海外渡航が容易になった昨今、猫も杓子も海外旅行や留学をします。しかしその大半は、良く言って人生経験、悪く言えば物見遊山です。
戦前(第二次大戦)以前の留学は、情報も少なく、渡航の条件も整っておらず、そのリスクは決して軽いものではありませんでした。
それだけに、当人が背負って立つものも大きく、外国から何かを学び取って故国に還元するという気負いにも、並々ならぬものがありました。ここに、海外留学の先駆者の一人を紹介しましょう。
柴田一能(しばたいちのう)上人(幼名松蔵)は、明治6年(1873)11月10日、京都府丹後宮津(たんごみやづ)生まれ。13歳の時に日蓮宗の堀日温師の弟子となった。
後に、福沢諭吉の元で倫理学・社会学を学び、さらに研究を進めるため、アメリカのコネチカット州にある、名門エール大学へ留学。日蓮宗の海外留学第一号である。
エール大学でマスターの称号を得て帰国し、慶応大学の教授となり、日蓮宗宗務総監を務めた方である。
その仏門に入られた動機というのは、まさに法華経の起死回生、蘇生の因縁によるものだった。
柴田上人、10歳の時のことである。
京都の宮津は日本海に面し、名勝「天の橋立」を有する観光都市である。
天の橋立の海で泳いでいた柴田松蔵は、波にさらわれたところを海藻に足を絡まれ、溺れてしまった。
二時間後に漁師の手によって引き上げられたが、駆けつけた医者にも手の施しようがなく、何とか一命はとりとめたものの、意識不明の重態となってしまった。
知らせを聞いた松蔵の母が最初に駆けつけて、死の淵に入った松蔵を抱き上げた時、母の袂からパラリと数珠が落ちた。
母は「そうだ、この上はお祖師さま(日蓮上人)にお願いするしかないのだ」と、藁にもすがる思いで菩提寺・経王寺に詣で、必死で題目を唱え続けた。
そこで祈ったことは、こうだった。
「お祖師(そし)さま、どうかわが子松蔵をお助けください。
もし、生命をいただけるのなら、この子を法華経のおん為に差し上げます。」
その場に居合わせた人の中にも同じ信徒の方があり、一緒にお題目を唱え続けた。そして、3日後に松蔵は意識を回復したのである。
母は約束どおり、小学校を出るとすぐ、松蔵を出家させた。師匠には経王寺住職・堀日温(ほりにちおん)師がなり、得度(とくど)して名を一能と改めたのである。
長じた柴田師は、留学の後は時代の流れにより日露戦争従軍。復員後、日蓮宗大檀林の改組の業務を行い、日蓮宗大学林で倫理学・英語を担当し、母校の慶應義塾大学文学部で心理学・倫理学を講義するなどの活動を続けた。
しかし、柴田師はアメリカ留学で大きな夢を得た。それは日蓮宗病院の開設である。
キリスト教は、明治初期から布教戦略の一環として病院の建設、医療事業に非常に熱心だった。そこに目をつけたのである。
柴田師はアメリカで、その原型と手法を目の当たりにしていたのだった。
神仏分離によって仏教にまとわりついてしまった暗い死のイメージを払拭して、仏教によって生きた人を救うという目的、また病院運営は難しいとの常識に、あえて挑んだのだった。
兄弟弟子の山田一英師(後の山田日真日蓮宗管長)とともに、病院開設を企画し、昭和7年10月、宗祖650遠忌(おんき)記念事業として、東京南千住に立正診療院を開き、年末には弱者救済無料診療を行った。
診療に当たった医師の中には、後の日本医師会会長武見太郎氏、そして柴田師の長子・実(みのる)氏があった。柴田師は長男を慶應義塾大学医学部に入れ、卒業後、立正診療院に奉職させたのである。
法華経によって賜った命を、社会に還元する長い道標を差し示して、我が子供に託したのだった。
文責:タオ<コピー・無断引用禁止>
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