雲切童子の怪刀乱魔TOP

御札、御守、御みくじサマサマ




タオが表サイトの掲示板を閉鎖したため、代わりに「おみくじゲストブック」を置いてみたら、これが意外に好評なようである。
他のCGIも実験的に置いてはあるが、多くが放置状態になっているのに比べ、やはりおみくじがあるとひいてみたくなるのが人の常か。

タオの日誌でも鶴ヶ岡八幡のおみくじのことを少し書いていたが、おみくじというのは人間にとってはまことに不思議なシロモノに違いない。
もちろん、著名な神社仏閣であっても、業者から出来合いのものを買って済ませている、観光業者転向組のフトドキな神社仏閣も多い。こういうところは論外であるので、たまにハグレ鬼神が当たりを出すことはあっても、あんまり当てにしない方が良い。

しかし、曲がりなりにも神仏のおわします有難い御社であるという自覚のあるところは、御神籤ひとつにしても気を抜くということはない。ちゃんと自分のところの独自のものを工夫して、目明き一人にメクラ千人といわれる人間どもに、何事かを告げようとしている。(国語審議会管轄外の放送禁止用語大好きサイトであるので、そのお積りで)

もっとも、引く側の人間の態度にもいろいろある。東に行けば宝くじに当たり、西に行けば女に当たり、南に行けば車に当たることが分かればいいや、というタナボタ星人。いいのが出ればしっかり仕舞い込んで、悪いのが出たら「これで厄落としになった!」と、その辺の木の枝に結び付けて帰る暢気な極楽往生型。大吉が出ると気を許すなかれと自分を戒め、凶が出れば有難い教えを頂いた、と感謝する刻苦勉励型。ちょっとしたところにも各人の性格が出て、非常に面白い。

しかし、御籤の引き方にも要領があるし、御札や御守受けるにもそれなりの心得がある。
これを取り違えて、かえって欲の深さと知恵の浅さを露呈してしまい、仏のほうでも「こいつには三回も我慢していい顔してやるのはウンザリだァ。『仏の顔も三度』なんて、俺が言ったんじゃねーよ。こちとら江戸っ子観音だから気が短けえんだ!」などと愛想尽かしをされないように、十二分に注意されたし。(序でにここの作者は玄界灘育ちの博多ッ子観音で、おまけにやたら長い物を振り回すのが得意だから、もっと気が短い)

まず神籤からいこう。御神籤というのは何となく引くのでなく、迷いがあったりはっきりした目的があって、正しい引き方をすると、自分の心の底を見透かされているような、何とも不思議な結果が出ることが多い。
なぜかと言うと、御神籤とは霊界通信と思えばよい。

霊界通信と書くと、どこかの新興宗教のウリ文句のようだが、人間はしょっちゅう霊界通信はしているので、そんなに特殊なものではない。
どっかに電話しようとすると、ちょうどその相手から電話がかかってきたりする。何となくフッと後ろを振り返ると、誰かがジッと見つめている。多い例では、肉親の生死に関わる時に、何となく胸騒ぎがしたり、当人が別れを告げにやってきたりする。あるいは女性が子供を受胎する時に、何かが子供を連れてきて置いて行ったとか、霊能者でない普通の人でも、ごく日常にやっていることである。
これをはっきりと目的を持って、言葉によるメッセージを貰おうとすると、御神籤という形になる。あるいは、易を立る時にもこれに似た現象がある。
タロット占いもこの類だし、トランプ占いやダイスも同じカテゴリのものだが、内容の深さと的中率は易の比ではない。
御神籤は易のように64種類と決まってはおらず、いくらでも増減ができるし、内容も種々雑多なので、易のように深い読み解きする哲学は確率されていないが、それなりの文化はある。

さて、この御神籤を通して得られるメッセージには、二種類の要素がある。
一つは、その人の守護霊とか守護神など、自分とは別個のものから来るメッセージである。しかしこれは、正しいメッセージを与えてよこすのは、その人に近しい、守り神、氏神か、或いはエコ贔屓のない公明正大な神でなければならない。有名だから、御利益を謳っているからと、どこにでも行って良いわけではない。

ここで「神様はすべて、立派な神で、人ではないから、エコ贔屓なんかある筈がない。私が少しぐらい我がままを言っても、そんなこと気になさる筈がない。だって神様みたいというぐらいだから」と考える人もあろうが、どっこい、神様は非常にエコ贔屓の強いものなのだ。
「ニューヨーク同時多発テロ・2にも少し出てくるが、神とはしょせんは天人であるので、人間が少しばかり出世して功徳力を積み、天界に上っただけのことである。人間と同じく、地位や位を気にするし、無礼者にはすぐに立腹する。性格が激しくていつも自分が一番でなければ気が済まない神もあれば、何となくフニャフニャした頼りない神もある。
愚かな人間であっても愚かなりに導いてくれるのは、菩薩や仏が天界まで降りてきて、便宜上神の姿をしている、権現垂迹の神である。

であるから、神の本地(本来の姿、出自、属するところ)がはっきりしない場合は、いちおう先祖代々信仰している、自分と血縁の深い神でないと、正しいメッセージを貰えない恐れがある。
メッセージのもう一つの要素は、自分自身の内なる声、いわゆる潜在意識のなせる業、というとすこし平凡になってしまうが、どらえもんの章を参考にして貰いたい。

誰にでも、内なるもう一人の自分を創ることはできる。性格がまっすぐで素直で、自分に対して正しい客観的な判断ができる人ほど、強くて正しいもう一人の自分を創ることはできる。
しかし、普段は「こいつ、ひねくれ者〜」で通っている人でも、自分で気づかなくとも、どこかに別のキャラクター、弱い自分を叱咤激励してつまらない執着をスパッと切ってくれる別の人格を抱えているものである。

それが無意識に力を発揮して、あるおみくじを導き出す。行間を読み解き、正しい判断をさせてくれる。この、別の自分自身と通信するのも、ある意味、霊界通信である。
もう一人の隠された自分自身というのは、多くは神霊界でどこぞの位の高い神界に所属しているもので、自分の裏キャラと通信するということは、ある意味、別の世界とのつながりを見つけることに他ならないからである。



はずれみくじはあるか

それでは、なんでそのおみくじが出るかというと、これこそ超能力である。内なる声と不可思議神通の力で、その時その時の状況にマッチしたおみくじが、ちゃんとあなたの前に現れる。
それは迷う背中を一押ししてくれたり、心のどこかにしまっていた問題解決のカギを指し示してくれる。

それでは、正しくない、間違ったおみくじが出ることはあるかというと、もちろんある。
一つは、ちゃんと霊界に通じるパワーが発揮されなかったり、せっかく出てきてもそれをきちんと読めなかったりする場合である。
なぜ間違ったものが出るかというと、自分の都合やはからい、(こうなって貰わなければ困る)という都合が優先すると、あなたの背後に立つ守護神は、力を発揮することができない。
また、自己の内なる第二の自分も、正しい答えを知っていても、声を出さずに叫んでいるだけで、頑固なあなたの表キャラに押しのけられてしまう。

「あの人と結ばれますように。良いのが出ますように。パン、パン(拍手)」と願いながら引くおみくじは、正しいものは出ない。執着や自分の都合が優先して、白紙になりきれていないからである。早く言えば、心眼が曇っているのである。
こういう引き方をする人は、だいたい「悪縁なり。早く見切るがよし」などと書いてあると、「あ、ここは当たらないわ」と勝手に決め付けて凶のみくじをポイとゴミ箱に投げ捨て、帰りの挨拶もそこそこに、「今日は時間の無駄だった」などとほざいて帰ってゆくのではないかな?

正しい御神籤の引き方とは、神主や僧侶が神前、仏前にお伺いを建てるさまを思い浮かべると良い。
例えば、易者とか霊能者とか、神主、僧侶が、国家の大事について占おうとする時は、水垢離を取ったりして清浄潔斎して心と体を清め、無念無想でお伺いを立てる。

「今回の我国に対するテロ攻撃に対して、自衛隊はどう対処すべきでございましょうか……。ウーン、何が何でも戦争反対!だってウチの息子が自衛隊に入ってるし、あれはただ単に、大学行きながら給料が貰えるからやったのであって、息子を戦争にやってお国の犠牲に捧げますという意味ではなかったのです…ああ、こんなことなら持ち家売り払っても学費を捻出して私大にやればよかった…絶対に直接介入などという卦は出るんじゃないぞ!フニャラフニャラ…」
というようなお伺いの立てかたをしては、向こうさんも疲れる。メッセージを出そうとしても、占者の念が頑固に邪魔しているので、まずそいつを取り払わなければ、メッセージが通らない。困ったな、おとといおいで、ということになってしまう。

国家の大事を占うのに、こういう態度の人はあまりいないとは思うが、個人的なことだと、どの位の確率だろうか。かなり多いと思う。かくして、神力も本人の潜在能力も発揮されずに終わってしまうのである。

少し脱線になるが、世の中には魔物、化け物の類も多いので、念力の強さでたいがいのことは自分の思い通りにしてしまう人種というのが存在する。
例えばN野流呼吸法の創始者はよく、呼吸法がどんなに凄いかという話をする。
あるパーティーで、福引の商品に宝石や毛皮や商品券など、豪華な賞品が山と積まれたそうである。それで、「よし、いっちょ当ててやるぞー」と張り切った彼は、自分の関係者が引く時にパワーを送ったそうだ。
その結果、自分が一等、一番弟子が二等、二番弟子が三等、三番弟子が四等という具合に、主な景品はすべてそこの関係者で独占したので、周りの人は皆あっけに取られていた、という話を本人から聞いた。これが手品ではなかったとすると、この呼吸法創始者に鬼神がついているのだとしか思えない。

さる霊能者にこの人物を霊視させると、相当に力の強い天狗がついているとのことだったので、たぶん後者であろうと思う。この人物には他にもこの手の話が沢山あるので、呼吸法とは奇跡を呼ぶ方法だと思っている弟子があるかもしれない。
興味のある方で天狗の弟子になりたい方は、一見に値するかもしれないが、天狗は鬼神の一種なので、先行きどうなるかは責任持たない。

いちおう老婆心から言っておけば、タオがしばしば「命」「運」「風水」のバランスについて説くように、こういう無理をして景品を自分のものにしても、それは別の部分での福分をそこで使ってしまっている。だから結局は、自分で金を出して買っているのと同じことでしかない。いや、無理をして独占したぶん、かえってその何倍かの福分、功徳力を失ってしまう。
えてして、無理をして財産を作ると、晩年はさみしいものだ。自分は全うしても、子孫にその反動が出る。

少し話がそれたが、御神籤の正しいメッセージを受け取る能力というのは、その人がいかに白紙になれるか、言い換えれば邪気、穢れを取り払えるかという問題になってくる。
神社に直接行って貰ってくる御神籤であれば、向こうの力も強いので、否が応でもそれなりの結果が出るだろう。しかしネットでひくみくじなどは、それなりの受け取り方をしないと、なかなかその特性が生かされないことがある。

ネットのおみくじでも、フリーのCGIスクリプトに付属している単純なおみくじならば、作ったほうも使う方も、さほどの意味合いを求める人はいないだろう。
しかし、このサイトのおみくじは「法華みくじ」を元にこしらえた、完全オリジナルであり、時には作者の考えや修行の度合いによって気紛れに書き換えられることもある。
数も多く(原則96種類)引くほうもそれなりの期待と意味合いを求めて引く場合が多いと思うので、ここは一つ、毎日一度引きに来る人も、たまに覗きに来る人も、自分の修行、稽古の一つとして、気持ちを落ち着け、白紙になって引く練習をしてみては如何だろうか。案外これを繰り返していると、霊能力、それも妙なものに取り付かれない、正しい霊能力が身についてくるかもしれない。

結果については、ネットのものでも神社仏閣のものでも、ポン!とどれが出るかは、乱数計算の結果であったり、偶然のなせる業だったりだ。しかし例えどういうシステムだろうと、手段や経緯がどうであろうと、世の中の森羅万象すべて因縁果報。強弱高低深浅の別はあっても、偶然ということはない。
こちらに因る縁があってこそ結ぶ果があって報いを受ける。それをどう受け止めて新たにどういう因縁を作ってゆくかによって、また次に現れる果報が決まる。おみくじは時として、その道筋を如実に指し示していることがあるのである。



御札、御守はアンテナ

次に神社仏閣の祈祷札、御守の類である。
この働きをあらわす、もっとも分かりやすい説明に「音叉の法則」がある。
「音叉の法則」とは小学校で習ったと思うが、片方の音叉に振動を与えると、もう一方の音叉にその振動が伝わり、共鳴現象を起こすというものである。

この法則を、神社仏閣のお札に当てはめて考えてみる。
神社仏閣では、朝夕勤行礼拝してお経、祝詞を上げる。
この読経、祝詞言上などは神社仏閣に絶えざるパワーとエネルギーを与えるもので、神社仏閣の存在意義の最たるものである。
勘違いしている人が多いが、建物があって立派な本尊があっても、沢山の読経、祝詞言上を行ってじゅうぶんな供養がされていないと、そこは神社仏閣ではなく美術館、博物館でしかない。
別に美術館ではしたない真似をしても神仏の罰はあたらない。しかしきちんとした建物がなくて、ちょっとしたお札を祀っただけの小さなお堂であっても、いつも丁寧に管理され、行き届いた供養のなされている場所では、それなりに鄭重にしなければならない。
極端な話、祈祷というのはコップ一杯の水だけでもできるので、供養=特に読経の力というのは凄いものがある。

さて、このちゃんと祈祷や供養のなされている神社仏閣のお札=例えば観音寺というお寺の御札を、家の神棚に置いたとしよう。
あなたの家ではそうきちんと読経などの供養はしていないだろうが、そのお札を受けてきた本家本元の観音寺では、朝夕、修行を積んだ僧侶が集まって、盛大に供養がなされている。
そうすると、供養がなされるたんびに、あなたの家の御札は音叉の法則で共鳴現象を起こす。本家の観音寺で「如是我聞 一時佛住」と始まると、寺全体にグォーンとお経のパワーが漲ってくる。霊界ではその観音寺に関係した娑婆の場所が一斉に共鳴現象を起こすので、あなたの家の御札の周りは、一時的に観音寺エリアになる。

すると、オーラだか神霊パワーだかなんだか知らないが、今まで静まり返っていたあなたの家の中に、かすかではあっても共鳴現象が生ずる。
本家の観音寺では78フォン108ギガバイトのものが、あなたの家では1,2フォン34キロバイトぐらいかもしれない。しかし、微かではあっても、あなたの家はまさにミニ観音寺となり、観音寺と同じ働きを持つパワーが漲り始めるというわけだ。
御札、御守りとは、あなたの家と神社仏閣を結ぶアンテナと考えれば良い。アンテナだから、寺や神社が放送局で、あなたの家に受信機があるようなものである。

だから、本家の寺や神社(または個人の祈祷師でも良い)がなくて御札御守りの形だけを作ってもそれは意味がない。護符も同様である。神霊的なものが力を発揮する背後には、必ず本体がいるのである。本体のない御札、御守、御神籤、護符は只の繊維質とインクでできた紙、布製品でしかない。
しかし、だからといって素人が真似して作るのは、あまり良いこととはいえない。そういう形をしたものには間違って霊的な要素、主のいない鬼神などが取り付きやすいものだ。
神棚に祀る家庭用の小さな社などを、御札を入れないままで放っておいてはいけない、と言われる。これも同じ理由である。お札を入れない時には、粗塩を持って定期的に清掃して新しいものに取り替えたほうがよい。

ただし、この御札には有効期限がある。自宅でもきちんと供養する人はその効果が長持ちするが、あんまり真面目にやらない人の場合、あなたや家族が外から持ち込む邪気がくっついてしまって、すぐに他の物質と同じようになってしまう。
しかし御札は本来、他のものとは出所が違う。だから粗末にすると、中に仕込まれている神霊パワーに通じるものが離れたり、悪くすると怒ってしまう。だから、一定期限を経た御札はきちんとお返しして、新しいものを受けて来なければならない。
御守は小型の御札と考えると良い。御札とまったく同じ原理である。
この御札や御守りは、やはり売店で買ったものよりも、きちんと昇殿祈祷したもののほうがもちろん力が強い。



迷子にはならないよ

つまらない話だが、この前、身延山で祈祷を頼んできたバアさんが「申込書にウチの所番地を間違えて書いてきちまっただよ。祈祷が終わってから気がついたんだよ。もう間に合わねえ。大変だァ!」と慌てていた。

所番地を間違えて書いたぐらいで、まったく別の人間にご利益を渡してしまうようなそそっかしく無能な神なんて、雲切サイトでも就職断られそうなものである。

間違えて書かれた番地の奥方が、ほんとは浮気亭主との縁切り祈願を頼みたいところだったとして、このバアさんが頼んだのが息子夫婦の子宝成就だったら、浮気亭主のところに間違って子宝ができてしまうのだろうか?
そんな心配はまずないので、一般の人は住所や名前を間違われる心配をするよりも、自分の家でちゃんと供養をしているかの心配をする方が先決問題だろう。田舎のバアさんの感覚で神の能力を測られてしまったのでは、神も立場がないというものだが、まあ、あんまり怒りたもうな、である。



こぼれ話1・祝詞の誤解
★祝詞というのは、一般的には間違った使い方をされている場合が多いようだ。
祝詞(のりと)とは本来、神から人間への言葉である。人間から神へ伝える言葉は寿詞(よごと)という。これは、神社での神と人間の会話の原則である。
一見すべて人間が喋っているように見えるが、本来は神が巫女に乗り移って人間へのメッセージを伝えるものが祝詞であり、人間の方から神に尋ね事をしたり、お願いごとをしたり、ご機伺いをするのは「寿詞」「賀詞」(どちらもよごとと読む)である。
神社とはもともとそういう場所なのだ。神を崇め供養し、人間への言葉を伝える場所であるのが本来の姿なので、神主は自分の都合や能書きは言わない。ひたすら素直なロボット(失礼)になるのが本来の姿である。

反対に、寺は修行したり勉強したりする場所なので、僧侶はただ真っ直ぐなだけでは勤まらない。勉強して、法論を戦わせたり、修行の一環として人を救ったりしなければならない。
その為に、どうしてもさまざまなものが寺に持ち込まれることが多くなり、中には不浄のものも入ってくる。神は仏ほど了見が広くはないので、「汚いものは嫌い」というわけで、寺のお札、御守りの類は神社では原則として処分してはくれない。中には寺から神社に変わってしまった神社もあるので、そういう場所では比較的ゆるやかなようだが。


こぼれ話2・護符や御守の注意
よくネット上でさまざまな護符を紹介しているサイトがある。中には呪いをかけるソラ恐ろしいものもあるようだが、まさかこのサイトで呪いの護符の作り方を教えてくれ、などという不心得者が出るとは思えないので、案外気がつきにくい注意を述べておく。

よく、海外旅行に行って、現地のインディアン(例えば)の御守がとてもよく効くと評判なので買ってきた、などという場合がある。
これは厳禁である。先に述べたように御札、御守り、護符の類は宗教的なグッズである。他宗教、他民族の宗教的な意味合いを持つ品を手に入れるということは、大変な危険を伴う。
あなたが気がつかなくても、向こうは他民族を敵視しているかもしれない。少し前に、秘境ツアーの観光客が、現地の人間に殺された事件があったが、あれと全く同じ危険を平気で冒している者が非常に多い。「HANAKO」に紹介されれば、何でもロマンチックでミステリアスな良いものになってしまうのか?事実はトンでもない世間知らずの独りよがりである。
はっきりと敵意むきだしの異民族であるか、それとも巧妙に相手の懐に入り込んで、内側から相手を切り崩そうというオトリ捜査のような手段を取るタイプかは知らない。しかし、他民族の宗教グッズを手に入れるということは、まさに自殺行為にも等しいとさえいえるのだ。
こういうものを手元に持っている者は、早急にぽあしてしまうに限る。神社仏閣に持っていっては、迷惑である。ただでさえ、業の深い人間の始末に困っているというのに……。
仕方がないから、粗塩でも漬けて、ゴミとして捨ててしまうしかないだろう。ただし、これが正しい処置かどうかは全く知らない。結果について責任は持てないが、元々は自身の不心得から起きたことなので、他人のせいにしてはいけない。

一般的に東洋人が西洋型の御守、護符の類に触れることは、避けるのが常識……に、違いないのだが、常識と思っていない、欲に釣られて何でも欲しがるアンポンタンは、日本の八百万の神々の守護を離れて、快く思ってくれるかどうか分からない他人の家に、ズカズカ上がりこむという無謀な行為をしていると思った方が良い。「向こうが知らなければ関係ないじゃないか」と思うかもしれないが、関係はある。音叉の法則で、異民族であるあなたが宗教グッズを持つということは向こうにも影響が及ぶ。
こうなると、異民族、他宗教と争わない日常の付き合い方までコーランの中でこと細かく定義しているイスラム教の方がよほどしっかりしている。国際的になるには、相手と自分をよく知り、相手の領分を侵してはならないのである。
「ローマの教会はノースリーブでは入れてくれないよ」という知識があるなら、単純な観光でそういう場所には行かないのが賢明な行動と思うが如何?
和風ムードを楽しむのが正月三ヶ日だけであっても一向に構わないが、宗教性や宗教グッズに対してこういう認識の甘さを正さずに方位の良し悪しばかり気にしていても仕方がないというものである。藤原N香などは、ファンクラブの会員証として十字架を首にかけさせるが、彼女がファンで著書を持って会いに行った新宿のT氏などは、カンカンになって怒っているゾ。

だいたい、何が縁起の良い数かも東洋と西洋では異なる。
13という数などは東洋では縁起の良い数の最たるものの一つだが、西洋では13日の金曜日というのがある。13はマリー・アントワネットの処刑された断頭台の階段の数が13段で、金曜日というのは西洋では土曜日が安息日、日曜が礼拝日で、金曜日は悪魔が闊歩する日だということになっているので、縁起が悪いことになっているだけである。日本において金曜日に悪魔が闊歩するのはキリスト教会周辺だけであるので、寺や神社では金曜日は何の異変もない。小学生並の縁起かつぎをする者に限って、肝心なことは気にしていない場合が多いので、易経(岩波文庫)の勉強でもしてくれぐれも正邪軽重を取り違えないようにされたし。


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