◆本題の前に、小さなお知らせ。 命式一覧表をやっとアップして、これで使いやすくなった、と自画自賛で喜んだのも束の間、節入り日の見方は相変わらず難しいのは分かっていた。 もう少し何とかならないか?と考えてたら、何のことは無い、節入り日を節入り前と後の二行に分けて書けば解決、ということに気づき、また手直しにかかる羽目に(ハアー)。 まあ何でも、分かってしまえば簡単な話なのだが、何か作る時って、こういう事は日常茶飯事なので、しょうがないですよね。ボチボチ直しにかかりますが、とりあえず直しが完了するまでは今のままで出しておくので、しばしご猶予を。 更にこれのバージョンアップ版も考えているのですが、それはまた後日ということで。
◆元はAIの話から 本題の魯迅の話なのだが、なぜ急にこんな話題を持ち出すかというと、AIの事を考えていたら、芋弦式の思考の結果、魯迅が出てきてしまったのだ。
元々は生成AIのハルシネーション=つまり幻覚や誤った考えが、なぜ起きるのか?という疑問だった。 単純な話、LLM大規模言語モデルが、ネットから収集したデータを元に組み立てられているとなると、ネットには大量のデマや妄想が流布しているので、そこから生み出されるものも、嘘八百が混在していて当然ではなかろうか?と単純に考えることが出来る。 最も稀少性のある情報は、どこの組織でも大切に保護していて、外部に公開しているものは一部でしかないだろう。無料でバラまかれているデータは、内容も薄く、あまり価値のないものが多いだろう、という考えに至るのは当然だ。
現にOpenAIでは、既にデータは使い果たした、と言っているそうで、次はどこからデータを引っ張ってこようか、と考えているそうだ。noteでクリエイターが自分のコンテンツをAI向けに使用許可を出せば一定金額を配布する、といったプロジェクトをやったのもその一環。 この問題は今後どうなるかは分からないが、今回私が考えていたのは、そういう話ではない。
AIの利用が進めば進むほど、ネットにはAIが作ったコンテンツが増える。 それをまた、AIは収集して話を作り上げるわけで、これは言ってみれば、言い方はきついが「AIの共食い現象」である。 AIはほどなく崩壊する、と言っている人々の論拠もこのあたりにあるらしい。AIが共食いを始めると、ハルシネーションが増え、結果的に予期せぬ暴走を始めてしまうのだそうだ。
SFの世界では、もうだいぶ前からコンピューターが自我意識を持つとか、暴走し始める、と言ったテーマが取り上げられていた。 このテーマでの大御所たる「2001年宇宙の旅」(アイザック・アシモフ)とか「月は無慈悲な夜の女王」(ロバート・A・ハインライン)などが有名だが、筆者なんかは若い頃に夢中で読んだディーン・R・クーンツとか、マイクル・クライトンなんかを懐かしく思い出す。 マイクル・クライトンなんかは、1960年代から素晴らしい空想科学小説を書き続けていて、筆者にとってその時代に新しい知識を仕入れるには、並ぶもののない存在だった。初版単行本で読んだ「アンドロメダ病原体」の描き出す世界なんかは、今やっと、現実が追いついてきたか、という感じだ。 「ウエスト・ワールド」なんかは映画化もされて、今見てもゾクゾクするほど面白いし、ディーン・クーンツの「デモン・シード」のヤバさはなかなかのもの。ヤバいのばっかり挙げるのもナンなので、一般人には「アンドリューNDR114」(ロビン・ウイリアムズ主演)なんかお勧めしておく。
こんな話になると、脱線が留まるところを知らなくなるので本題に戻るが、共食いによるハルシネーションの暴走は、AIが自分自身の間違った回答を再度学習し続けることにより、その間違った答えが際限なく拡大し続けていく可能性を秘めているのだそうだ。
簡単な例を挙げると、私たちが現在、youtubeで猫の動画を見るとする。生成AIは茶猫が2本足で立ち、前足2本で器用にモノを操る動画を作ったりする。なかなか面白くて再生数も伸びるので、更にAIはこの茶猫の画像を学習する。 そうするとだんだん、「猫とは茶色で、後ろ足で立ち、前足で器用にモノを扱い、人間を助けたりするものだ」という認識が、既成のものとなってゆく。実際にはそんな猫は少ないのだが、AI全盛の世界では学習数の多さから、この認識がデフォルトになってゆく。 これはあくまでも、「普遍」とされるものに歪みが生じてゆく一つの例なのだが、筆者はある時ふと「AI共食いが危険である」という話を、「人間が人間を食べることの問題点」と関連づけて考えたことがあった。
◆なぜ「人食い」が禁忌なのか やや突飛な連想かもしれないのだが、筆者が前々から、「人間が人間を食す事が禁忌なのは何故か」という問題の根本的な回答を探していた、という背景がある。 なんでそんなもの探してるんだ?と思うかもしれないが、とにかく自分の中に、疑問の種として存在していたからだ。 有力な回答例として「同種を食べると、遺伝病が出やすいから」というのがあった。なるほどこれは、近親婚が法律で禁止されていること、近親婚の多い地域や家系では奇形が増えやすいことを考えても納得しやすい。
そこに来て最近とみに、中国情勢の不安定さが伝えられ、ある地域で若者が大量失踪した後に、市場で謎の肉が大量に販売されていた、などという、リアルホラー現象のニュースをしばしば見かけることが多くなった。 こういうニュースが目に入ってくる原因として、筆者自身がクリックするコンテンツに偏りがある、という原因は否めないので、この対策はもう少し徹底せねば、と思っているところなのだが、この問題は今回は横に置いておく。
そこでもう少し、食人に関する資料を漁っていたら、魯迅の代表作の一つである「狂人日記」が目に止まった。未読だったので早速読んでみたが、何となく「狂人」というのは一種の隠れ蓑でしかなくて、ほぼ事実なのではないか、とも読める。
しかし筆者はこの「狂人日記」を読んで、自分自身の考えや認識が、まさに平和ボケの低レベル日本人でしかなくて、余りに狭くて偏っていた、という気がして、頭を掻きむしりたくなるぐらい、恥ずかしくなってきた。
「なぜ、人間が人間を食べてはいけないのか?」に対する自分自身の考えは、前述の遺伝的な原因とか、漠然とした道徳観念の域に留まっていたからだ。 魯迅描く主人公は、こう述懐する。
◇ ◇ ◇
自分で人を食えば、人から食われる恐れがあるので、皆疑い深い目つきをして顔と顔を覗きあう。この心さえ除き去れば、安心して仕事が出来、道を歩いても飯を食っても睡眠しても、何と朗らかなものであろう。ただこの一本の敷居、一つの関所があればこそ、彼らは親子、兄弟、夫婦、朋友、師弟、仇敵、各々相知らざる者までも皆一団に固まって、互いに勧めあい牽制しあい…(後略)
わたしはどんなに口を抑えられようが、どこまでも言ってやる。 お前たちは改心せよ。ウン、分かったか。人を食う者は将来世の中に容れられず、生きてゆかれる筈がない。お前たちが改心せずにいれば、自分もまた食い殺されてしまう。仲間が殖(ふ)えれば殖えるほど、本当の人間によって滅亡されてしまう。猟師が狼を狩り殺すようにーー虫ケラ同然に。
想像することも出来ない。 四千年来、時々人を食う地方が今ようやくわかった。私も長年、その中に交じっていたのだ。アニキが家政の切り盛りをしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に混ぜて、私どもに食わせたことが無いとも限らん。私は知らぬままに何ほどか、妹の肉を食ったことがないとも限らん。現在いよいよ、おれの番が来たんだ… 四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。
◇ ◇ ◇
この作品で描くところの「人食い」はあくまでも比喩であって、人を人とも思わぬ搾取システムが幅をきかせる社会のことである、という解説が多い。 しかし筆者は、「人食い」は比喩にみせかけた事実であり、逆に事実のような比喩でもあって、同時に「狂人」というのも、正常とされる人々から見れば狂人に見えるが、狂人から見たらいわゆる正常人が狂人ということなのだろう、と思っている。
まさに、筆者が考えていた「人を食ってはいけない」理由なんて、平和ボケそのものであって、「人食い」があり得たら、社会というものは成り立たないのだ。この一番肝心な部分が、脳裏の片隅にも過らなかった自分の浅はかさである。
魯迅は人を救おうと、いったんは医学を志したそうだが、ある体験を通じて、肉体の病気を救っても精神が病魔に冒されたままだったら何の意味もない、として、小説家に転身したという。 「病魔」と言っても、病名のつく鬱病とか統合失調症とかの話ではなく、自分や他人を尊重できないとか、広く社会のルールを守ることが出来ないなど、幅の広い話だ。 この「小説家に転身」部分はまさに、筆者にとっては感涙ものの一撃だった。
筆者は常々、本を読むことは大事だが、半端な教養書とか、ましてや実用書などは本のうちには入らない、と思っている。「本のうちに入らない」とは、言い過ぎのようにも聞こえるかもしれないが、じっさい、心の底からそう思っている。 実用書は単に本の体裁をした道具だから、道具の取り扱い説明書と同レベルと言える。「本」とは文字通り「根源的な真実」のことであって、それが一番効率よく的確に表現されるのは、小説の世界である。もちろん、小説以外でも真実を追求する姿勢で心に迫る本は沢山あるが、半端な教養書は似非本のタグイで一番嫌いだ。
何にでも、魂を吹き込むことは出来るので、筆者は前に一度、DVDラックの取扱説明書に舌を巻いたことがあった。単なる組み立て式の家具についていた説明書なのだが、今までこれほど、説明書を書いた人の、製品に対する知見と真摯な姿勢が窺われ、説明の仕方の上手さを感じる文を見たことが無かった。 他にもそう感じた人が多かったらしく、レビューを読んでみると、「この説明書は、書いた人の頭の良さに驚く」という意見が沢山書かれていた。懇切丁寧な説明書がついているのは日本製品の特長だが、技術力の溢れたぶんが説明書に出た、という感じだった。
こういう例外はあるし、科学書などにも非常に優れたものは多いが、やはり群を抜いて良書が多いのは小説である。 こらへんの話に疑問を持たれる方は多いかもしれないが、今すぐに手っ取り早く言葉で言いくるめても意味が無いので、いつか分かる日が来るといいね、ということにしておこう。
本を読むとは言っても人それぞれだし、私は自分の事を、小説以外の本が読めない病気、と思って多少困っていた。しかし世間には、どうも逆の人のほうが多いようだ。 これはたぶん、私は自分だけがまともで、他の人を狂人だと思っているが、他の人から見たら私のほうが狂人、という図式なのだろう。
狂人の私の考えでは、真の教養、心の栄養となり得るのは、優れた小説が一番だと常々思っているが、よほど信頼した人にしか、この意見は言わない。何せ、狂人は数が少ないのだから、辺りを憚って生活するに限る。 しかし、魯迅に倣って、今後はもう少し言ったほうがいいのかもしれない。
「狂人日記」は短編で、入手もしやすく無料で読めるので、皆さんにも是非読んでいただきたい。
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