運命を観る、ということ
今回は、少し重いお話。
書こうかどうしようか、迷ったんですが、この問題に気付いていない人もあるし、その割に、私自身、かなり重く受け止めている問題でもあり、少しやんわりと書いてみることにしました。
どうせ、分かる人にはすぐに分かるでしょうが、あんまり具体的にはっきり書くのも憚られるので、気休め程度にぼかしながら書きます。

運命鑑定メニューの中に、自分の過去の出来事を振り返りながら、本来の運命の流れと見比べてみる、という項目があります。
ぼかすなんて言いながら、どうにもぼかしようがないので、自分でいったいナニをやりたいんだ?状態ですが、けっこう大勢の人に影響する問題なので、ゴリ押しして書きます。

これ、当人に教えてもらった経歴と、四柱推命で導き出した長期の運勢を突き合わせるので、私自身、思っていなかったような深読みと裏付けが出来て、けっこう濃い鑑定に仕上がったなあ、という感じがしていたんです。

そう、最初のうちは…

そのうちに、経歴を記入してもらうシートを送ったのに、かなりの長期間、戻ってこないものが、少なからずあるのに気づきました。
忙しいんだろう、ぐらいに軽く考えてたんですが、お窺いを立てたり、家族に様子を尋ねるうちに、どうも思っていた状況とは違うようです。

シートが戻ってこない人が、ほぼ全員、なんだか、思い出したくない、書きたくないことがあって、書かない、書けないようなのです。

さすが、のんびりした私も、ここに至って、やばい、と気づきました。
自分の過去をきちんと振り返ることのできる人って、どちらかというと、精神的に強い人であるか、或いは大きな傷を負っていない人なんです。
逆に言うと…

分かりますよね?

だったら、そんな鑑定、頼まなきゃいいじゃないか、と、ドライな人は言いそうですが、当人も最初は軽く考えていて、ここまできついものだとは、思っていなかったようなのです。

改めて、運命にタッチするって、恐ろしいものだと思いました。
世の中にはカウンセラーとか、精神科医とか、私と少し共通項のある職業もありますが、こういう問題ってどういう姿勢で臨まれているのでしょうか。
何かご意見のある方は、どうぞ遠慮なくご連絡下さい。
貧しいながら、両親に大切にされて育った、私のような迂闊者には、思いもかけない事態でした。

仏教に「観世音菩薩」という有名な菩薩が出てきます。仏や菩薩にもいろいろタイプがあって、観世音菩薩は、仏の教えを広く知らしめるのが役割です。広宣流布が役割ですから、相手に拒絶反応を起こさせては、何にもなりません。相手に応じて、違和感の無い、その世界に馴染みやすい姿で登場することになっています。
私のやっていた事って、何のことはない、拒絶反応を呼び起こす事、そのものではないですか…。

この観世音菩薩、通称「観音さま」の名称って、何気なく呼んではいますが、けっこう意味深なのです。
法華経では「観世音菩薩」になっていますが、般若心経では「観自在菩薩」になっています。

どちらも同じ菩薩を指しますが、サンスクリット語は「アバロキテシュバラ」。これを中国語に訳す時点で、訳者によって微妙に違いが生まれました。

一般に流布している般若心経は玄奘三蔵訳で「観自在菩薩」、鳩摩羅什訳の般若心経では「観世音菩薩」になっています。

「自在に観る菩薩」と「世の音を観る菩薩」。
実は、この違いは、とても大きなものです。なんて、分った風なことを言っていますが、私自身だって、どこまで分かっているのかは、怪しいものです。

「音を観る」とはどういうことなのか?
「観世音菩薩普門品第二十五」に、なぜこの菩薩を「観世音菩薩」と呼ぶのか?という問いが出てきますが、その続きを読んでも、分ったような、分らないような…。でも、そんな簡単に分って、すぐに完璧に解決してしまうようなお利口さんになるのは、とても危険なことなのでしょう。

愚の骨頂の鑑定メニューは取り下げますが、なんだかんだで、最近は、読経の修行と易の勉強に、改めて頑張っています。

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