っても良い。

と、ここまでは通常の日本人の作法だが、聖天さまのような、特に霊的に力の強い場所、いろんな現象のすぐに現れる神社仏閣に関しては、覚えておくべきことがある。
浅はかな人間は、すぐに願い事をする。その願い事たるや「宝くじが当たりますように」「恋仇が死にますように」「会社のライバルが左遷されますように」などと、まことに自分勝手な願いが多い。
えてしてこの類の、自分の利益ばかりを優先した無理な願いをする人間は、お礼など忘れることが多い。こういう人間からはこういう言葉が返ってくることが予想される。「理屈を言う前に、私の願いを適えて欲しい。第一、神頼みで本当にそんなに、願いが叶うのか」

これに対してはきちんと回答しておこう。
神頼みにはわりあい通りやすいことと、少々無理な願いがある。
一番通り難いのは、縁結びである。これは特定の相手との縁結びは、じつに通り難い。
原則として順縁(その人と結ばれて本人の為になる縁)は通りやすいが、逆縁(その人の願いをきくと、かえって不幸になる縁)は通り難い。神頼みに来た時点で、逆縁であることが多いからだろう。

一方、かなりの確率で成功しやすいのは、受験合格、子授け、縁切りである。病気は種類にもよるが、かなり成功率が高い。
しかし子授けなどは、いちがいに頼んでよかったとばかりも言えないことを、知っておいた方がよい。
実際にあった例だが、ある水商売の女性が、彼氏をつなぎとめるため、どうしても子供が欲しいというので、祈祷師のところに行った。その祈祷師は霊験あらたかだったのか、祈願してすぐに子供ができた。
ところが子供が生まれてすぐに、くだんの彼女は彼氏と分かれて、水商売に舞い戻ってしまった。子授けの祈祷が、彼女のために本当に良かったのかどうか、首をひねってしまう難問として残った。

であるから、願いごとをするにも、その人の人間的な欲望を願う場合は、よく考えてからにした方がよい。
願う前に、まず自分がどれだけの値打ちがあるのか、考えてみる必要がある。自分の願いを言う前に、まず自分のキャパシティ、器を作ることが先決であろう。
あなたが社会に役に立つ立派な人になれば、何も神社仏閣に行って願わなくとも、神は向こうからやってきて守護してくれよう。また、その守護を忘れないのも、人間の側の礼儀であろう。ここが、本当の信仰心であるかどうかの境目である。
社会的に大成した人はまず例外なく信仰心が篤く、神仏をないがしろにする人はいない。大企業や都心のデパートの屋上に必ず小さな社があるのを、日本の封建性、迷信深さを証明するかのように言う人があるが、これは大間違いだ。
しかし、神頼み、御利益ということに関しては、以上で述べたように難しい側面があるので、締めくくりに、2題の話をプレゼントしよう。最初の話が、本当に神信心の利益。後の話は欲望によって願うことの恐ろしさを表す話である。どちらもかなり有名な話だが、初めて読む人はどう思われるだろうか。

旧丸ビルを守った観音さま

テレビの特集で見て、昔新聞で読んだのをチラッと思い出しただけなので、資料的に不十分なのは勘弁してほしい。
東京駅前の旧丸ビルが、たしか1997年頃だったかと思うが、老朽化のため、とうとう取り壊されることになった。
じつはこの丸ビルには一つの謎があった。それは、このビルを作った建築家が、設計の時に「このビルと、ビルに入居する人を守ってほしい」という動機から、このビルのどこかに、観音像を封じ込めたということだった。
この話はやや一人歩きするようになり、丸ビルの神話のようになった。ただ、その観音像がビルのどこにあるのか、誰も知らないのだった。丸ビルというのは完成してから現在に至るまでの間に、戦災をくぐりぬけている。
第二次対戦の時には、東京駅近辺は軒並み空襲を受けて、辺り一面焼野原となった。
ところが、旧丸ビルだけは何の被害も受けず、焼け残った。その時の写真たるや、まさに見ものである。
東京駅界隈が瓦礫の山と化している中で、旧丸ビルだけが一棟ポツンと立っている。「なんでぇ〜!」という感じである。

しかし実際に観音像が中に入っていることを知っていた人は、この事実を眼のあたりにして、神仏の存在をはっきりと感じたことだろう。
取り壊しにあたって、この建築家の息子さんは、何とかこの観音像が粗末にならないよう、取り出して適当な場所に安置したいと思い、ずいぶんと調べ回った。だがあいにくと、肝心の父親から聞き出すことができなかったため、取り壊しに際してはだいぶ気を使った。
結局、屋上近くの壁の中から、無事に発見された観音像は、現在お寺に、大切に安置されている。

猿の手

ある夫婦があった。いつもお金がなくてあくせくしていたが、ある時、不思議な品物を手に入れた。
それは「猿の手」で、これに願いをかけると、どんな願いであろうと、三つだけは必ず適えてくれるというのだ。
夫婦は猿の手を前にして、さっそく願いをかける。
「お金が欲しい。とにかく、沢山、お金が欲しい」

するとしばらくして、ドアをドンドン叩く者があった。それは遠い所で働いている一人息子の、会社からの使いだった。
息子は恐ろしい事故にあって、無残な死に方をしたのである。その知らせと、多額の生命保険金を持ってきたのだった。
夫婦は驚き悲しむ。「ああ、こんなことなら、お金なんて要らなかった。息子を返してほしい。私たちの大事な息子を生き返らせてくれるなら、あとは何にもいらない。そうだ、まだ願いが残っている。どうぞ息子を返してください」

そうすると、ドアの外にまたコツコツと足音が聞こえた。ドアをノックする者がある。
「お父さん、お母さん、僕です。帰ってきました」
それは、息子の声だった。死んだ息子が戻ったのである。死人が生き返って、墓の中から出て来たのだ。夫婦は恐ろしさに震えあがった。
「ああ、願いは二つとも叶った。でも、一度死んだ息子が生き返るなんて、そんな恐ろしいこと、とても我慢できない。そうだ、願いはこれで二つだ」
夫婦は、最後に残った三つ目の願いを、猿の手に向かって願った。
「どうぞ、息子をもう一度死なせて下さい。死人は死んだままにしておいて下さい」
三つも願いが叶ったのに、これが夫婦の結末だった。

前者の観音像の話は問題ないだろうが、後者の「猿の手」には、少し注釈を加えたい。なぜ、こういう結末になるかというと、「猿の手」ということをヒントにしてもらいたい。
猿であるから、人間ではなく、動物である。毛むくじゃらの干からびたミイラのようなものを連想してしまう。こういう物についているのは、例外なく高級神霊ではなく、動物霊である。それも、正当な神系から外れた、外道の魑魅魍魎の類いだ。
こういうものがある神通力を持っていると、厄介なことになる。人間の生命を引き替えにしているところから、ダキニの系統であろう。
ダキニというのは、人間の死を予知して、人間が死ぬと同時に魂を取って食うと言われている。人間の生命力を取って力を増すのが目的で、これは妖怪の常套手段である。
夜叉、ダキニというのは日本では稲荷信仰として広まっている場合が多く、行者の間でも、稲荷信仰というのはつきあいが難しいものの一つとされている。
それは、稲荷信仰というのは、確かに、一見御利益があるように見える。商売繁盛などを願うと、パアッと景気が良くなる。しかし一定期間経つと景気が落ち込む。
そこでまた頼むと、景気が上向きになる。
しかし実はこれは、景気を前倒ししているだけで、本当に売上が増えたわけではないのだ。それが分からずに頼んでばかりいると、眼に見えない借金を抱えることになる。
こうなると、神界の闇のサラ金に手を出したような状態になり、後から後から高い利息が追いかけてきて、生かさず殺さずのがんじがらめの状態となる。
だから、稲荷信仰に熱心な人は、浮き沈みが激しい。この章で最初に書いた聖天さんも、実はこの、ダキニ、稲荷の霊系に属する神だ。だから御利益と祟りが大きいのである。新興宗教も似たようなものだ。世の御利益信仰の人は、心してかかられるが良い。


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