「タオの不思議世界」


阿修羅界の仏


明治時代の博徒に武部申策という大親分がある。この人は政治家などとも親交が深く、特に観音信仰の篤さでよく知られ、自らも数々の不思議な体験をしたという。そのこぼれ話の一つを取り上げてみよう。
これは武部師がある場所で説法をされた時の聞き書きである。


私が信仰に入りました動機、また、私の存じ上げております範囲で、信仰のある人とない人はどんなに相違があるかを述べたいと思います。もう一つは、霊魂は不滅なりとはよく耳にするところではありますが、それは本当なのか、または全く逆に、霊魂などというものは人間が死んでしまったらぜんぜん存在しないものであろうか。
私は確かに霊魂は不滅なりと申し上げることができます。これらのことについて、少しお話申し上げたいと思います。

昭和7年9月のこと、滝野川の酒屋に強盗が入り、人を殺傷した。姓は伏せておくが、この時の主犯は名を藤吉と言い、もう一人共犯がいた。二人は直ちに捕えられて、死刑の判決を受けた。
この藤吉がなぜ私を知っていたのか分からないが、ある日獄中から、私の力にすがりたいと言って手紙をよこした。私がその頼みの通りに十円の金を送ってやると、その金で藤吉は数珠や帷子など、死出の旅路に必要なものを一通り買い揃えたそうで、費用八円五十践なりの明細書を私に送ってきた。
私はその律儀な心がけを感心に思い、獄舎を訪問することにしたのである。

いざ獄舎を訪ねてみると、藤吉はなりは小さいが身体はなかなか頑丈な男だった。顔つきはどこかに、なかなかのふてぶてしいところがある。
私は藤吉を前にして、静かに説いてきかせた。
「懺悔をすれば仏はお前を助けて下さる。これは仏の慈悲である。これから死刑執行の日まで、一心に仏を信仰しなければならないのだぞ」
するとそれ以来、藤吉は全く生まれ変わったようになった。私はその後、再び彼を尋ねて獄舎を訪れた。
「お前は手紙によると、先生のことは決して忘れぬというが、本当にその了見があるのか?」
「はい、本当です」
「お前はあの世で草葉の蔭から祈っていると言うことだそうだな。しかし、草葉の蔭というのは本当にあると思うか?」
「あるかどうかは知りませんが、世間の人が草葉の蔭と言うので、私もついそう言ってしまったのです。しかし、今の私は本当に草葉の蔭で祈るような心持でいます」
「おおよく言った。草葉の蔭ということは、本当にあるのだぞ」と言って、私は次のような話をして聞かせた。



私が自民党の総理、板垣伯のお世話になっていた時、そこに出入りする者の中に、左官の安という男があった。この安が私に話してくれたことがある。

安が牢屋に入っていた時に可愛がっていた男の中に、巾着切りの三次という者がいた。安は牢名主で、三次はその下についており、まあ、特に心をかけてやっていたものである。
三次は死刑囚として牢に入っており、何か考えることがあったのか、いよいよ明日は死刑になるという前の日に、安に向かって三次が言ったのだ。

「私はこの牢の中で、たいへんあなたにお世話になりました。あなたは痔で苦しんでおられる。私がその痔を背負って参ります。どうか餅を私の尻にくっつけて下さい。そして、此処の水盤に水を入れて置いて下さい。もしこの水がこぼれたら、私の念願が通ったものと思って下さい」

三次はその翌日、9時に牢獄から引き出されて行って、死刑になった。その夜のことである。格別に寒い夜ではなかったが、安はぞーっとして何ともいえぬ胴震いを覚えたその時、ピチャンと水盤の水がこぼれた。
三次の言葉どおり、水はこぼれたのである。不思議なことにその時以来、さしもの悪質だった安の痔が、けろりと治ってしまった。
これは、左官の安から私が直接聞いた話である。



「このように、人間の霊魂は不滅である。しようとする念願があれば、どんなことでも出来るのだ。お前ももし本当に草葉の蔭から私の為に祈る心があるのならば、世の中の悩み苦しみある者を助けてやれ。もしこれが出来るならば、お前を下野国、出流山の前に地蔵を立てて、末永く地蔵菩薩として祀ってやるぞ。」

藤吉はただ一心に黙って耳を傾けている。
「どうだ、悪人であるお前を藤吉地蔵として祀ってやる代わりには、それができるか?」
「出来ます」藤吉は力強く言い切った。

昭和八年三月十八日のこと、市谷刑務所から私宛に電報が来た。
「トウキチシンダスグコイ」

死刑立会人の話によると、藤吉の死はあまりにも立派な死に様だった。午前九時に監房から引き出すと、
「どうぞしばらく待って下さい」と言う。
何をするのかと見ていると、ちゃんと帷子に着替え、静座して観音経を一度高らかに読誦し、それから右の手に数珠、左の手に観音経を持って静々と、何の不安、何の未練もなく、断頭台に上って行った。その死に着くさまは家に帰するがごとき様子で、悠々として不安も畏れもないその悟りきった姿を見た時、人々は何と言ったか。
「ああ、あれが極悪の人殺しまでした大罪人であろうか!」
彼は死の直前、人々に向かって言った。
「私のような者でも、信仰によってきよらかな者となることができました。どうか、悪い人々を善い方向に導いて下さい」
彼の心からなる懺悔、真心の叫びはどんなにか人々を感動させたことでしょう。と、そのように死刑立会人は話してくれた。

藤吉は私に一通の遺言を残して行った。

「吾が心、今より後は、出流山の
地蔵となりて、人を導く

武部申策先生      ○○藤吉」


藤吉は六分十四秒かかって死んだ。何ら信仰のなかった共犯の男は十二分余りかかり、しかも見るも無残な死に方をしたとのことである。
このように、無慚極悪の、その上何の教育もない者が、悠々として何の不安も未練もなく清らかな死に方をしたのは何故であろうか。真の信仰に入っていたからに他ならない。

藤吉はその夜、確かに私のところにやって来た。私が観音経を読誦していると、夜半の二時ごろ、バタバタバタと何かの足音がした。と思ったその時、私の右手の方に来てお辞儀した者がある。
「おお、藤吉来たのか」
と声をかけると、もはやその姿は見えなかった。今でも私は、たしかに藤吉が来たと信じて疑わないものである。

藤吉は今では、藤吉地蔵となって出流山に祀られており、善男善女の心からなる御供養を受け、未だに香華の絶えぬのは何故であろうか。極悪非道の大悪人も、一度信仰に入ればかくの如くなることができるのである。


筆者註

この武部申策という人だが、博徒というのは現代風のヤクザという言葉から推測されるような、タダのガラの悪い人種を指すのでなく、博徒、侠客、渡世人というように、賭けごとをなりわいとする、独立した職業である。合法だろうが非合法だろうが、その世界なりのきちんとしたルールがあり、その中での生き様も百人百様なのは一般社会と同じことである。

仏教的に言えば、博徒は修羅道に属するのだが、ここで少し、タオ流・仏教用語の解説とゆく。修羅というのは、上は仏、菩薩、神から下は地獄・餓鬼・畜生という十の段階の中で、下から4番目である。
上から順に「仏・菩薩・声聞・縁覚・神・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」となっているので、人間よりも下の位である。

どういう存在かというと、阿修羅とはもともと神だが、帝釈天などの天上の神々に戦いを挑み、悪神として調伏されて仏法の守護神となったものである。闘争を好み、地下や海底に棲み、無酒神とも言う。喧嘩が強くてめっぽう酒に弱いのである。また信仰心も篤いのである。
どっかにそういう人はいないだろうか?見た目が怖くて泣く子も黙るという形相なのに酒がからっきしダメで、連れのキャバクラ嬢がへべれけになってるのに自分はお茶と饅頭をつまんでいるとか…。面白いことに、けっこう多いですよ。

この十の位というのは、仏、菩薩以外はけっこう上がったり下がったりしやすいので、人間から修羅になる人もある。なぜ修羅になるかというと、その原因は、経典にはこう説かれている。すなわち、博打で稼いだ金で布施をすると、修羅になるというのである。

少し話は難しくなるが、日蓮宗で不受布施という考え方がある。法華の信者以外の、他宗の信者からは布施を受けないという考え方だが、早く言えば本物の信心を持った人からの浄財でなければ受けない、不浄の金は本物の布施にはならない、という考えが根本にある。極端に言えば、同じ金でも、泥棒をした金と汗水たらして稼いだ金は値打ちも出る結果も違うという考え方である。

この伝で行くと、公営博打で神社仏閣に巨額の布施をしたことで有名な、日本船舶振興会の故・笹川良一会長は、いまや海底でさぞ立派な阿修羅の親分になっておられることと思う。やってたことが競艇で右翼のドンだからまさにドンピシャリ。御酒を召されたか召されなかったかは存じ上げないが。

なぜ阿修羅の解説をしたかというと、別に人間より下だとか、闘争的で悪いヤツだとか言ってる訳ではない。
仏教には十界互具(じっかいごぐ)という考えが根底にあり、修羅世界の中でも阿修羅界の仏さま、阿修羅界の菩薩さま、阿修羅界の人間、阿修羅界の餓鬼道など、いろんな段階がある。

地獄や他の世界でも、それぞれ十の世界がその中に備わっているのである。地獄界なども面白い。閻魔大王というといかにも怖い地獄の鬼のように思えるが、じっさいは地獄界を統括管理する、地獄界の仏さまなのである。
地獄ふうの怖い顔をしている時は閻魔大王で、地獄の仏さまの顔になる時は、お地蔵さまの姿となる。どこにでも仏も鬼も魔もいるので、どれが偉いということはないのである。

このように、観音三十三変化、さまざまな姿とさまざまな人種、生き物が存在する理由は、その世界に入らなければその世界の者は教化できないからである。
物理学専攻の大学教授に、あぶれ者でヤクザな道に踏み込んだ人間は救えない。ヤクザはヤクザの親分の言うことでないときかない。一般社会の決まりは通用しないが、ヤクザはヤクザ社会の決まりは守る筈だ。
そこで、博徒、侠客の世界にも人間性の立派な、突出した親分が輩出する。しかもこの世界の人たちは信仰心が篤い。礼儀作法、序列の大切な世界だから、この親分達が子分の面倒を見ていろいろ教える。信仰の大切さも教え込む。何の世界でも、トップはたいしたものだ。なにしろその世界での仏さまなのだから。

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