風水学講座:目次

「祈る」とはどういうことか?


意外に難しい哲学的本質的な問題をはらんでいるので、今回じっくりと考えてみることにしました。
祈りとは、祈願、祈念というように、何かを願うとか望むとか、はたまた、願うことをもう一段階、更に強く願うというような解釈が一般的だと思います。

神社仏閣にお参りしたり、普段の生活の中でも、この祈りをどう捉えるかが一番重要です。仏教や神道の中で、祈る、願うとは、どういう位置を占めているのでしょうか。

あくまでも筆者の勝手な考えなのですが、何かを求める為の「祈願」、言ってみれば現世利益を叶える手段としての祈願は、本来は宗教の真の目的ではないような気がします。それは、氏子や檀家を集めて勢力拡大をはかる中で、布教の為の方便として、願いを叶える祈祷なることが不可欠になった為、「祈り」が一般的になったのではないか、と考えています。
あいにくと大漢和が手元にないので漢字の語源を調べることが出来ませんが、ご興味のある方は、漢字の成り立ちから調べてご覧になると一興かもしれません。

もちろん、仏典は一つの哲学書ですが、ストーリーがありますし、この教えを信ずる者はこういう利益を受ける、と書いてあります。
「のりと」(後述)は神と人間の対話で、超自然的な存在に、人間の願いの「お取次ぎ」をする文言があります。

しかし、だからと言って、強く望む、希う(こいねがう)のが、宗教者の目的として正しいことなのだろうか、という疑問があります。

ありがちな啓蒙

少しヘンな話なのですが、こういう話があります。
「お金が足りない、お金が欲しい、ものすごく欲しい」と強く希望すると、これは果たして叶うでしょうか?

答えは「ノー」です。
お金が足りないので欲しい、欲しい、欲しい、と強く願えば願うほど、実現されるのは「お金が欲しい」という状態であるわけで、お金がある状態になるわけではありません。
むしろ「自分は金持ちになることを知っている」でなければならないわけです。「信じている」ではまだダメで、金持ちな自分の実現は当然のこととして、既に知っている、でなければならないのだそうです。

もうこの手の話は、潜在意識理論の啓蒙書やら何やらが沢山ありますし、ちょっとしたセミナーなんかで幾らでもやっていますので、ご存知の方が多く、既にゲップが出ている方があるやもしれません。

これはこれで、自分で実現を信じて疑わず、その為の努力おさおさ怠りなければ、実現する可能性も高いでしょう。

しかし一歩考えを進めれば、まだそれでは弱いのです。「金持ちになることを知っている」のは悪いことではありませんが、このへん、どうもまやかしっぽい感じがありはしないでしょうか。

筆者の考えでは、たぶん「金持ちな存在」というのがそこにあるのは、まだアマチュア?(笑)なのではないか、という気がします。ある段階ではそういう過程もあるでしょうが、信じきる、知っている状態になるのは、なかなか一般人には難しいと思います。

そこで、どうしても「祈り、祈願」になってしまうのでしょうが、せっかく祈るのならば、願望に捉われてはダメで、分かりやすく言えば無我の境地になることが必要です。
「我」や「願望」がそこにあっては、通る祈りも通りません。こんな高尚っぽい話でなくても、だいたい人間の不幸の原因のほとんどは「我」です。

無我の境地って出来る?

この無我の境地という言葉も、俗っぽい割りに具体性がないのは「祈る」と同様です。単にボーッとしているのは無我の境地とは言いませんし、座禅を組んでいたら眠っちゃったあ…というのと大して変わりません。

「神様に祈る」というのは、一心不乱に努力をする、集中力を高める為の一つの手段としてはなかなか良いと思いますが、そこにはまだ祈っている自分、叶えて欲しいお願いが強く存在しますので、「我」が邪魔をしている状態です。

筆者がお参りする時に題目や称名を唱えたりお経を上げるのは、習慣もありますが、何かを強く願うよりも、そのほうが無になれて気持ちが良いからです。何もせずに我に捉われずピュアになるのはとても難しいことですが、読経していれば余計なことは考えません。
お願いに捉われてはいけないからと、(今日の晩御飯は何にしようかな)などと考えるのは余りにつまらない雑念ですが、広大な教えの書かれている経典を唱えることに集中していれば、わりとスムーズにできます。

何かのSF小説だか漫画だったか、たぶん筒井康隆の七瀬シリーズだったかと思いますが、敵に意識を読まれてしまって居所がばれるので、頭の中を空っぽにするように努力する、という場面が出てきます。
もちろん、つい自分の存在とか目の前にあるものとか、これからどうしようと考えてしまい、頭を空っぽにすることが出来ません。そこで、主人公は、「海」を思い浮かべます。海の力は偉大で、広大で力強い「海」を思い浮かべることにより意識を読まれることを逃れ、あやうく危機を脱します。

SFの話に飛んでしまいましたが、早い話が、我を無にする為には、何かに集中すればよい、という話です。それも、あまり日常的なつまらないことに気を散らさずに、読経をするのが一番、ということなのです。
読経も、慣れてスラスラ読めるようになるといろいろ雑念が出てくるという人があります。しかし、少し慣れた程度で雑念が出るのはまだ、一定方向に集中する習慣ができていない、ということです。

「禅定」へ

何かに集中するとか、一定方向へ向かう努力をする、と言いましたが、簡単に言うと、これを「禅定」(ぜんじょう)と言います。
またこれも誤解されやすいのですが、集中して一定方向へ向かうというのは、そのことに執着することと混同しやすいものなのです。執着し囚われるのではなく、集中することで自我を忘れるというのが重要なのです。
「これが出来ないと困るう〜」と懸命に努力するのは、まだそこに自我とか自己の都合があるので、禅定とは言いません。それは執着であり迷いです。もちろん、出来ないと困るので集中努力した結果、気持ちよく禅定の段階にまで到達できる人も多いでしょう。筆者もそういう経験があります。紙一重の差のように思えますが、実はこれは決定的な違いです。
筆者にとって「祈り」の内容が読経そのものであるならば、その祈りの究極の目的は「禅定」(ぜんじょう)です。
禅、というとすぐに座禅が出てきますが、座禅は禅定の為の一つのスタイルでしかなく、むしろ座禅で禅定を得るのは難しいのです。筆者は座禅よりも、スポーツや芸術に没頭するほうが禅定を得やすい性質です。

ただ注意しなければならないのは、禅定ということじたい、そう簡単に理解できたとか到達した、というものではない、ということです。特に、言葉で理解するものではありません。最近はネットで検索すればすぐに、wikipediaなどのそれっぽい回答が出てきますが、そんな解説を読んだからと言って、禅定が分かったとは思わないことです。
筆者が述べていることにしても、あくまでも現在の筆者の理解の範囲ですし、全く的外れなことを言っているかもしれません。

神仏とのかかわりとか、宗教的な学習は、簡単にマニュアルや答えの得られる世界とは対極にある、曖昧かつ主観的なものです。
しかし今回述べた「禅定」は、宗教の種類、宗派にかかわらず、ある意味で宗教者の大きな目的となる、深い広大な概念だと、筆者は信じています。禅定は別の言葉では「止観」(しかん)とも言いますが、少なくとも、言葉でうまくまとまった説明をしてもらって、分かった積りになるような愚は犯さないようにしたいものです。

祈りは禅定であるべき、禅定をめざすべき、というのが筆者の考えであることを述べて、今回の章を終えます。


神社仏閣ミニ知識

・神社は気が清浄なのは何故?

確かに清浄ですが、これには当然の理由があります。まず一番安定した良い立地にある場合が多く、自然も豊かです。更に神社仏閣の建築物は普通の建物とは違い、寺社用の建築方法を取ってあります。
今でも残っている筈ですが、宮大工(寺社大工)という職業があります。また敷地には大量に埋炭するなど、独特の建築法があるので、神社仏閣は気が清浄なのです。

・おみくじはどうする?

お参りが済んだら、「おみくじ」を引く方も多いでしょう。おみくじは「吉か!凶か!」の丁半博打ではありません。神仏からあなたに向けての具体的なアドバイスです。
「○○に関してアドバイスをお願いします」とか何とかゴチャゴチャ言わず、何も考えずに引きましょう。余計なことを考えると魔が動きますから、正しい答えが得られません。もちろん、凶が出たからと引き直すなどは論外です。

吉凶も気になりますが、重要なのは内容です。多くの場合、和歌の形で主文があり、解説っぽい文もあります。細かいことよりも、この主文の意味を素直に受け止めましょう。

そして、引いたおみくじを境内の樹に結び付けてある光景をよく目にしますが、あれを目にするといつも「馬鹿なことをするなあ」と思ってしまいます。
せっかく頂いた教えを捨ててしまうなど、とてももったいないと思います。結んでいく人はたぶん、出たおみくじが気に入らなかったとか、その後に生かす気持ちがないのでしょう。でも、気に入らないからとゴミ箱に捨てるのも憚られて、バチでも当たったら困るからと、全てを神社に押し付けて帰るのですね。
樹が傷みますし、神社のほうでも迷惑です。

筆者はおみくじに日付と場所を記入して、アルバムに貼って保存しています。後で見返すと、その時に何故、どんな状況でお参りに行ったかが思い出されますし、おみくじの内容とその後の自分の推移を考え合わせると、なかなか興味深いものがあります。

・忌中には神社に行ってはダメ?

忌中と言ってもいろいろあり、身内のお葬式を出して○日は喪中ということになっています。これは黒不浄というそうです。

もう一つは赤不浄と言って、生理中の女性は神社の境内に足を踏み入れないことになっています。巫女さんも生理中は原則お休みしますから(正確には知りません)参拝者も控えたほうが良いでしょう。
こういう世界には、男女同権なんて概念は存在しませんが、いわゆる「リベラル」な人々は、神社仏閣に参拝というような不合理な行動はお好みではないようですから、問題ないと思います。

・祝詞と寿詞

神主さんが神前で朗々と読み上げられる「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ…」というあれ、この文言は「はらえことば」といい、ごく一般的には「祝詞=のりと」のひとつと言うことになっています。しかし厳密に言うと、本当は違うのです。

いや、もう一般的になっていますから、絶対に間違いだ、と主張する積りはありませんが、本来はあれは祝詞ではなく、寿詞(よごと)と言います。

これは神道とか神社の成立に係わりが深いので、ここで改めて書きますが、私達が現在目にする神道は、神社という形のある建築物とそこにおける祭祀や儀式形態をもって、神道と言っています。
しかし本来は神道にはいろんな形態があり、ある程度の年齢の方はご存知のように、自然界にはそれぞれ自然を司る神が存在し、自然そのものが神である、というような考え方が、日本には根強くあります。古木がご神体になっているのはよく目にしますが、あれは樹木に神がかかるので、樹木をご神体として礼拝したものです。

そんな中で、人間に神が降りて、人間の口を借りて神の意志を伝える、ということが神道の一つの形態としてありました。
似たもので皆さんが思い浮かべるのが、恐山のイタコとか、いわゆる「口寄せ」ではないでしょうか。あれは亡くなった祖霊を呼ぶというので、世界各国にこの手の人々が存在するようです。

祖霊ではなくて神を降臨させるのが巫女=シャーマンの役割でしたが、この神からの言葉を「祝詞=のりと」と言います。
つまりここでのポイントは、上から下へと賜るお言葉が祝詞だということです。
反対に、下位にある人間側から上位の神へ何か申し述べるのは、「寿詞」(よごと)と言います。

上下関係とか格というのは、神道では守らなければならない重点的なポイントですので、こういう方向性を間違えてはいけないのです。しかしいつの間にか、神主さんが唱えるのは全部、「祝詞」という認識になってしまいました。

同じように、天皇から臣下へ賜るお言葉も「祝詞」で、臣下から天皇へ申し述べるのは「寿詞」です。天皇は現人神(あらひとがみ)なわけですから、こういう別は厳としてある筈なのですが、こういう文化もだんだんと消滅してしまうのは残念なことです。

前はマスコミで皇室関係のニュースを読む時には、天皇家には天皇専用、皇后専用、宮家専用という特殊な敬語があり、それもどっちからどっちへという方向によって違うので、アナウンサーがとても緊張していました。
ところが近年になってNHKで「天皇は○○しました」と全く普通の敬語もつけずにニュースを読んでいるのを見て、びっくり仰天。昨年あたりからまた少し、普通の敬語程度は使うようになっているようですが。
祝詞と寿詞の別は皆さん覚えておいて、知ったかぶりをしてみるのも一興です。

・一日に二箇所、違う神社にお参りしてはいけない?

これはよく言われることですが、半分当たって半分違っています。
前に述べたように、神社には血統がありますので、同じ血縁の神社ならば、二箇所お参りしてもOKです。
三箇所以上だと、まあそんなに欲張ってもしょうがないので、時間的に十分な余裕があるなら、いけないとは言いませんが、夕方慌てて行くようなことでもありませんし、状況次第でしょう。

全く違う系統の神社仏閣だと…やめておいたほうが無難です。皆さんは、神社仏閣関連の正確な知識はなかなか得にくいと思いますので、わからないならやめておくことです。
東京である神社の傍に住まいがあり、その神社の本山の近くに生まれ故郷がある、などは、系統がはっきりしています。里帰りして本山にお参りし、帰りに「本山にご挨拶に行ってきました」と近所の神社にご報告に行くなどはいいですね。

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「2014年11月記述」

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