風水学講座:目次

初詣に行こう!

初詣の季節が近づきました。
当サイトでも神仏に関わる話に関心を持っている方が多く、もっと教えて欲しいとよく言われます。成田山関係の話はずっと人気コンテンツのトップですし、こういう知識が正しく広がるのは良いことです。
最近は若い人が、人生の先輩からこういうことを教わる機会も減りましたので、他の記事と一部ダブる内容もありますが、及ばずながらまた少しお話をしたいと思います。
タイトルは初詣ですが、初詣に限らず、生活の中での信仰とか神仏に関わる考え方をまとめた内容です。

なぜ、初詣や四季折々に参拝をするの?

↑おっさん、帽子は脱いで拝めや。
コートも脱いだほうがいいで。
ネエちゃん、腕はあんまり着物から
出ないように、カッコいい着こなし
身につけてな。イェーイ!

まず一番大切な、動機の部分を押さえなければなりません。ここで心得違いをしていると、すべてがおかしくなってしまいます。

初詣の場合は、気持ちも新たに新年のご挨拶として、「昨年は無事に過ごすことが出来、有難うございます。今年もよろしくお願いします」というのが平均的なところでしょう。

それから、何か大変な試練が待っているとか困ったことがある時に、うまく切り抜けられるようにお願いに行ったり、開運や商売繁盛を願ってお参りに行くのはよくあることです。

次に、お願いしたことに対して、報告やお礼に行ったりと、いわば願解きのような感じで行く場合があるでしょう。

人生の節目節目に神社仏閣にお参りに行くのはとても良いことですし、姿勢を正して自分自身を見直すきっかけにもなるでしょう。

或いは、何となくお参りに行くと良い気分だから、という理由で、定期的に行かれる方もあるでしょう。これも良いことです。
ただ、余りにいつもいつも「困った時の神頼み」しかしないと、何となく人間的に、品性というか、格が下がってしまいます。

これは皆さんが自分自身に置き換えて考えてみればわかります。たまにやって来る人が、来れば必ず何か頼みに来ると相場が決まっていると、顔を見てもあんまり嬉しくありません。
そのうちに(ん?□□さんが来るって?また借金の申し込みかよ…)となると、居留守を使いたくなったり、急に病気っぽい気分になってしまうかもしれません。
反対に、やってくる時はいつもグッドニュースやお土産を持ってきたり、会って楽しく有益な人だと、来訪を告げられただけで嬉しくなります。

参拝の時に一番大切なことは、雑念を捨てることです。利害損得とかお願いごとというのは、一番大きな雑念です。
たとえ参拝に行く動機が、追い詰められ切羽詰って、何とかそれを打開できないものか起死回生を願って…という状況であっても、参拝する時にその人間的な雑念、邪念を持って必死で願いをかけてばかりでは、何にもなりません。

神様のほうでも、人間が参拝に来る動機など、とうの昔にお見通しです。何せ神様ですから。居留守を使いたい気持ちになっておられなければ、願いの筋は通ります。
願いを分かってもらおうと必死で念じるよりもずっと大切なことは、あなたが願いを成就するに相応しい価値のある人間になれるかどうか、ということではないでしょうか。

「神は明けき、直き、潔きを愛す」
この言葉を、心の中に叩き込んでおきましょう。

神様って何だろう?

少し難しい話になりますが、仏教と神道の基本概念の話ですので、今まで漠然と「神様なんて本当に居るの?そもそも神様とか仏様っていったい何?」と思っていた方も、よくお読みになってください。
上記の、なぜ参拝するのか、という問題とも関わりがあるのですが、誰でもどこにでも無制限にお参りすることは、少し考え直さなければなりません。
よく神社は人によって合う合わないがある、と言いますが、「神」の概念を改めて考えてみる必要があります。

仏教には十界互具(じっかいごぐ)という世界観があるのですが、この考え方の前提として、神は人間が徳を積んで能力を高めたものであり、神の中にもいろんな段階があって、悟りを開いた完全無欠の存在ではない、という考え方があります。

「十界互具」を丸々説明すると完全な仏教説話になってしまい、長くなるのでここでは割愛しますが、「十界」の世界観というのは、上から順番に「仏、菩薩、縁覚、声聞、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄」です。

六道輪廻(ろくどうりんね)という言葉を聞いたことがあると思います。この六道とは仏から4番目の声聞までが悟りの世界で、それ以下の世界が六道です。この六道世界にある者は、まだ悟りを得ていない段階なので、良い行いをするよう心がけないとすぐに転落してしまい、また這い登ってくるのに苦労しなければなりません。

十界 段階
仏(ほとけ) 四聖(ししょう)
悟りを開いた世界

※教えとして四聖諦の理ことわりなどがある。
菩薩(ぼさつ)
縁覚(えんがく)
声聞(しょうもん)
天(てん) 六道輪廻の世界
生まれ変わってはまた苦楽に翻弄される

※教えとして四苦八苦、十二因縁の理(ことわり)など。
人(にん)
修羅(しゅら)
畜生(ちくしょう)
餓鬼(がき)
地獄(じごく)


天界(神の世界)は未だ悟りの世界ではなく、徳力を落とすと人間界とか修羅界とか、ランク落ちしてしまいます。この天界〜地獄界の六道の中で、転落したり這い登ったりしながらぐるぐる生まれ変わる危険性を秘めているので、六道輪廻というわけです。

ですから、神様は万能ではなく、神様自身も良い行いをするように常に心がけ、修行をしなければなりません。このあたりの世界観を描いたのが、三島由紀夫の「天人五衰」です。神様でいるのも、けっこう大変なのです。

徳の取引は難しい

そこで神様は、徳力を高める為に何をすれば良いかというと、良い人を助け、悪い人を懲らしめる、ということになっています。世の中をよくする為には、なるべく善人が力を持ち、悪人が滅びるのが望ましいのは、誰でもわかりますね。

ところが話はそう単純ではありません。ここに、先ほどの「十界互具」という絶対原則が出てきます。この十界互具というのは、十の全ての世界の中に、またそれぞれ十の世界観を具えている、ということです。ですから「十の世界を互いに具える=十界互具」と言います。

ということは、神の世界(天界)にも仏に近い神から地獄に近い神までいるわけで、それは私たち人間世界でも同じです。
神の世界でも、仏や菩薩が、他の世界をよくする為に、便宜上、姿を変えて降りてきている場合もあれば、地獄や修羅道のような神も存在するわけです。

筆者はこの十界互具という世界観が大好きで、いろんなものの中に全く違う段階、違う面を見出すことを楽しみにしています。1人の人間でも、単に良い人、悪い人という区分けではなく、良い面と悪い面がありますが、これを仏や菩薩になぞらえたり、境地を落とすと地獄、餓鬼、畜生になってしまいます。

ただ純粋に、困った人を助けてあげたい、という仏や菩薩の境地になることもあれば、食欲、性欲に支配されてどうにもならず、餓鬼畜生に変じてしまう時もあります。餓鬼というのは飢えた鬼ですから、人のものを盗んででも食べたいという境地、畜生はだいたい性欲が大きく支配しますから、恋愛は人を簡単に畜生道に落とします。

他の段階でもいろいろ面白い話があるのですが、今回は神様の話ですから天界に限定すれば、天界というのは、だいたいが取引の世界です。
キリスト教でよく「徳は天界に積め、徳が財産だ」という話がありますが、これはいわば、徳をまるでお金のような感覚で取引をしているようなものです。人間界の現金は死んだら持ってゆけませんが、徳ならば持ってゆけます。困っている人を助ける、恵みを施すという意味でのボランティアなどが、この徳貯金の代表選手で、キリスト教世界で多いですね。

あれ?そうなると、ただ困っている人を助けるっていっても、やり方が難しいなあ…それって本当に立派なこと?と思われた方も多いでしょう。そうです、人を助けるということは、大変難しいのです。また、そんなに取ったり取られたりするのって本当の徳?徳っていったい何よ?という疑問も出てくることでしょう。

そう、ここらへんに、西洋文明と私達が何となくどっぷり浸かっている価値観とのギャップがあります。
良いことをしている積りが、実際は徳取引になっていて、施しをする人はいつも施す側、恵んでもらう人はいつも恵まれる側なのでは、本当に助けることにはなりません。ですから、付け焼刃で真似するものではないのですね。
なんだか難しい話になってしまいましたが、天界というのはこの「徳」に関わる複雑微妙な駆け引きが存在するので、けっこうお付き合いが難しいのです。

十界互具の話に戻せば、このように、一つの世界にもいろんな段階があるので、筆者がよく言うのは、人間はすべてグレーの存在であることを認める、ということです。真っ白な人も真っ黒な人も居ないので、大切なことは、常になるべく白の方向に行くように意識して努力したいものだ、ということです。

もう少し具体例を挙げますと、有名な十界互具の代表選手の1人に、お地蔵さんがあります。
お地蔵さんというのは正しくは地蔵菩薩なのですが、観世音菩薩など他の菩薩のように着飾ってはいません。修行僧の姿をして飄々とどこにでも現れ、小さい子供を担当し、時には地獄にも現れます。
地獄は閻魔大王の担当なのですが、閻魔大王とは実は、仏様が地獄に堕ちた者を教化する為の、仏の地獄バージョンです。何せ地獄に堕ちるようなロクでもない者ばっかりですから、舐められないように、いかにも怖そうな顔と仰々しいコスチュームで、罪人を裁くという仕事をしているわけです。

ここで話している神の世界(天界)にも、たまに悪人を助けてしまう、心得違いの悪神も存在するわけですから、油断できません。

どこに参拝すれば良いの?

そこで神様に人間が関わる場合には、なるべく良い神様とお近づきになりたいわけですが、人間には神様を見分ける力がありません。
そこで大きな目安になるのが、「血筋」です。

神様は別にお願いロボットではなく、感情や考えがあって、どの人間を守るか守らないか、エコヒイキみたいなものも出てくるわけです。ですから「神様って人間を守る為にいるんだろ、だって神様なんだから。ちゃんと仕事しろよ」なんて、愚かな事を言ってはいけません。そんな認識しか出来ない人は、たぶん閻魔大王の担当になります…いや、畜生道ぐらいでしょうか。

そんな、神様万能幻想から抜け出せたら次に、自分が万が一の時には誰を助けるか、を考えてみると良いでしょう。
やっぱり一番先に、子供とか連れ合いとか親とかの、身内ですよね。
だから、一番先にどこの神社仏閣にご挨拶をしなければならないかというと、自分のルーツ、産土神です。

どうやって調べれば良いのか分からない、という人はまず、生まれ故郷とか慣れ親しんだ土地がある場合は、そこで有名な大きな神社仏閣を思い出してみてください。
神社でも寺でも、どちらでも結構です。いわゆる土着信仰とか自然神的な神道ではなく、仏教と融合した神道の話をしているので、鳥居をくぐりたくない特定宗派の方は、この話には関係ありません。

故郷がどんな宗教的色合いを漂わせているのかが分かったら、次に自分の住んでいる場所で有力な、神社仏閣を地図など使って探してみて下さい。

祭神の血筋を見る

最近は、ある程度の神社仏閣はだいたいホームページを公開していますから、そこで祭神を見れば、古事記や日本書紀に基づいた祭神の血統がだいたいわかります。
私達はたぶん、知らず知らずのうちに、自分の生まれ故郷の産土神と同じ血統の土地神の土地に住んでいます。また、そうしたほうが、運気も安定しやすいのです。いわゆる、ご先祖様が守ってくださる、というのはそういうことです。

古事記や日本書紀なんて権力側の都合の良いお仕着せ資料だ、という意見もありますので、地元の伝承などを調べてみるのも面白いものです。祭神はホームページや神社配布の冊子で簡単に分かる場合もあれば、あんまりよく分からない場合もあります。
著名な神社仏閣は資料が多いので調べやすいですが、意外に複雑な場合もありますので、気をつけましょう。ここで重要なヒントになるのは、その神社仏閣の沿革、由来です。祭神として表向きは伊邪那岐、伊邪那美や他の大御所を立ててあったりしても、本当のルーツの祭神は目立たないように併せ祀られていたりします。

複雑な例の一つとしては、神田明神があります。神田明神はもともと「明神」というその名の通り、平将門を祀る、いわゆる祟り鎮めの神社です。しかし、祟り鎮めという怖いイメージとは反対に、江戸鎮守としての崇敬の念を持つ氏子も多く、成田山の逸話ともあいまってなかなかオカルチックな逸話が数多くあります。

この神田明神は、朝敵の扱いだった平将門にこんな場所に居座られては具合が悪いというので、長いこと祭神から外されて、大黒天(オオナムチノミコト)が祭神になっていました。ところがそれでは昔からの熱心な氏子が承知せず、1987年に復活し、この時は、関心を持つ人の間で大変な話題になりました。
神田明神の場合は余りにも有名なので、だいたい知っている人が多いでしょう。しかし、耳学問もなく普段からそういうことに関心の無い人は、ネットとか表面的な資料だけ見て済ましてしまうと、本当のことが分かりません。もし大黒天時代の神田明神を表面的な資料だけ見て済ましてしまったら、本当の因縁は分からないわけです。

しかし一定の年齢になると、自分が住んできた場所がどういう宗教的色彩を持っているか、その繋がりが見えてくる場合があります。はっきりと分かる人の場合は、たぶん生まれ故郷を離れても、そこと同じ系統の神社の縄張りに住んでいる場合がほとんどです。

ただしこれは勘違いしないで頂きたいのですが、こういう筋のことはもの凄く複雑で、白か黒かというはっきりした区別はできません。日本や世界の歴史を思い出していただけば分かりますが、敵方にあえて自分の血筋を入れようと政略結婚を画策してきた結果、敵と味方が複雑に入れ混じっていたりします。また、ある宗教が勢力を拡大しようと、全く違う文化圏に、あえて大きな宗教施設を強引に作ったりします。

そんな中で、自分のルーツや信仰の筋がくっきりと浮かび上がって来る人は、いろんな意味で神仏に縁が深いのでしょうし、またそのぶん目に見えない責任も背負っているのかもしれません。
少なくとも筆者自身は強くそう感じています。

一般の方は、まず自分のルーツを大切にすること、また普段住んでいる土地を出来るだけ発展させて住みやすくし、土地神様の守護を受けられるように考えるのが第一です。
たまに遠出をするのでしたら、自分のルーツの本山に参拝するのが良いでしょう。

神仏コレクションはタブー

一番いけないのは、神社仏閣コレクションです。有名な神社に片っ端から行きまくって、いろんなお札やお守りをタンス一杯集めている人がよくいますが、物見遊山以上の意味は何もありません。単なる田舎者のオジサンオバサンであって、全く信仰とは縁もゆかりもない人です。

もっと馬鹿馬鹿しいのは「全国ご利益別神社仏閣一覧」みたいな情報。まあ中の人も、参拝客を集めなければ商売にならないのは分かりますが、縁結びを謳っている神社が本当は祟り鎮め社だったり、厄払いを謳っている寺で厄年一覧を見ると、毎年何かの厄年にあたっていて、常に厄年大売り出しだったりするのには笑ってしまいます。

神社仏閣が栄えるのは良いことだとは思いますが、お参りする人の意識や態度にも問題があると思います。ですから、行けば心が改まって背筋が伸びてシャキッとする、行って良かった、と思える神社仏閣になるよう、お参りする人の一人一人が正しい知識を持って、日本人の信仰として、観光ではなくきちんとお参りされると良いと思います。

その2、正しい参拝のしかた

「2014年11月記述」

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