このコーナーはめったに更新しないのに、根強いファンが多い。そこで今回はお馴染みさんに、一つ役立ちそうなネタを提供しよう。
人間にはさまざまな悩みがある。
その種類はさまざまだが、宗教で俗に「貧病争」というように、人間の悩みの種はだいたいこの三つに大別される。
自分が三つのうち、どれに当てはまるか。だいたい、一つか二つは誰でも覚えがあるだろうし、今現在、三つ全部という悲惨な方も、ひょっとしていらっしゃるかも知れない。
もっと細かく見れば、四苦八苦にきちんと分類されるのだが、悩みの内容じたいはいろいろあるので、今回は特に触れない。その悩みから逃れようとしてさまざまな手段を探す。
だが、果たしてどれだけ、あなたの悩みが解決するだろうか?
貧の悩みであれば、サラ金に行ってはますます悩みを大きくして、自転車操業に追い込まれる。病を直してもらおうと病院に行っては、治療過誤の犠牲になってしまう。
最近、タオの身近な例でも、50代の税理士が、どうも調子が思わしくないので病院で精密検査をして貰ったが、検査の疲れでもっと具合が悪くなって入院となり、そのまま逝ってしまった。治療過誤とは違うかも知れないが、奥さんが経過を話す時にいかにも無念そうだったのが、印象に残った。
「争」は一番始末が悪い。特に男女の問題というのは努力ではどうしようもない部分があるので、最後の手段で占い師のところに行くことも多いだろう。そこで占星術や四柱推命の出番となり、「とても運命的に相性が悪いので、あなたがたは分かれます」と言われて、何とかならないのかとジタバタしても、こればっかりはどうにもならない。
一般人と違う、眼に見えない力を持っている人達の間でも、別れさせるのは比較的簡単だが、くっつけるのは非常に難しい。なぜかというと、もともと人間は別れるようにできているので、生別、死別どんな形であっても、最終的には人間は一人になってしまう。
一緒に手に手を取って生まれて来ることはあり得ないし、同じ時期、同じ場所で死んだとしても、死そのものは個々のものである。
双子や五つ子ちゃんがいくら一緒に生まれて来たとしても、その人の人生は、やはり個々のものである。
戦乱や事故で同時に亡くなった場合など、似たような因縁の巡り合わせでそういうことになったのだとしても、息を引き取る瞬間には、やはり死そのものは個々のものである。
本来、一人ぼっちな故に、人間は群れたがるのか、伴侶を欲しがるのか知らないが、結婚生活を送っている人のうち何割が、最後まで満足できる結婚生活を全うしたと断言できるだろう。
これらの悩みを解決するのに、皆どういうことをしているのだろうか。
出口のない悩みを自分の内に閉じ込めて、どんどん大きくして、終いには収集のつかなくなる人。誰かに「苦しい、苦しい」と声を大にして訴えて、知らぬ間に解消している人。投げ出してしまって、全く見ないようにする人。占いや拝みに走ったりとさまざまなタイプがあるだろうが、「自分が悩む」という問題に限って見てみると、案外、自分で悩みの種を作り出していることが多い。
「分かって貰えないのが悔しい」「あんな思いをした自分の気持ちのやり場がない」というのは、自分自身の問題だろう。愛情問題の悩み、将来に対する不安、自分自身の希望が適わない悩みなども、すべて自分自身の問題である。
この解決方法としては、簡単に言うと発想の転換をしていただくことだが、詳しく言うと、二通りの方法がある。
相変わらず話は飛ぶが「ゴースト=ニューヨークの幻」というデミ・ムーアの出世作がある。このロケの舞台になった建物に、現在でも奇怪な現象が続いているというのを小耳にはさんだが、日本でも「四谷怪談」の撮影をする時には、必ず四谷の「お岩○○」というお寺に参拝しないと、撮影関係者の間に悲惨な事故が起こるそうだ。
ことほど然様に、人間の世界は「念」が支配している。スポーツ選手のイメージトレーニングもそれを応用したものだし、種を撒く時から「可愛いね、きれいだね」と朝晩言い聞かせて育てた花は、ひときわ大きく美しく育つことが、ロシアの実験で証明されている。
こういう力を、言葉で説明したり分類したりする方法はいろいろあるが、これは一種の神通力でもある。
あなたが悩みから逃れたい時には、この原理を利用するのである。
「気の持ち方」と片付けてしまえば簡単だが、具体的手法としては二通りある。
一つは、さきほどの「ゴースト=ニューヨークの幻」を思い出して欲しい。このシチュエーションは他の映画やドラマでもよく出て来るが、こういう具合に完全ビジュアル化できるのは、SFXのお陰だろう。死んだ瞬間に魂が抜け出して、死んだ自分を自分自身が眺めている。魂という言い方には語弊があるかもしれない。この第二の自分は、それからのストーリー展開を変えてゆくのだから。
死んだ自分から抜け出した時、どんな死に方をしていても、もう一人の自分は痛くも痒くもない。死んだ時のショックは残っているかもしれないが、まるで他人ごとを見るように、自分から抜け出したもう一人の自分が、自分を見ている。
これを応用するのである。悩みを抱え、悩みを育てて大きくし、ああでもないこうでもない、と悩みの衣を身にまとってジタバタしている自分を、もう一人の自分から客観視して見るのである。そうすれば、悩みじたいが、馬鹿らしいものに思えてくる場合もあるし、「ああ、もうちょっとの辛抱なんだから、そんなに焦らなくても」と思えることもあり、全く違う角度から、新しい発見をするかもしれない。
これは「気の持ち方」という類いのものではなく、本来「分身の術」であるから、けっこう真面目にやらなければならない。伊賀の影丸か中国の仙人にでもなった積もりで、マジでやってみると、立派な術であり、オカルトの分野では「幽体離脱」とも言う。もう一人の自分を別の場所に作り出し、元の自分を違う角度から眺めて見る。そうすると、影になっていてそれまで見えなかった部分が見える。
この方法は、じつはあんまり、やたらに教えてはならないことになっている。なぜなら、「幽体離脱」をしている間に、何かの弾みで、元の自分に戻れなくなることがある。カラっぽになった元の本体に、何か別の魔物が住みついてしまうことがある。ノイローゼ患者が座禅を組んでいて、本物の精神病を誘発することがままあるが、これなどはこのケースに該当する。
であるから、常日ごろ、しっかりと修行を積んで、魔物に負けないようにしなければならない。それには、読経、写経が一番である。もし魔物が寄って来た場合、「キャッ、どうしよう!助けてえ〜、オロオロ……」ではいけない。
魑魅魍魎鬼というのは、弱い者につけ入るのが得意であるから、「なんだ、カッテなことするな!お前、そんなことしたら、タダじゃ置かないぞ。今からちょっと、ブルース・リーにカンフー習いに行って来るわ」(ちょっと遅いかも)ぐらいの気持ちでいなければ、対抗できない。動物と一緒と思えば何のことはない。肝っ玉の座った強い相手には、尻尾を巻いて逃げて行ってしまうだろう。
この術の達人になると、本体から抜け出して、自由自在に別の場所を闊歩して、ややもすると、美女の入浴シーンを盗撮したりという不逞の輩も出てくるだろうが、それは私、雲切童子が全部知っているので、不心得者にはそれ相応の報いが待っている。
なんだか、漫画なのかオカルトなのか分からなくなってしまったが、少し大袈裟にせよ、これは真実である。だが、オカルトチックな趣味はできるだけ控えて、ここではあくまでも、自分の姿を改めて認識し直す為の方法として、理解しておいて欲しい。
もう一つは、時間の観念というものを、ちょっとばかり考え直してやることである。
まず、我々の生活というものは、時間によって成り立ち、時間に縛られている。
これをちょっとばかり考え直してみる。
あれこれと心配するのは「ああなったらどうしよう、こうできなかったらどうなるんだろう」と考えるからにほかならない。これを全く逆転してみるのである。
すなわち、一般的には、現在から将来のことを考える。または現在から過去の事に溯って思いをはせる。これを違う時点から見てみるのである。
あなたが、もし先のことが心配だったら、その、将来の時点に自分を置いて、ものごとを見て見よう。将来の時点から今の自分を見れば、「何の心配もないのに、ただの取り越し苦労だった」「あの時点では、あれをやっておくべきだった」ということが分かる。
どうせ駄目なものだったら、いっそのこと諦めてしまうのも案外特効薬になるかも知れない。これも先の分身の術と同じく、自分を客観視する訓練が必要だが、この二つの方法を兼ね合わせて行ってみると、意外な結果が導き出される。何で悩む必要があるのか、と思えるほどである。
じつはこれらの方法というのは、筆者の単なる思いつきでなく、仏教経典の根本原理なのである。また、立派な仙人の術であり、忍術である。時間というのは、言い換えれば「寿命」のことである。時間の観念の呪縛から離れられれば、寿命は自由自在である。
実際の肉体年齢だってだんだん関係なくなってくるが、あまりそういう言い方をすると、どこかのカルト教団でミイラにされてしまいそうなので、少し言い方を変えよう。
例えば、一人の人がたとえ20年しか肉体年齢がなかったとしても、その人の書いた一編の物語、一曲の調べが、永遠の命を持つことがある。
それじゃあ、本人にとっては不幸な一生で意味ないじゃないか、という意見もありそうだが、その人の肉体生命が一回終わったら後は何にもなし、としか思えない人は、完全犯罪の実現可能な祐気取りでも励んで、大犯罪の成功に賭けられるがよろしかろう。
よく、「ジャズ歌手は不幸だと名歌手として名が残って祭り上げられるが、生前、順調に行って幸福だと、全然ほめられない」なんて言う。ビリー・ホリディなんて悲惨なものだ。それじゃ、ビリー・ホリディの一生は何の意味もなかったのか、という考え方をすると、いささか寂しくなってしまう。
そういう、時間の流れを自分の中で操作することができるようになると、年を取らない。人間はある意味では誤解の中に生きているので、この誤解が払拭できればたちどころに成仏して生き仏になって、A・SHOKOやO・RYUHOにもなれてしまう。(キミキミ、逆説的表現ですよ)
ビリー・ホリディ=女性ジャズボーカリスト。自由にメロディ−を変化させる独特の歌唱法で、今日のジャズボーカルの始祖となった。悲惨な家庭に生まれ、10代半ばから売春と麻薬で投獄を繰り返したが、歌手としてはベニー・グッドマン楽団、カウント・ベイシー楽団にも参加するほどの歌唱力で人々を魅了した。42歳の時、体調の急変で病院に行ったが、黒人という理由で治療を受けられず、病院の廊下に放置されたまま死を迎えた。彼女の代表作の一つとなった「奇妙な果実」は、リンチで縛り首になって木にぶらさがっている黒人の死体が、まるで奇妙な果実のようだ、という歌で、五木寛之の初期の作品のタイトルにもなっている。どうしようもないほど落ち込んでいる時に聞いてごらん、きっと何か感じるものがあると思う。 |
ついでにいうと、時間の誤解によって生きている人間世界では、それだけに時間は最も大切なものだ。
生活の為に時間を使って働き、稼いだお金で物を買ったり、食べたり飲んだり、楽しんだりする。生活、寿命、金銭、物は、誤解の上に立っている人間にとっては、同じような物だ。
ウソをつく人がいる。ウソをつくのは自分の利益を守る為である、自分だけ多く利益を得ようとすると、だんだんウソをついて人から物を盗むようになる、物を盗むのは寿命の一部を費やして得たものを盗むことで、寿命を盗むことと同じである、寿命を全部盗むと殺人者となる。
ウソは泥棒の始まりというが、それどころか、ウソと人殺しは真っすぐにつながっている。仏教語では泥棒のことを「劫盗」(こうとう)と言う。「強盗」ではない。「劫」というのは、時間の単位のことである。物や金を盗むことと時間を盗むことは、個人差こそあれ、本来全く同じことなのだ。だから、ものを盗んではいけない、時間を盗んではいけない。ウソをついてはいけないのだ。
しかし反対の立場に立つと、時間や物を盗まれても、ダメージを受けないようになって欲しい。盗まれてダメージを受けるというのは、同じレベルであるから、ちょっと寂しい。だが少なくとも、盗む側よりは罪を作らなかっただけ、安心である。盗っ人や人を傷つけた者には、天地自然の原理で当然それなりの報いはある筈だから、いちいちずっとそれにかかずらっている必要はない。
時間と空間の認識を変え、発想を変えてみることこそが、神通力の始まり、悟りの第一歩である。
ネット世代は「どらえもん」で育った人が多いと思う。何か困った時、あのポケットがあったらどんなに良いか、と憧れてしまうことも多いだろう。神通力、運というのは念の世界である。ドラえもんのポケットも、じつは念の世界である。
発想の転換をすれば、自在にどこでも行ける「どこでもドア」が入っている、どらえもんのポケットが手に入るのである。
じつはこれは二つとも、きちんとした禅の修行法である。禅というのは、正しくは「禅定」(ぜんじょう)といい、禅定力を身につけることによって、悟りを得ようというのが目的である。悟りというのは、ある意味では発想の転換ができるようになることであり、神通力というのは、時間の観念を操作することで手に入る。この二つができるように、いろんな禅の修行がある。伊賀忍者、甲賀忍者がドロンをする前に、両手の指を組んでは印を結ぶ。あれは、仏教で言う「印相」(いんぞう)を作り、精神統一に入るための一種のサインであって、禅定ノウハウの一つである。印相にはまだまだ意味があるのだが、これ以上は「越法」(おっぽう)と言って、その段階に達しない者に余計な知識を与え過ぎることは立派な罪になるのである。
ここで誤解しないで欲しいのは、座禅と禅の区別である。座禅というのは、単に座ってする禅の修行の一つの形態でしかない。座禅イコール禅定力ではない。筆者などは、単に座っているのはかえって精神統一しにくいと思う。座禅が流行るのは単なる仏教ファッションではないだろうか。
前出の教祖連中などは、シャカが悟りを開いたというインドの聖地(?)に行って、菩提樹の樹の下で座禅を組み「うんっ、ここで前世も座禅を組んで修行したものだ。記憶が蘇って来たぞ!」などとやっているが、そこはただの観光名所に過ぎず、実際の場所とは全く見当外れなので、現地の人は「また、気違いジャパニーズが来た」と言って、腹を抱えて笑っているそうだ。あまり、このような独りよがりの誤解に陥っては困る。
日常生活レベルで言うと、じつは、何かに打ち込んでいる時の方が、遥かに禅定になっていることが多い。
禅定というのは、分かりやすくいえば、「我を忘れる」ことなので、いくら座禅を組んでいても「足が痛えなあ、あと何分で終わるかな。終わったら、早く仲間と一杯やりに行こう。この辺、いい飲み屋あったかな」などと考えているのでは、ほとんど全面的に「我」に捕らわれているので、それ位ならいっそのこと、早く飲みに行っちまったほうがサッパリする。
一般人が一番簡単に我を忘れられる状況は、恋愛である。だから、一番精神修養になるのも、恋愛である。次に良いのは好きな趣味、稽古ごとなどに没頭したり、高尚な芸術などに触れることである。
ただ、恋愛は「さあしろ」と言ってもできないだろうし、最近はどうも、恋愛でも決められた枠の中でしかできない体質の人も存在するようなので、無理には勧めない。
如何なる手段にしろ、自分の肉体も感情もどこかへ置き去りにしている状態が一番禅定に近いので、趣味の多い人、深く突き詰めて熱中する習慣のある人というのは、自然と禅定力を身につけている場合が多い。禅を組んで禅の修行をしている積もりになるよりは、誤解や慢心がないぶん、マシかもしれない。
ただし、何かの本を読んだり、音楽を聞いたりするのは、今度はその対象に没頭しているので、悪いものに没頭すれば、人格もそれなりになってしまうのが怖いところである。またエッチングに没頭するのも悪くはないが、これは相手と気が交流するので、良くも悪くも相手の影響を受ける。
それ故に、一番間違いないのは、読経や写経をするということになる。或いは、体を使うのも、我を忘れて没頭しやすい。だから、優れたスポーツ選手とか職人には、意外なぐらい、ある種の悟りの力を得た人が多い。
ただ、ひたすら黙然とその行為に集中することが、心身を清浄にし、一種の悟りを生む。ただしあまり、何かの目的を持って、例えば賞金や相手に勝とうとか、一番になろうという目的に捕らわれてしまっては、禅定にならない。ゲームで勝とうという目的なしに、そのものに没頭することが必要である。執着と欲望のあるところには、悟りは生まれない。
禅、と言うより、仏教全体を統括する立場としての天台宗の代表的聖典として、「天台小止観」(てんだいしょうしかん)「摩訶止観」(まかしかん)がある。「止観」というのは、悪い行いを止め、良い行いを増やすという意味である。自分のこだわりや執着から離れることが悪い行いを止めることに該当し、芸術や趣味、経典などの良い知識に親しむことが、良い行いを増やすことと解釈すればよいと思う。何だそれだけのこと、と言ってしまえばそれまでだが、「小人閑居して不善をなす」であるから、一般の人は放っておくと、あまりロクなことを考えない。
「悩むな、忘れろ、有用なことを考えろ」というのはこういうことであり、これが神通力の源である。徹底的にものの見方を変えるというのは、単に自分の悩みから離れるだけではなく、ドロンパッの伊賀忍者や深山幽谷の仙人になることなのである。
悩んでいる自分を客観的に眺めることができれば、それは既に神通力、分身の術、テレポテーションであり、結果が出た時点に立って見ることができれば、それはどらえもんの「どこでもドア」を手に入れたに等しい。立派な神通力である。
人生に於いて出る結果は、大幅に異なるのである。さっそく試してみようというあなた、うっかりどこかの教祖を気取ったりしないように。変なものに乗り移られますぞ、ほんとに。
タオの風水学教室TOP|サイトマップ | 関連項目:タオの風水巷談 | ||
現在このサイト内にいる人は | 人です♪ | ||
Copyright (C) TAO AllRightsReserved. http://www.kumokiri.net/ |