風水巷談:目次

<実録・高島嘉右衛門伝・4>

第四幕・ハマの嘉右衛門、新天地

出世は如何に?

嘉兵衛はある日、吟味役の和田重一郎に呼び出された。出頭した嘉兵衛に、和田は高飛車な態度で尋ねた。
「お前は易に堪能ということだが、本当か?」
「はい、易経上下二巻、約二万字をことごとくそらんじております」
「なるほど、それは易経の学問のほうはいちおうやってのけたのだろう。ただ、世の中には論語読みの論語知らずという言葉もある。易経を学んでも易占の力には差異があると思うが、いったいお前の易は本当に当たるものなのか?」
「誤りはございません。当たります」
「だが、俗に…当たるも八卦、当たらぬも八卦と言うではないか」
なおも疑わしそうな面持ちの、和田吟味役である。

「和田様には、将棋をご存知でございますか」
「いちおう初段の免状はあるが、将棋と易にどういう関係が?」
「将棋に関する諺の一つに、『へぼ将棋、王より飛車をかわいがり』とあります。この諺から、『へぼ将棋』という言葉を取ってしまって下さい。そうすると『王より飛車をかわいがり』となり、これだけでは、何のことやら意味がわかりますまい。今の易に関する言葉も同じことでございます。

『人により、当たるも八卦、当たらぬも八卦』という諺の上の五文字が抜けたものと私は考えます。易も他の道と同じように、名人が占えば百発百中でしょうが、下手な易者の占いでは、その諺どおりでございます。」
「なるほど。では、お前の易ならば、百発百中だと言うのか」
「何事にも絶対ということはありませんが、まず百発九十中ぐらいかと」

「よし、それでは聞こう。わしには今、心中に一つの望みがある。その願望が叶うかどうか、一つ占ってみせてはくれまいか。もしその占いが当たったならば、お前を自由の身にしてやろう。しかし、当たるかなぁ…」
偉そうに構えていた和田氏も、実は自分の欲望に関しては俗人、身を乗り出してきた。

「かしこまりました。6枚の銭を拝借いたします。その一枚に、印をつけていただけませんか」
これは簡単な易占の一つである摘銭法である。6枚の銭を混ぜて投げ出し、表を陽、裏を陰とし、更に印のついた銭を変爻として、三百八十四の中から啓示を読み取ろうという占法である。

嘉兵衛は心身を無我の境地に置いて、6枚の銭を畳に敷いた白布の上に投げた。
「いかが出たか?」
「はい。『風山漸』の三爻の卦にございます。易経の教えによりますと、
『鴻陸に漸(すす)む。夫は征きて帰らず。婦は孕みて育せず。凶。寇(あだ)を禦(ふせ)ぐには利し』とございます。この文章をご熟考なされば、答えは自然に出てきましょう」
「うむ、『風山漸』の三爻と申したな」

和田氏の顔がサッと変わった。何といっても当時の武家は子供の頃から四書五経の素読は必須科目である。いや、教育といえば四書五経のみで、それ以外にはなかったというぐらいの時代であるから、この意味はすぐに分かったに違いない。
和田氏になかったのは、易經の学ではなく、易を立てる能力=霊感や予知能力のタグイだったのだ。それで、嘉兵衛に易が当たるか当たらないかをくどく尋ねたのだろう。

これは現代でも同様である。幾ら易経が難しいと言っても、解説書は幾らでもあるので、漢学の素養がなくても意味を理解することはできる。しかし、易が立つか立たないかは全く別問題である。
易経の素読や解釈は学者の世界のことだが、易を立てるのは、行者や超能力者の世界の話である。先ほど、心身統一をしてから銭を投げた、とわざわざ断ったのには、ちゃんとした理由があるのである。
欲があっては正しい易は立たないし、たとえ立っても、そこから本当に易の指し示す啓示を読み取ることはできない。ここらへんは学問の差ではなく、人間としての悟り、禅定力の差である。
和田氏が嘉右衛門の易にこだわったのは、このような部分での、実際の易占の難しさを理解していたからなのだろう。

「それで、易占のほうの実際的な解釈は」
和田氏は身を乗り出した。
「それを申し上げるには、まずお人払いを」
部屋に居合わせた人々は残らず座を去って、嘉兵衛と和田氏だけが残った。
「あなた様は、牢奉行の職をお望みでございますな」
「待て…」
和田は慌てて立ち上がって、四方の襖障子を開けて誰も立ち聞きしていないことを確かめた。

「よく分かったな。して…その願いは成就するのか?わしが奉行になったなら、すぐにでもお前を放免してやるのだが」
こうなってくると、かなり話が生臭くなってくる。いくら交換条件を出しても、占い師が和田の望みを叶えてやる訳ではない…

「占いは神聖かつ神秘的なものでございます。私がご放免になりましたら、それはうれしゅうございますが、その為にお世辞を言う訳にはいきません。そのお積りでお聞き願えますか」
「うむ…」
「今のお奉行様はご病気と承りましたが、あと30日以内に退職なさいます。その後任には、あなた様は当然お名前が上がりましょう。あなた様の地位のご昇進、それはこの私もこの身をかけて保障いたしますが、ことお奉行の役につけるか否か…それにはかなりな競争者がございまして微妙なところです。ここは一番の勝負どころ、いっそうのご努力と関係者への運動が必要と存じます」
嘉兵衛の言葉を聞きながら、もう権勢欲の虜となってしまった和田は、心この場にあらずといった態で、もうあれこれと方策を練り始めた。
「よし、今日はこれで下がってよい。もしこの願望が叶ったら、お前は即日放免にしよう」

その二十五日後、牢奉行交代のご沙汰があり、新たに任命されたのは清水時太郎という武士だったが、和田重一郎も奉行代理に任ぜられた。願いどおりであったかどうかはともかく、嘉兵衛の予言は当たったのだ。和田は約束を守り、嘉兵衛は江戸お構いの身分こそそのままではあったが、翌日に放免となった。

嘉兵衛は流刑地だった佃の渡しを渡った。佃島と嘉兵衛の生地の京橋三十間堀は目と鼻の先なのだが、放免となった今でも、京橋との間には渡るに渡れぬ大海のような距離があった。


再び横浜へ

慶応元年(1865年)10月10日、自由の身となった嘉兵衛は、横浜へと旅立った。江戸お構いという条件はついていたが、横浜に新天地を開拓しようと決意していたのだ。
出獄した彼は、その足でまず、八丁堀の高島平兵衛の店に寄った。平兵衛は嘉兵衛の娘婿で、実直そのものの人物でもあり、彼の入牢後はその母と妻とを引き取って面倒をみてくれていた。しかし、二人は既に病死して、再会を喜びあうことはできなかった。
嘉兵衛は二人の位牌に手をあわせながら再起を誓った。これ以降、嘉兵衛改め高島嘉右衛門となり、江戸を離れた。
次には品川宿の鶴巻屋に立ち寄った。鶴巻屋は、昔から彼が定宿としていた店だ。

「旦那、よくご無事で。さあ、お上がりなすって何日でもゆっくりお休み下さいまし」
「いや、わしは今日のうちに江戸を離れなければならない身だ。泊まるわけにはいかないし、おまけにこの通り着た切り雀。旦那旦那と呼ばれても、今のところ、旦那料も払えないのだ」
「でもさあ、旦那……旦那ぐらいの腕がおありになれば、遠からずまた一旗揚げて、金には不自由のない身分になられましょうぜ」

「そうなりたいものだな。いや、そうならなければ男が立たないのだ。だからお前が昔のよしみを忘れず、わしのまたの成功を期待するなら、これからの勘定は三年後の出世払いということにしてくれないか。今後、江戸と横浜を往復する間には、昼飯を食いに立ち寄ることもあるだろうし、泊めてもらうこともあるだろう。その時にもし持ち合わせがなければ、貸しということにしてくれると有難い。それがダメというならば、三年後に旦那になってから来るしかないなあ…」
伝助もおメメぱちくりものではあるが、なるほど言われてみれば至極もっともな申し出、これくらいはっきり言われると気持ちが良い。
「ようがす!あっしも男なら、旦那も男と見込みました。勘定のほうは三年後にたっぷり利息をつけて返していただきますから、どうぞ遠慮なく立ち寄ってやって下さい」

嘉右衛門はそのまま鶴巻屋を後にし、川崎まで歩いた。そして、川崎での定宿であった丹波屋でまた同じような交渉を繰り返し、その夜はそこで泊めてもらった。さすが嘉右衛門、出獄当日から、事業家としてまことに緻密な下準備ぶりである。


翌日は雲ひとつない快晴。
嘉右衛門の再起を祝福するかのようなお天気だった。
足を速めて、神奈川、戸部坂へとやってきた嘉兵衛は、前とは姿を一変した横浜を、眼下につくづく眺めた。
7年前とは見違えるような変わり方だった。
前は漁村に毛の生えた程度の家しかなかったのに、今では江戸にもないような洋館が、外人居留地を中心として立ち並んでいる。その周りの普通の日本家屋にしても、7年の間にかなりの数を増して、新しい港町としての賑わいを、はっきりと形に表しているのだ。
(これじゃあまるで、浦島太郎だな…。玉手箱の、土産の代わりの易学か…)

訪れたのは本町の「肥前屋」である。前に西村七右衛門と伊万里焼の共同経営をしていた店だが、嘉右衛門の入牢の発端となったいわく付きの店である。七右衛門は健在だったが、昔から嘉兵衛派と七右衛門派に分離する傾向があり、今は嘉兵衛派は姿を消して七右衛門が牛耳っていた。
仕方のないことではあるが、七右衛門の目に浮かんだ警戒の色を見て、改めて嘉右衛門はこの店との縁はこれまでだと思った。それでもいちおうは共同経営者である。お義理に七右衛門の取った宿に落ち着き、横浜の町を改めて歩いてみた翌日、一人の来客があった。

入牢前に懇意にしていた、伊勢屋藤助という男である。
「昨夜、肥前屋の番頭さんから、旦那がお帰りになられたと伺いまして、お元気な姿を拝見しに早速出向いて参りました。何はともあれ、おめでとうございます」
「有難う、あなたの商売もご繁盛とみえまして、ずいぶん福々しくなられましたな」
「お蔭さまで・・・ところで旦那は、橘屋磯兵衛さんをご存知でいらっしゃいますか」


昔の女の恩返し

この辺りから、珍しく嘉右衛門伝に女性が登場してくる。以前、嘉右衛門は少し余裕が出てきた時に、梅ヶ枝と言う女と馴染みになって身請けをした。何となく相性がよいというか気が合って、横浜で家を一軒持たせてもいいと思ったものだ。

それで身請けした途端に為替事件となり、ついそのままになってしまったものだが、梅ヶ枝はその後、この橘屋という男と一緒になって幸せを見出したものか。伊勢屋から橘屋と梅ヶ枝の関係を聞かされた嘉兵衛は何となく面映い気になりながら、梅ヶ枝の幸福を素直に喜んだのだった。

「その橘屋さんも今は私の町内で、親類づきあいの間柄ですよ。昨夜さっそく、旦那が無事にお帰りだと話したところ、夫婦揃って涙を流して喜び、ぜひお連れしてくれないか、ということになったのです。」
「私は別に構いませんが……しかし俗な言葉で言えば、橘屋さんと私は義兄弟とでも言うことになりましょうか。お目にかかって、かえってご夫婦仲に障りでもしたら」

「その心配はご無用です。橘屋さんは、女房の恩人は自分にとっても恩人、このままでは済まされまい、と申しております。旦那が今更と言われましても、狭い横浜で仕事をするようになりましたら、いつ何時、どこで顔を合わせるかわかりません。その時に逆に、妙なしこりがあっては…とも申しますので、ぜひこの際、お出かけ願えませんか」

夫婦揃って待ち受けているという伊勢屋の言葉は嘘ではなかった。橘屋磯兵衛夫婦は店先まで飛び出してきて、嘉兵衛の手を取って奥座敷へ案内した。丸髷に鉄漿の梅ヶ枝にもすっかり貫禄がついて、立派な女房ぶりである
「今はお花と名乗っております。子供もできましたが、あなたの幼名をいただいて清三郎と名付けました」と三歳ほどの男の子を連れてきた。おまけに開いてみせた仏壇には、
「俗名 肥前屋嘉兵衛」と書いた、彼の位牌まで飾られていた。

祝宴が始まった。昨日の肥前屋七右衛門に比べては何だが、嘉右衛門にも人の温かさが身に沁みて感じられる時間だった。
橘屋夫婦の歓待を受け、恵比寿講にも招待されるなど、着々と横浜での地固めが進んできたある日、前に嘉右衛門が使っていた手代が三名、連れ立って宿を訪ねてきた。

註・位牌のこと
生きている人の位牌を飾っているというと、奇異に感じられるかもしれない。しかしこれは、嘉右衛門がもう牢死したと勘違いしたり、または伊勢屋夫婦がしきたりを知らなかった訳ではない。
位牌というのは本来、戒名を記すものだが、戒名とはその人が仏弟子として修行の道に入った証しに、俗名とは別につけて貰うものである。戒名とは本来、仏道の修行をする為の戒律を受けた証拠につける名前。従って、生前に仏教の勉強をまったくしていなかった人が、亡くなってから戒名を貰うのは、本来はおかしなことなのだが、せめてもの手向けに……と、亡くなってから戒名をつける習慣が普及してしまった。
本来ならば、生前に戒名をつけてもらって修行の道に入るほうが良いことは、言うまでもない。その為、本来の戒名の由来を知っている人にとっては、生きているうちに戒名をもらうことは、とても目出度いことである。

この場合、嘉右衛門の戒名がまだついていなかった(又は知らなかった)ので、代わりに俗名を書き、仏様の力で嘉右衛門が無事に出牢できますようにと、磯兵衛とお花夫婦は仏壇に向かって念じていたものと思われる。
ちなみに、仏壇というのは、仏様(お釈迦様)を祀ってその前で人間が修行するものであって、亡くなった先祖の位牌を入れるものではない。亡くなった方の位牌は仏壇とは別に、位牌壇というものを付属的に置くが、あくまでも仏壇の力でついでに先祖も救ってもらおうという趣旨のものである。



ハマの逸材と出会う

太田町の材木商、大阪屋吉兵衛という男が、異人館の建築を請け負っていたのだが、見込み違いで工事が中断しているので、それを肩代わりする気はないか、という相談である。
その日のうちに大阪屋に会った嘉右衛門は、その店を無償で借り受け、新しく高島屋材木店の看板を掲げて工事を続行することになった。徒手空拳で横浜へやってきて、まだ七日にも満たないうちに、再起第一歩の仕事が始まったのである。
材木商や建築の仕事は、もともと手馴れた仕事である。江戸の高島屋平兵衛の店からもどんどん材木は取り寄せられる。橘屋関係の援助もあって、店は日増しに繁盛した。

これならば…と嘉右衛門は、次に外人との直接交渉を計画した。
しかし…一番の問題は通訳である。当時の横浜でも、英語を自由に操れる人間は稀有の存在だった。

通訳のことを気にかけていた嘉右衛門はそのうち、横山孫一郎という天才少年の噂を聞いた。荒物屋の息子でまだ17歳だが、語学のほうは大したもので、外人も舌を巻いて感心するほどだという。嘉右衛門はさっそく荒物屋を訪ねて孫一郎に会った。
色は浅黒く背は低く、はっきり言ってなんとも風采の上がらない少年である。おまけに何となく人を食ったような小生意気なところがあり、目が鋭い。耳が大きく、その耳には不思議なツヤが現われていた。嘉右衛門はその人相を見ただけで、これこそ自分が求めていた男だと悟った。

元来、「聡明」というのは「耳が聡(さと)く、目も明るい」と言う意味である。目と耳の働きがすぐれ、情報に鋭く敏感という意味だ。
「聡い」という言葉は「利に聡い」などという使われ方もされ、全面的に人間的な智恵や価値を決めるものではないが、目と耳の能力が優れているということは、自然と的確な判断力が持てることでもある。
この孫一郎の場合は、目はしが利き耳の感覚も鋭く敏感で、しかもツヤがあるのでそれを役立てることができるという相である。まさに通訳には持ってこいの相である。

「あなたを通訳として丸抱えにしたいと思いますが、給金はいかほどお望みですか?」
この嘉右衛門の質問に、孫一郎は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「丸抱えとおっしゃるなら、年に五百両、用事のない時には博打おかまいなし、ということならお引き受けしましょう」

当時の五百両と言えば、今ではいったいどれくらいの貨幣価値になるのか…とにかく、いくら特別な才能があるといっても、かなり法外な要求だった。孫一郎にしてみれば、そうふっかければ相手もびっくりして逃げ出すだろう、下手に自由を束縛されるよりも、気の向いた時に臨時の仕事をしているほうが気楽、という積りだったに違いない。
しかし嘉右衛門は一瞬にして切り返した。
「それで結構。お願いします。働きによってはその上に年五百両の手当てをつけます。」
「年に千両……、それで博打の方は?」
あっけに取られた顔の孫一郎だったが、嘉右衛門は即座に言った。
「仕事に差し支えない限りは何をなさろうとかまいません」

しかしこれは、高い買い物ではなかったことを、間もなく実績が証明した。
翌日から孫一郎を使い始めた嘉右衛門は、当時横浜に来ていた異人達の人脈を探ることから始めた。
まず、アメリカ人の建築家・ビジンと懇意になった。異人館の設計建築に関しては、横浜でも第一と言われた人物である。ただ、現状では日本人の大工や請負師がなかなかその指定どおりの工事ができないことが多かったが、それも言葉が通じない為の誤解が主な原因となっていることを嘉右衛門は見破った。


イギリス公使を説得に

次に定めた標的は、イギリス公使バークスである。ビジンの妻の姉がアメリカ公使ウェンチェストンの夫人という関係を利用して、紹介状を入手したのだった。
何といってもバークスは、当時日本へ来ていた外交官の中では、一頭地を抜いた傑物として知られていた。幕府の老中や奉行など、バークスには子供のようにあしらわれる始末。また東洋人を軽蔑する感情が強いせいもあって、公式の場合を除いてバークスが日本人と接触した例は一度もないという徹底ぶりだった。嘉右衛門の手に入れたアメリカ公使からの紹介状は、例外中の例外に違いなかった。

当時、イギリス公使は一つ問題を抱えていた。品川御殿山にあったイギリス公使館は、攘夷浪人達に焼き討ちにされ、それ以来バークスは、仕方なく横浜居留地の中の二十番館のホテルに住んでいる。
その豪華なホテルの一室で、バークスは葉巻をくゆらしながら嘉兵衛を迎えた。

「用事は何かね?できるだけ簡単に済ましてくれ」
「公使館新築のことにつきまして、申し上げたいことがございます。しばらく私の言葉にお耳をお貸し下さいませんか」
「公使館の新築かね?」
これは確かに、当時のバークスにとっては最大の懸案に違いなかった。
「では10分だけ話を聞くから、椅子にかけるがいいだろう」

幾らか柔らかい態度になったバークスに向かって、嘉右衛門は話し始めた。
「アメリカのベルリ提督閣下の来日で、日本も開国に踏み切りましたが、それ以来、まだ時も浅く、何年も経ってはおりません。それ以前は、わが国民は支那朝鮮以外ではわずかオランダ一国と交際していたのみで、東にアメリカのあることも知らず、西にイギリスのような大帝国のあることも知らず、開国で初めて知ったのです…」
この一言一句を、傍の横山孫一郎が流暢な英語に翻訳していく。

「これらの情勢の変化も、一部の人間が知っているのみで、ほとんどの国民がまだ鎖国時代の因襲を脱しきってはいません。従って、閣下はじめ諸外国のお方が平和に日本と友好を結び、優れた西洋の文化文明を日本に伝えようとなさっても、その真意を理解する者は多くはありません。その少数の理解者は、ここ、横浜の地に集まっていると申しても過言ではありますまい」

バークスが軽く頷いたのを見て、嘉右衛門は更に言葉を続けた。
「江戸と横浜は陸路でわずか一日の距離ではありますが、外国に対する感覚には10年の違いがありましょう。御殿山の暴挙は、因襲に囚われた愚昧の者が、閣下はじめ皆様の行動を誤解し、公使館焼き討ちという暴挙に出たものでありましょう。
このような愚者暴漢達を教導して、正しい道理を飲み込ませるには、かなりの時間がかかり、一朝一夕にはまいりません。しかし、外交というものはそういう休止や中断を許しません。こうしてホテルの一室でご不便をしのばれている閣下のご心中、お察し申し上げます」

バークスの表情が更に和らいできたのを見ながら、嘉右衛門はここぞとばかり続けた。
「私の申し上げたいことは、世論がすべて開国に同調し、治安と安全が確保されるまで、しばらくこの横浜におられては如何かということで提案でございます。
つまり、この横浜の地に公使館をお建てになり、外交に関するお仕事は、江戸から役人達をお迎えになり、ここで処理されては如何かと…」
「アイ、スィ」
初めてバークスが言葉を発し、それから横山孫一郎に早口で何かを尋ね始めた。

「旦那、閣下はこう言っておいでです。
お前の言うことはよく分かった。確かに臨機の名案だとは思うが、公使館新築の費用はどうするのか、ということです」

「そのことならば、幕府とご相談なさいませ。幕府としても、公使館焼き討ちの件では深く心を痛めております。このままにして時を過ごせば、せっかくここまで無事に運んできた日英友好関係にも傷がつきはしないかと、頭を悩ましていることは明らかです。
従って、公使館新築の費用は、いちじ幕府に立替を申し出られ、無利息長期の年賦払いで償還なさることにしては如何でございましょう。私の見るところ、この条件ならばすぐにでも話はまとまることと存じますが」

バークスは椅子から立ち上がり、窓から横浜の景色を見つめていた。そして身をひるがえして嘉右衛門に近づくと
「サンキュー、スプレンチド・アイディア」
と言って右手を差し伸べた。
言葉は理解できなかったが、わずかの間に一変したその態度から、嘉右衛門は事の成功を確信したのだった。

この公使館建築の計画は、スンナリと実現の運びとなった。
建築総費用、7万5千ドル。ビジンはその一割を設計料として受け取り、工事はビジンの指導で、嘉右衛門が請け負うこととなった。幸い、17歳の横山名通訳のお蔭で、意思の疎通も円滑に運んだ。工事竣工の日にはバークスもその出来を確かめて、
「日本一の大工である。日本人がこのような洋館を建てられるとは思わなかった」
と賞賛の言葉をもらした。

この後、横浜の異人館の建築は、ビジンと嘉右衛門の独占事業となってしまった。
スイス領事館の建設の時、嘉右衛門は敷地の一部に建物を造り、それを自分に貸してくれと交渉した。
「それは何の目的に使うのです?」
「この通訳の横山君は、根っからの博打好きでして、急用ができた時には横浜じゅうの賭場を探し回らなければなりません。それでスイス国旗の下に、彼が落ち着いて博打のできる賭場を作っておきたいのですが。それなら急用が起こっても、すぐにつかまえることができるでしょう」
この言葉を通訳した時、当の孫一郎はさすがに冷や汗を流していた。
「旦那、さすがにあなたは苦労人だ」


弁天お雪、登場

この時期、嘉右衛門は自分の運命を占ってみて、「火天大有」の上爻変を出している。
天より之を佑く。吉にして利(よろ)しからざるなし。

まさに出獄後のしばらくというもの、シーソーのように、大陥落した運命が急上昇で、何をしても当たりに当たる時期だった。天佑神助の連続とでもいうぐらいに、すべて順調にことが運んでいた。
嘉右衛門は梅ヶ枝に会えるとは思ってもいなかったが、ましてその夫の世話になり、発展の手助けをしてもらうことになろうとは、夢にも思わなかった。
「弱い女と思っても、人には親切にしておくべきだな」
ということも、この時期に改めて言っている。
こういう心境にあった為かどうか…ここで嘉右衛門はまた一つの親切を施し、それが後日、日本の政治の趨勢に大きく絡んでいくことになるのだ。

ある日、居留地で嘉右衛門はたいへんな美人に出会った。
年は二十歳かそこらか…面長で色白、まさに弁天様の生まれ変わりかと眼をみはるほどの器量で、そのうえ…妙な仇っぽさがある。
「あの女は、どういう女だい?」
この横浜の居留地で見かける洋妾たちとは、ちょっと感じが違う。通訳の横山ならば顔が広いので訪ねると
「弁天お雪という、女彫物師ですよ。大人しそうな顔はしていますが、着物を一枚脱ぐと、男勝りの倶梨伽羅紋々、私は見たことはありませんが、背中は確か弁天様、両腕には牡丹ををあしらっているそうですよ」
と、声をひそめて囁いた。

「女刺青師!?」
嘉右衛門は、思わず後ろを振り返った。通り過ぎたあの女の着物の下に、そんな凄艶な絵模様が刻み込まれていようとは、さすがに多くの人間を見てきた彼にも、想像がつかなかった。
「なぜ、そんな商売を?」
「父親も彫徳という刺青師で、腕も江戸では五本の指に数えられた名人なんですが、どうもこれがうまれついた病で」
と…自分の鼻にさわってみせた。博打好きの意味である。

「そっちの借金で首が回らなくなっちまって、江戸を夜逃げして横浜に来て、異人達を相手に稼ぎまくっている。異人の水夫達は、港々で土産代わりに刺青をしていく習慣があるでしょう。日本の刺青は世界一ということになっているし、連中の刺青というのは背中いっぱいに大物を彫るというんじゃあなくて、一つ一つ小さな模様を増やしていくだけですから、日本の刺青師にとっちゃ朝飯前の芸当です。女だってその気になれば、それぐらいの仕事はできるんじゃないですかねえ」

「…なるほど」
嘉右衛門はもう一度、後ろを振り返ってしまった。刺青の道具なのだろうか、小さな風呂敷包みを小脇に抱えた女は、ある洋館の中に消えてゆくところだった。

「香港とか上海とかには、女の刺青師もけっこういるらしいですよ。刺青をしてやって、序でに体も売って金を取る。二重に商売できますからね」
「だが、あの女はそうは見えぬな。通りすがりに顔を見ただけだが、確かに貞女の相だった。刺青のほうはともかく、自分の身を切り売りして商売している女とは、俺は思えない」

「貞女というのは当たっているでしょう。何でもあの女の惚れた男というのは、背中一面に花和尚魯智深大蛇退治、両腕には昇り龍、降り龍を彫っていたそうで…亭主の好きな赤烏帽子ならぬ青い肌の絵ってわけで、あの女も彫ったんじゃありませんか。どっちも親父の作なんだと、彫徳本人から聞きましたが」
「それで男のほうは?」
「同じ長屋に住んでた吉三という遊び人だと聞きました。ところがやつは、あと2~3度で背中が彫りあがるという土壇場で、横浜をずらかってしまったとか」

「人でも斬って土地にいられなくなったか。やくざ者にはよくある話だ」
「ところが、どうもそれだけじゃあなさそうで。言葉にも薩摩訛りがあったとか。旦那の占いじゃどうなります?」
「占うまでもあるまいな。薩摩には西郷吉之助とかいう大策士がいるということだ。自分に心服している藩士達を次々に脱藩させ、全国各地に潜伏させて将棋の駒のように自由に動かしているという噂を聞いたことがある。その吉三という男も、その駒の一枚ではないかな」
「なるほどねえ。でも、レッキとした侍が、全身に刺青をするというのはうなづけませんがねえ」
「侍なればこそではないかな。倶梨伽羅紋々の侍などいよう筈がないという世間の裏をかいてこそ、密偵の役も勤まるってもんだろう。刺青は人の目をあざむくための隠れ蓑。腹を斬る覚悟さえある武士ならば、そのくらい何でもないのではないか、と俺は思うがな」

嘉右衛門はその後、この居留地で何度かお雪と顔を遭わせ、目礼して通り過ぎるぐらいの仲となっていった。
お雪にしても、嘉兵衛の素性は誰かから聞き出したのだろう、占い好きの山師上がりの請負師と、そのぐらいに思っているのだろうと、嘉兵衛は想像していた。
ところが、3ヶ月ほど経ったある日、嘉兵衛は気になることを耳にした。

お雪の父の彫徳が、前日深夜に、ある異人館の二階から身を投げ、首の骨を折って死んだというのである。
理由を聞くと博打がらみだろうということなので、蛇の道はヘビとばかりに、嘉兵衛はすぐ横山を呼びにやって聞き質すことにした。間もなくやってきた彼は、さすがに深刻な顔をしていた。
「あの仏からは随分巻き上げましたからねーこっちも寝覚めが悪くて」
と前置きして横山が語ったところによると--------

彫徳は商売が順調に行って懐が暖かくなるに連れ、また昔の悪い癖が顔を出したらしく、仕事のない時にはたえず賭場に入り浸り、ベーコックというアメリカ人から、不義理な借金を重ねたのである。
ところが、その借金は、普通の借金とは全然性質が違っていた。ベーコックは実は、アメリカで有名なサーカス団の興行主の片腕と言われる人物で、横浜までわざわざやってきたのは彫徳親子、特にお雪のほうに眼をつけてのことだったのだ。

当時アメリカのサーカスでは、刺青女が非常にもてはやされていた。若い女が体のあちこちに模様を彫り込み、舞台に立って裸体になって刺青を見せるだけで大人気で、サーカスにお客が殺到するというのである。

ところが、欧米流の刺青というのは、絵全体に統一性がない。龍や花や人物など、勝手なところにその場で思いついた絵をあしらって彫るだけで、余白とも言うべき地肌はそのままである。
日本の刺青のように、人間の体を一つの大きな立体キャンバスと見立てて、地肌にはぼかしを入れて全体に統一性のある刺青絵巻とも言うべき迫力のある刺青は、欧米ではみかけない。
ところが、水夫の中で一人、片腕全体をぼかしをかけた日本流に彫り上げて本国に帰った男がいた。この男がサーカス団の団長に会い、彫徳親子の話をしたのである。

そのサーカス団の団長、ヴァンタムがこの話を聞き逃すわけがなかった。どんな条件でも構わないから、この彫徳親子をアメリカに連れて来いと、腹心のベーコックに命じたのである。
日本流の刺青をした若い美しい女が裸になって全身の刺青を披露し、見世物の合間に父の彫徳がお客に小さな日本流の絵を彫ってやるという商売ならば、サーカスの目玉としてこんなに強力なものはないだろう。

後は想像がつくことと思う。生粋の江戸っ子である彫徳がアメリカくんだりまで行って仕事をする謂れはないし、お雪にしても、自分の刺青は異人の見世物になる為に彫ったのではないと、にべもなく断ってしまった。
そこで相手は別の手を考えた。彫徳の博打好きの弱みを見抜き、賭場へ招いてはほとんど無制限に博打の元手を貸し付けたのである。博打に熱くなっている時に、中身もよく確かめずに署名した英文の誓約書は、この金を返せない時は、親子揃ってアメリカへ行き、全額返済を終えるまで相手の言う条件で働く、という内容だったのである。
その証文は、借金が五百両になった時に、いきなり彫徳の前に差し出された。真相を知った彫徳は真っ青になり、自分の不心得を詫びる書置きを残して、舌を噛み切った上で異人館の窓から身を投げたのだった。

「なるほど、気の毒な話だな……線香を上げにいくとするか」
お雪は遺体と共に異人館の一室に閉じ込められているという。嘉兵衛は孫一郎を伴ってそこを訪れた。
「お雪さんとやら、気の毒なことになったものだな。いちおう仔細は聞いたのだが、お前さんはアメリカへ行きたいわけではないのだな」
「はい…でもこうなってしまっては、どうにも致し方なく…」
「一つ、わしにお前の手を見せてくれんか」

消え入りそうな風情でうつむいたままのお雪の手相を調べて、嘉右衛門は低く唸った。
前に見た時にも思ったのだが、女には珍しい貴相である。玉の輿に乗る…と言いたいところだが、あいにくと正妻の運は出ていない。当然のことに、全身に大きな刺青を施した女の身では、高位高官の正妻にはなりようもないだろう。しかし…貞節の相といいこの貴相と言い、非常に珍しい相である。

もう一つ、このお雪の手相には大きな特徴があり、万人を救う仏の相が出ている。流浪の相は確かにあるが、大きく海を渡るほどの極端な渡航の相ではない。
おそらく…かなりの年月、流浪を続けた後に、初めての男…花和尚吉三と結ばれ、吉三のほうが立身出世して新時代の指導者となるが、お雪はあくまでも陰の存在になるのだろうと、嘉右衛門は解釈をしたのだった。

「先生、私は何年我慢したら日本へ帰れますか…。アメリカで見世物になるぐらいならば、いっそのこと舌を噛み切ってと思ったんですが…私には命がけで惚れこんだ男がいます。この刺青にしても、その人がとっても刺青が好きで、白い肌の女には情が移らないというもんで、お父さんに頼んで彫ってもらったんです。もし、生き恥を我慢しても、もう一度あの人に会えるのでしたら……」
「やはり旅立ちの相は出ているが…アメリカ渡航ではないな…」


刺青も~離為火~

嘉右衛門は一占立ててみることにした。最近は筮竹と算木は肌身離さず持ち歩いている。まず占うのは、お雪の運命である。
「天下同人」、五爻変------
同人、先に号啼し、而うして後に笑う。大師克ちて相遇う。

なるほど……と、嘉右衛門は心の中で頷いた。
この卦は、一人の美女が五人の男に慕われるような感じの易で、女刺青師という立場とお雪の現状を考えれば、よく当たっていると言える。そして、五爻の変爻を取れば、それは離為火の卦となる。

火というのは、眼に見えるビジュアルなものを表す卦で、絵画はその代表である。刺青も体に刻んだ絵であり、お雪のほうは問題ない。
問題は相手を表す外卦、算木の上三本なのだが、これは三本の陽の中央に陰が潜み、災難を暗示する卦なのだ。
とにかく、今はこの女は涙も枯れるほど悲しんでいる。男が秘密を打ち明けずに離れてゆき、更に自分もこのような状況になったのでは無理もないが、「後に笑う」とあるからには、必ず生きていて良かったという暁もやってくる筈なのだ。

しかし……相手の男のほうは……
大師克ちて相遇う、この言葉の意味を考えて、嘉右衛門はハッとなった。
この年、慶応二年と言えば、幕府の長州征伐が始まろうとしていた当時だが、薩長同盟はまだ成立していなかった。坂本竜馬などが必死に画策は続けていてが、まだことは表面化しておらず、表面化した後は、いずれはこの薩長二藩と幕府との間に大きな戦が起こるだろう。花和尚吉三はたぶん、勝利者としてお雪と再開するのだろうと読んだ。

次に嘉右衛門は、吉三の運命を占ってみた。
『地水師』、二爻-------
師の中に在り、吉にして咎なし、玉三たび命を錫(たま)う。

たぶん、彼は今は、本来の侍にもどったのだろう、もちろん無事で。何度も手柄を立てて、重要な使命を負わされるという解釈をしていいのだろう。
それから嘉右衛門は何度か易を立て、最後に言った。
「男は、今は西に居る。いづれは横浜へも戻って来ようが、、お前はそれまで待てないだろう。それで旅立ちの相が出ているのだな」
「でも、私はもう自由の身ではありません…」
「そのことならば心配ない。俺が建て替えて払ってやろう。金は天下の回り物とも言うし、お前から返してもらおうとは思わない。どこかで回り回って、お前の惚れた男の為になり、ひいては日本の国の為にもなり、俺にも魚の半匹ぶんぐらいにはなって戻ってくるかもしれないさ」
「先生……」
「アメリカへは渡らんで済むように話はつけてやるから、早まったことだけはしないでくれ。今日明日という訳にいくまいが、初七日までには必ず吉報を聞かせてやるから、待っていてくれ」

お雪の部屋を出た嘉右衛門は、すぐに行動を開始した。孫一郎を通訳として、ベーコックに会った。借金の肩代わりの件も申し出た。
彫徳の自殺に直面して、ベーコックはかなり動揺していた。それを利用して、嘉兵衛は更に追い討ちをかけたのである。

自分が今占ったところでは、あの女には死相が出ている。船に乗せれば、途中で病気になるか自殺するか、おそらく二つに一つだろう。早急にどこかの温泉にでも静養にやり、元気を取り戻させるしかない、ということをくどいばかりに説明してやったのだ。
「それで、あの女をどうするのです?」
ベーコックも困り果てた表情で尋ねてくる。
「とにかく体を治させる。そして体がよくなったら女房にする。美人でもあるが、俺はあの背中の絵に惚れたのだ、と通訳してくれ」
「結婚する、というのですね」
「そうだ。俺に借金を肩代わりさせて女を任せるか。それとも大金と手間暇かけて死体を二つ買うか、どっちが良いか、考えてみてくれ」
しばらくの沈黙の後に、ベーコックは利息の条件を切り出してきた。

7時間後に話はまとまった。更に嘉右衛門は彫徳の葬儀の費用まで出してやり、四十九日が過ぎたら京都の知恩院へ納骨に出かけるように勧めた。女中がわりに傍に置いてくれというお雪の言葉にも、首を縦に振らなかったのは、嘉右衛門には嘉右衛門なりの思惑があったのかもしれない。
お雪と吉三に関する易占の結果と、また彼自身のお雪に対する微妙な感情の間で、あえて旅立ちを勧めたと言うところに、彼の女性に対する潔癖さが垣間見られる気もする。そのせいで…かどうかは知らないが、このようにして、女刺青師・弁天お雪の流浪の旅が始まる。
その後の彼女の運命については、また後で触れることになるのだが……


歴史は大きく動き出した。特に慶応元年から慶応4年までのわずか4年間であるが、この時期、日本は激動の時代に入った。
同時に嘉右衛門も、事業家として歴史に名を残すほどの大躍進を遂げ、さらにこの後、易をもって日本の歴史に密接な係わりを持つようになるのである。

という訳で-----------

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